第58話「神社に少女」

 夏休みが始まり、数日が経った。だからといって、何も特別なことは今のところ起こってはいなかった。

 外出したのも、真実に誘われて五十嵐兄妹と猫カフェに赴いたことと、ぶっ壊れた眼鏡を新調しに眼鏡屋へと行ったぐらいだ。

 崩していた体調は日ごとに良くなり、負った傷も順調に癒えている。

 ただし、やはり佐藤さんから届いたメッセージには、依然として返信できないでいた。


 鬱屈とした夏休みを過ごしていた俺に変化の兆しが生じたのは、一通のメッセージが発端だった。

 送り主は雫くんで、メッセージの内容は今から会えないかの打診だった。

 もちろん、素の俺で会いに行くわけにもいかず、ジャスティスマンに変身して家を出た。


 夏の盛りにヒーロースーツを纏って、炎天下の中を歩くなんて自殺行為以外の何ものでもなかったが、ここは我慢しかあるまい。

 真実もお洒落の基本は我慢とほざいて、真夏でもフリルとレースにまみれたクラロリファッションを維持しているのだから、兄である俺が暑さを言い訳にしてヒーローを休止していいはずがない。


 体調を崩してダウンしていたときであったなら、ジャスティスマンの格好で出歩いたならば、即座にぶっ倒れる可能性が捨てきれなかった。

 だが、今は何とか調子も持ち直している。多少の無理は大丈夫だろう、そう信じたい。


 待ち合わせ場所は、いつもの河川敷ではなく、雫くんが近くの神社を指定してきた。どうして神社か不可解ではあったが、行ってみれば雫くんから説明がなされるはずだ。

 ヒーロースーツの下はできる限り軽装にし、俺は焼き付く太陽の陽差しから逃げるように、駆け足で神社へと向かった。


 神社の入り口へと到着した頃には、すっかり身体中が汗だくだった。

 背中に張り付く濡れたシャツの不快感にゲンナリしながら、周囲に視線を彷徨わせつつ雫くんの姿を探す。


 どんな地域にもありそうなごくごく普通の小さな神社なので、敷地は決して広大ではなく、こぢんまりとした造りをしている。

 それでも、雫くんをあてどなく探し回る徒労は、この暑さだからできれば遠慮しておきたい。

 色褪せた赤い鳥居をくぐり抜けると、目の前に広がるうら寂し気な境内が見えた。今、どこに居るのか雫くんにメッセージで訊くかとスマホを取り出すべく、顔を伏せたときだった。


 突然、まるで茹だる夏をぎゅっと濃縮して内包したかのような、肌に纏わり付く熱風が背後から勢いよく吹き抜けた。境内に植わる木々が風に揺れて、ざわめくように葉を鳴らす。

 意外と大きな葉音に驚き、取り出しかけたスマホを掴み損ね、誤って落としてしまう。落下したスマホは石畳の上で一度大きく跳ね、あらぬ方角に飛んでいった。

 再び地面に落ちたスマホは、弾みをつけて奥へと滑っていったので、拾うべく慌てて追いかけた。


 身を屈めて拾い上げたスマホは幸いにも、ディスプレイ画面には目に見えるような傷もついておらず、ひとまずホッと胸を撫で下ろす。

 スマホを仕舞い、腰を上げたときだ。拝殿に人がひとり、佇んでいることに気がついた。


 その人物は賽銭箱を前にして、何やら熱心に手を合わせてお参り中らしく、俺の存在は勘付かれていないようだった。

 地上に降り注ぐ太陽光が眩しくて、いまいち姿が分からないけれど、お祈り中の人物は髪の長い女性と見える。


 現在、俺の格好は万人に受け入れられるものではない。境内には不釣り合いなことこの上ない。

 見つかれば最後、不審者が居たと社務所に駆け込まれ、神主さんからひっ捕らえられる可能性も最悪、捨てきれなかった。


 このまま無事に気付かれず、境内から急いで脱出しなければと、強い決意を固めた矢先。

 運悪く、ちょうどお参りが終わったのか、俯く顔を上げた人物は拝殿から踵を返して、背後をゆっくり振り返る。

 そして、ばっちり目が合った。逃亡は間に合わない。

 人物がこちらを向いたことにより、彼女の全貌が目に入った。俺をまじまじと凝視するのは、年若い外国人の少女だった。

 見たところ、十代半ばだろうか。神社には不釣り合いな金髪碧眼の紛うなき西洋人の女の子が立っている。


 今現在は驚きが勝って声を失い、俺をただただ黙って見つめることしかできていないのかもしれないが、じきに正気に戻った彼女から不審者発見と叫ばれるのではと危惧して、思わずギクリと身を固めてしまう。

 今ならば走って逃げられたものを、判断能力が暑さのせいで失われていたとしか思えない。


「あ……」


 少女の唇から小さな吐息が漏れた。すわ悲鳴を上げられる、と頭を伏せて目を瞑り、最悪の事態を覚悟した瞬間。

 急に石畳を駆ける軽快な足音が響き、目前に人の気配が迫った。

 夏の蒸し暑い空気漂う中、不意に清涼感ある爽やかな香りが鼻先を通り過ぎる。


 恐る恐る顔を上げれば、至近距離に少女の姿があって、今度は俺が言葉を失う番だった。

 目と鼻の先にやって来た少女は、大きな双眸をキラキラ輝かせ、まるで食い入るような目で俺を一心不乱に見ていた。


 この様子だと恐らく、通報される心配はなさそうだ。だが、別の不安が一抹よぎる。俺は英語が喋れない。

 あなたは一体何者だと訊かれても、ひとこと「ジャスティスマン」と名前を名乗ることしかできやしない。


 やはり、逃げた方が得策だろうと腰を引き、逃走姿勢に入ろうとしたときだった。

 突如、少女は俺の手を取り、両手で包み込むように掴むや否や、ぶんぶんと上下に激しく振ってきたのだ。

 両手をぎゅっと強めに握られ、これではどこにも逃げられない!


「ひいっ! すみませ、いや、ソーリー? ソーリィー!」

「――あなたは誰? ねえ、教えて!」

「えっ!? じゃ、ジャスティスマン!」

「あなた、ジャスティスマンって言うんだ! 素敵! 素敵なヒーロー!」


 外国人然とした少女は完璧な発音の日本語を操って、俺へと賞賛の言葉を矢継ぎ早にかけてきた。

 呆気に取られるのは俺だけで、興奮した面持ちで喋りまくる少女は、今にも踊り出さんばかりに、過剰なまでの喜びを表していた。何だこの変な外国人は!


 助けてくれと、ヒーローに扮しているにもかかわらず、思わず叫びそうになったときだった。

 視界の端に、呆然と突っ立つ雫くんの姿を捉えた。俺がいつまで経ってもやって来ないから、神社内をくまなく探してくれでもしていたのだろう。今は雫くんだけが頼りだった。


「雫くん、こっちだ!」

「うぇ!? ジャスティスマン、その女の人だれ……?」

「俺にも分からん! だが、こっちに来てくれ! 雫くん!」

「そんなっ! ぼく、怖いのダメだよ……」


 恐怖に怯える俺と雫くんを知ってか知らずか、謎の外国人少女は喜色満面の笑みで、一層はしゃいだ声を出す。


「ジャスティスマン! 彼、お友達? アタシのこと、知りたいんだ? そうなんでしょ!」

「えっ……!?」


 少女は零れんばかりの笑顔を浮かべ、俺の手をがっちり握ったまま、その場でくるりと回転してみせた。

 突然、腕を取られてぶん回され、混乱渦巻く俺が考えられたのは、この子、やはり外国人だからだろうか、仕草が妙に芝居がかっているなあ、という至極どうでもいいことだけだった。


「アタシ、アイノ・オルセンって言うんだ。よろしくね、ジャスティスマン! 雫! アタシのことはアイノって呼んでね!」

「……ああ、どうも」

「えっと、よろしくお願いします……」


 場の混乱がどうにか静まり、俺と雫くんは謎の少女、アイノ・オルセンと自己紹介を交わしていた。

 木陰になっていて、いくらか涼しい拝殿に続く階段に腰掛け、話をしている最中だ。

 神主さんや神社関係者、他の参拝客が訪れないことを切に願う。


 笑顔弾けるアイノは改めて見やれば、とんでもない美少女だった。

 光沢ある絹糸のように目映い輝きを放つ金髪は、腰までの長さで流れるような艶やかさを持っており、零れんばかりに大きな瞳は夏空のごとき明るい青色をしていた。


 真っ白の肌が眩しい顔は造りも整っており、鼻は高くてすっと通っていた。それに手足が長く、まるでモデルのようなプロポーションをしている。

 日本の原風景といっても過言ではない神社には、ますます不釣り合いさが際立った。


「今日、この街に引っ越してきたんだ。親の仕事の都合で来日して、九月から高校に通うことになってね。今は荷解きを抜け出して、散策中ってわけ!」


 いや、引っ越しの手伝いしていろよ。

 ニコニコと己の境遇を語ってくれるアイノは、暑苦しいほど積極的だった。

 まさしくコミュニケーション能力に長けた外国人らしい気さくな性格で、きっと九月から通うという高校でも、すぐに人気者になるはずだ。


「あの、オルセンさんは何人なんですか?」

「アイノでいいってっば! で、アタシはフィンランド出身! パパはノルウェー人でママはフィンランド人。生まれはフィンランドで、前に住んでいたのはフランス、その前はベルギーにいたよ!」

「それにしては日本語上手いですね……」


 雫くんの指摘通り、アイノの話す日本語は実に流暢だ。

 アイノは褒められて気を良くしたのか、ますます笑みを深くして、歌い出さんばかりの弾んだ声で答えを告げる。


「ベルギーで暮らす前は日本に住んでいたからね! 小学五年生までは日本で過ごしたから、日本語もバッチリ! むしろ、フィンランド語が怪しいかも!」


 あははは、と楽しげに笑い転げるアイノはフィンランド語をろくに喋れない件も、全く気にする素振りはなかった。ポジティブの塊みたいな子だ。


 アイノの陽の気に当てられ、ゲッソリと疲弊する俺をよそに、彼女はまたもや目をキラキラさせて距離を縮めてきた。

 密着せんばかりに身体を詰められ、驚き慌てふためく俺を尻目にアイノは腕を掴むや、勢い勇んで語り出す。


「アタシ、今とっても嬉しいんだ! だって、日本に居た頃は特撮番組を欠かさず観ていたから! 日本に越してきた初日にヒーローに出会えるなんて運命だよ!」

「アイノさんも特撮好きなんだね。ぼくもそうなんだ」

「雫も!? それはラッキー! 色々、教えてね」


 うん、とはにかむ雫くんと、キャッキャとはしゃぐアイノ。

 引っ込み思案で人見知りの気がある雫くんが、初対面の女の子と共通の趣味を通じて打ち解けるのは大変喜ばしいが、俺の心配もしてくれたら良かったのに。


 アイノの束縛から逃れようと身を捩るが、彼女はますます手を俺の腕に絡ませてきて、決して逃がすものかという執念を感じるほどだ。

 同年代の女の子から抱きつかれんばかりに密着されるなど、経験したことが……いや、あるわ。遊園地で観覧車に乗ったときに経験したわ。


 不意に佐藤さんの顔を思い出し、顔面蒼白に陥った。

 こんな状況、絶対に佐藤さんには露呈されてはならない。もっともジャスティスマンに変身中だから、俺だとは分からないだろうが。

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