第46話「ショーの終わり」

 それから、家族水入らずのひとときを邪魔するのも気が引け、ちょっとお手洗いにとひと言断って控え室から出ていこうとすれば、入り口のところで和泉先輩と鉢合わせしてしまった。

 「よっ」と親しげに片手を挙げて挨拶してくる和泉先輩に向かって、小さく会釈を返す。


「やっぱり君だ。久しぶり。背中は大丈夫だった? 怪我していない?」

「えっ、あ、ご無沙汰しています……怪我はたぶん大丈夫です。それよりこんなところで、奇遇ですね……」

「本当に偶然だね。君、喜多方さんと知り合いなんだ?」

「ええ、まあ……」


 正確には、喜多方さんの義理のお父さんである田代さんと知り合いで、喜多方親子とは今日が初対面なのだが、説明するのに難儀しそうで頷くに留めた。

 和泉先輩は入り口からひょいと奥を覗き、喜多方さんと翡翠くんや瑠璃ちゃんの語らう姿を確認するや、俺へと目配せした。


「少し付き合わない? ジュースくらいなら奢るよ」

「え? いや、申し訳ないです……」

「そんな遠慮しないでよ? 私、ずっと君にお礼したかったんだから」

「お礼?」

「そう、お礼。体育祭で迷惑かけちゃったからね」


 なおもお礼なんて必要ないと固辞していたものの、結局は和泉先輩に押し切られて控え室から連れ出されてしまった。

 まあ、喜多方さんたちへはお手洗いに行くと言っていたのだから、席を外す口実が違ってもさしたる支障はあるまい。

 和泉先輩は俺を連れて、近くの自動販売機までやって来た。雨避けであろう色鮮やかな庇の下、数種類の自動販売機がズラリと並んでいる。

 もっとも手近の自販機に硬貨を入れた和泉先輩から好きなものを選べとせっつかれるので、渋々コーラ缶のボタンを押す。程なく、ガコンと音を立ててコーラが取り出し口に落ちてきた。

 俺が手にしたコーラの缶を見やり、和泉先輩は目元を緩めて楽しそうな笑い声を上げた。


「やっぱりコーラ好きなんだ? 体育祭で私にくれたのもコーラだったし」

「ええ、まあ一応……」


 ニコニコ上機嫌に肩を揺らす和泉先輩が選んだのはコーヒー、それも無糖だから驚いた。信じられない。見た目に似合わず、えらく渋いものを選ぶのだな。


「さあさあ、早いとこコーラ飲みな。今日暑いから、すぐ温くなっちゃうよ」

「はい。あの、奢ってもらっちゃって、本当にすみません」

「ううん。元はと言えば、先にコーラを頂いちゃったのは私だしね。借りを返せて良かったよ。体育祭ではありがとう」


 缶のプルタブを押し開ける和泉先輩に倣い、俺もプルタブに指を引っ掛けて飲み口を開けた。缶を傾けると、弾ける炭酸が喉を伝っていく。

 思いがけずも喉が乾いていたみたいで、ゴクゴクとコーラを流し込むように飲んでいれば、火照った身体も幾分冷えた。

 小さな子どもである瑠璃ちゃんや翡翠くんには、こまめに水分補給をするよう気を配っていたが、長いこと屋外に居るせいで、どうやら俺も水分を欲していたらしい。


 傾けていた缶を元に戻して、ホッと人心地ついていたとき。ブラックコーヒーを飲む和泉先輩の横顔が視界に入った。視線は自ずと右頬へと吸い寄せられる。

 そこには傷ひとつないきめ細かな白い肌が広がっていて、体育祭での負傷は跡形もなくすっかり消え去っているようで密かに安堵する。

 しかし、長時間ジロジロ不躾に顔を見られたら誰だって良い気はしないものだ。缶を唇から離して双眸を細めた和泉先輩とばっちり視線が交錯し、慌てて面を伏せる。


「なーに? 私の顔に何か付いているのかな?」

「いっ、いえ……何も。綺麗なものですよ」


 目を真ん丸に見開いて驚きを露わにする和泉先輩を前に、ハッと口元を手で覆う。あっ、これは失言か。

 体育祭にて、激昂した同級生の女子にぶたれて赤く腫れていた頬も、すっかり綺麗に元通りとなって安心したと、俺は和泉先輩に言いたかったのだ。

 だが、俺の発言を思い返すと、変な意味で捉えられたかもしれない。いや、和泉先輩の顔立ちは紛れもなく綺麗ではあるけれど、単なる学校の知り合い程度の繋がりしかない俺なんぞが、ことさら言い募る理由はどこにも存在しない。言葉が足りないにも程がある。


「すみません……おかしなことを言ってしまって」

「いえいえ、別に問題ないよ。君は私に見惚れていたわけだしねえ?」

「見惚っ……!? い、いえっ、そういうつもりじゃ……」

「ふーん? ホントかなぁー?」


 こ、この人、顔いっぱいにニヤニヤ笑いを浮かべ、俺をからかって遊ぶ気満々だ。

 早急に話題転換でもして、和泉先輩には俺のおかしな失言を今すぐ頭の中から消し去ってもらわないと。周囲を見渡し、即座に思い付く。あからさまな話題が目の前に転がっているではないか。


「あの、先輩って、ヒーローショーのバイトされているんですか?」

「うん、MC……ショーの司会進行をちょっとね。結構サマになっていたでしょう?」

「はい。何ていうかその、凄く司会のお姉さんっぽくて……いや、実際に本物なのか……。とにかく場回しが上手で、観ていて感服しました」


 舞台での和泉先輩は余裕ある話しぶりはもちろん、司会として流れをスムーズに運ぶ様や、ヒーローや怪人たちアクターを見事なまでに引き立てる役回りをしっかりこなしており、ただただ尊敬に値した。


「おお? えらく褒めてくれるじゃん? へへ、嬉しいなあ」

「俺は事実を言っているまでで……バイト歴は長いんですか?」

「うーん……一年生の頃からだから、まあそれなりにね。私のお祖母ちゃんとバイト先の社長が懇意にしていてさ。その縁から最初の一回はピンチヒッターでの登板だったけど、それからもお呼びがかかって。気付けばベテランの域ですよ」

「へえ、そうなんですか」


 司会のお姉さんなんてアルバイト、普通の高校生をやっていたら巡り合う機会もないだろうから、和泉先輩の話すきっかけには納得がいった。

 お祖母さんからの縁が繋がり、バイトを始めたのなら和泉先輩自身、特撮に対してはさして興味を抱いてはいないのだろうか。俺の周りじゃ特撮の話ができるひとって貴重だから、少し残念に思わなくもない。


 肩を落として、少々意気消沈していたときだ。すぐ近くからチュピチュピと賑やかな鳴き声がする。声のする方向を探ると、自販機側から聞こえてくるような。

 自販機の並ぶ一角へと歩を進めて中を覗き込めば、庇の隅に鳥の巣があった。巣の縁に止まっているのは、スラリとした体の黒い鳥が二羽だった。尾が長くて顔と喉元が赤く、腹部が白いこの鳥の名前は、


「あれっ、ツバメだね。へえ、こんなところに巣を作っているんだ」

「和泉先輩……」


 いつの間にか隣に立っていた和泉先輩もまた、同じように庇を覗き込んで、ツバメの巣を確認しているようだった。


「二羽いるから、もしかしてつがいかな? まだ雛は孵っていないみたいだけど。卵があるかどうかは、ここからじゃよく見えないね」


 夏鳥、渡り鳥であるツバメは春になるとやって来て、夏にかけて繁殖する。秋が深まって寒くなる前に、彼らは新たに誕生して仲間に加わった若鳥たちと共に、暖かな南方へと渡っていく。

 カラスなどの外敵から身を守るため、人間の居住地域に近しいところでツバメは子育てに励むらしい。遊園地は来園客で常に賑わっているため、巣を作るにはうってつけの場所なのかもしれない。


「ツバメ、目がくりっとしてて可愛いね。まるで君みたい」

「えっ、一体どこがですか…?」


 和泉先輩の不可解極まりない言葉には、ただただ閉口する他ない。愛らしいツバメと俺なんかを同一視するだなんて。

 もしや、先輩は目が悪いのだろうか。眼科での検診をオススメする。一度ちゃんと視力を測ってもらったほうがいい。


「ねえ、君のことツバメくんって呼んでもいい?」

「は、はあ? 何でですか?」

「ツバメくんって、呼び方ピッタリしっくりくるしね」

「俺は全然そうは思わないんですが……」


 弱々しく異を唱えるも、和泉先輩は更々改める気はないようで、朗らかな笑みを浮かべて「ツバメくん」「ツバメくん」と何遍も繰り返し呼びかけてきた。

 女性の先輩から「ツバメくん」と呼ばれるなど、後々あらぬ誤解を受けることだけは勘弁願いたい。

 もっとも、高校において和泉先輩との接点はまるでないため、俺の懸念は全くの杞憂に終わるだろうが。用心するに越したことはない。


「おい、咲希。やっと見つけた! 探したぞ!」


 和泉先輩の言動に翻弄され、どっと押し寄せた気疲れのせいか、石畳の地面に視線を落として俯いていたところ。突然、背後からの大きな呼び声を受け、飛び上がらんばかりに驚いた。

 慌てて面を上げて後ろを振り返れば、声の発せられた方角から目立つ風貌の男性がひとり、こちらへ大股で歩み寄ってくるところだった。


 男性のツンツンと立つ金髪と、目つきの悪い三白眼に怯んで竦んでいる俺の傍らで、和泉先輩は呑気に「あれ? 本郷さんだ」と呟いている。

 このおっかないひと、和泉先輩の知り合いなのか。和泉先輩の名前を呼んで、男性は近づいて来たのだから当たり前か。


「もう撤収の時間だから、控え室に戻れって集合かかってる」

「もうそんな時間?」

「そう。片付けの途中で急にいなくなったから、マジビビった」

「ごめんごめん。ちょっと用事ができてね」


 片手を立て、悪びれる風なく謝る和泉先輩に嘆息する男性の視線が、今度は隣に突っ立つ俺へと定められる。睨むように見下され、小心者の俺は当然のごとく縮み上がった。

 明るく染められた金色の髪の毛が視界に入り、恐怖心が加速する。若い男の金髪には良い思い出がない。過去のロクでもないトラウマが尾を引いているせいだった。


「おい、お前……」

「ひっ! す、すみません……!」


 思わず謝罪の言葉を口にしてしまい、あたふたと頭を下げる。しかし、男性から反応はない。

 恐る恐る顔を上げれば、男性は眉根を寄せて何だか不安げな表情で俺を見ており、予想外の態度に面食らう。

 もしかして、恫喝されているわけではないのか。その場でジャンプしろと命じられ、有り金全てを巻き上げられる恐ろしい想像は捨てていいのか。


「背中、大丈夫か?」

「へっ……?」

「ショーのとき、剣が当たっただろ? 怪我でもしていないか心配でな」

「本郷さんもね、あのとき舞台にいたからね。彼、ブルー役なんだ」


 和泉先輩による補足を受け、ようやく腑に落ちた。金髪の男性、本郷さんは喜多方さんと同じ、スーツアクターなのか。

 怪人や戦闘員たちとバトルを繰り広げていたのなら、剣が俺に背中に当たった瞬間も間近で目撃していたのだろう。だから、見ず知らずの俺を気にかけてくれたのか。

 どうやら、本郷さんは派手な見た目に反し、気遣いのできるひとらしい。


「はい、平気です。ちょっとまだ少し痛いかなってぐらいで。あの、ご心配ありがとうございます」

「何ともないならいいんだが。今は平気でも、後から青痣できたりするかもしれないから、用心しとけ。痛みが酷くなったら、早めに病院行くことだな」


 やけに本郷さんがこちらを気にかけてくれるので、俺としては非常に恐縮してしまう。

 本郷さんへの対応に困り、助けを求めるべく和泉先輩を見やれば、クスクスと笑っているばかりで頼りにならない。助力は望み薄なのか。

 当惑を顔中に広げていたら、ようやく笑いの波が引いたらしき和泉先輩が場を執り成すように声を発してくれた。


「本郷さん、心配性だから。でも、無理しちゃ駄目だよ。痛みは我慢しないで、本郷さんが言うように早めに病院行きなよね?」

「いや、本当に大丈夫なので。でも、あの、お気遣いありがとうございました」


 これ以上、知り合って日の浅い和泉先輩や初対面の本郷さんに迷惑をかけてはいられない。申し訳なさで居た堪れないからだ。

 ペコペコと頭を下げながら、この場を辞すべく踵を返そうとしたときだ。翡翠くんが小走りで駆けてくるのが見えた。翡翠くんの後ろからは、瑠璃ちゃんと手を繋いだ喜多方さんが歩いてくる。


「お兄さん、トイレ長すぎ!」

「ごめんごめん。面倒かけちゃったね」


 むくれている翡翠くんの機嫌を取っていれば、和泉先輩と本郷さんが近寄ってきて、「久しぶりー! ふたりとも元気してた?」「翡翠、身長伸びたんじゃないか? 瑠璃も大きくなったな」などと、子どもたちと気安い調子で挨拶を交わしている。


「前と比べたら、ボクだって背ぐらい伸びるよ。咲希子お姉さんとまことお兄さんは相変わらず、元気だね」

「さきこちゃん、まことくん! あのね、あのね。るり、ニンジンたべられるようになったよ。おとなでしょ?」


 翡翠くんや瑠璃ちゃんの心を許したような、ずいぶん打ち解けた態度を見るに、和泉先輩や本郷さんは喜多方さん一家との付き合いも長いのだろう。

 ひとり場違い極まりない部外者の自分は、少し疎外感を抱いてしまったが致し方ない。


 程なく、ステージの片付けに戻るという喜多方さんたちと別れた。俺は仰せつかったお守りを最後まで完遂することとなる。

 喜多方さんは撤収作業やら、まだまだ色々と仕事が残っており、ひとり抜け出すのは難しいみたいで、翡翠くんと瑠璃ちゃんを預かれなかったのだ。


 田代さんは未だにゲームセンターで遊んでいるらしく、瑠璃ちゃんはまだ乗りたいアトラクションがあると騒いで、もうこりゃ最後まで付き合う他ないと俺は腹をくくった。

 結局、空が夕暮れに染まる頃合いまで、俺はふたりと園内を巡ったのだった。


「瑠璃、起きなよ。もうすぐゲームセンターに着くよ」


 翡翠くんに声をかけられても、俺に背負われた瑠璃ちゃんはぐっすりと眠りこけている。子ども特有の熱い体温が背中にじんわりと広がっている。

 コーヒーカップのハンドルをぐるぐる回して、俺と翡翠くんを散々酔わせて満足した瑠璃ちゃんは、おやつのメープルチュロスを平らげると、襲ってきた眠気に誘われてそのまま眠ってしまい、現在に至るのだった。


 くうくうと安らかな寝息を立てる瑠璃ちゃんは一向に目を覚ます様子がない。俺はなおも妹へと起きての呼びかけを止めない翡翠くんを制止し、「寝させてあげとこう」と苦笑を返す。


「ねえ、お兄さん。朝から気になっていたことがあってさ、ひとつ訊いてもいい?」

「うん? 何を知りたいのかな」


 もうじき翡翠くんたちともお別れだ。彼らとはおそらく二度と会わないはずで、疑問を残して別れるのは心残りだろう。

 俺なんかに訊きたいことがあるならば、何だって答えてやろうではないか。もっとも、回答できる範囲に限るのだが。

 ただし、よもやないだろうが、難しい数学の計算式の答えを訊かれでもしたら、返事に窮するのは目に見えている。


「ジャスティスマンって何者?」

「うぇっ!?」

「知り合いなんでしょう、お兄さん」


 答えに戸惑い、俺は無言を貫いた。

 たが、翡翠くんが納得するはずもなく、返事をせっつくように「お兄さんってば」と、服の裾をぐいぐい引っ張ってくるので参った。

 ここは、覚悟を決めねばならぬのか。


「じゃ、ジャスティスマンはね、正義の味方で、街の平和を守るヒーローさ」

「ふーん……ボクはそのヒーロー知らないなあ」


 むしろ知っていた方が困る。

 ジャスティスマンはローカルもローカル、正体を知るものなど数人にも満たないのだから。

 ちゃんと答えを述べたのに、翡翠くんは解放してくれそうになかった。

 他に何を知りたいというのか。間違っても、ジャスティスマンの中身については決して言及しないからな。結局、沈黙に耐えかねたのは俺だった。


「えっと……まだ何かあるのかな?」

「ボクもジャスティスマンに会いたいんだけど、会える?」


 しまった、翡翠くんは特撮好きの少年だ。肝心な事実を失念していた。知らないヒーローの名前を知ってしまえば、姿かたちを目にしたいと願うのは無理からぬ話だ。

 だが、お父さんがスーツアクターとして働いている子どもに、素人制作のヒーロースーツを披露して大丈夫なのだろうか。

 お粗末な出来だね、と冷たい目で見下され、せせら笑われる未来しか想像できない。


「まあ、いつかね。ジャスティスマンも暇じゃないだろうし、都合がつけば紹介するよ……たぶん」

「ほんとっ!? 絶対だよ、嘘つかないでね?」


 念を押すように、翡翠くんは俺に指切りを提案してきた。

 罪悪感を抱きながら若干後悔しつつも、指切りを終えると、用心深い翡翠くんは次なる手段を講じてきやがった。


「お兄さん。連絡先、交換しよう」

「……なんで」

「ジャスティスマンと知り合いなんでしょ、お兄さん。だったら、ジャスティスマンと会える日も分かるでしょ?」

「確かにね……」

「だから、交換しよ?」


 俺は渋々スマホを取り出し、翡翠くんと連絡先を交換する羽目になった。

 もう二度と会わないだろうと油断していたのに、このままではいずれ翡翠くんと再会する日がやって来る。それも、ジャスティスマンに変身した姿でだ。


 鋭い翡翠くんのことだから、俺=ジャスティスマンは露見してしまうかもしれない。彼の祖父には間違いなく正体がバレているのだから、危機感しか抱けなかった。絶体絶命の大ピンチだ。

 来たるXデーに、心して備えようと決意した。

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