第57話「頼るということ」

 罪悪感で胸を一杯にしていれば、不意に足下に生温かい気配を感じた。

 視線を落とすと、猫がいつの間にか居り、脛に頭を熱心に擦りつけている。たじろいで思わず足を後ろに退けば、こちらの動きに気付いた猫が顔を上げて、俺を仰ぎ見ていた。


 真っ白のふわふわとした長い毛並みの猫で、体格は小柄な割りにやけに存在感がある。エメラルドグリーンの瞳は綺麗に澄んでおり、円らな目は丸くて大きい。

 可愛げのある顔をしたその猫は「にゃん」とこれまた愛らしく一声鳴くと、素早い身のこなしで跳躍し、するりと俺の膝上に飛び乗ってきた。


「わあ、何っ?」


 猫は俺の当惑をよそに、そのまま膝の上に陣取って体を伏せてしまう。長くてふさふさした尻尾が、ゆらゆらと気持ちよさそうに揺れている。

 胴体の下に折り畳んだ足を仕舞い込み、猫が本格的にくつろぎだしたので、退かそうにも手の着けようがなかった。

 腿に生き物の熱い体温と適度な重みを感じながら、俺は身体を強張らせつつ常連に意見を仰ぐこととした。


「どうにかして降りてくれないのか、この猫」

「せっかく向こうからやって来てくれたんだ。むしろ羨ましいぐらいだな」

「ええ……それなら五十嵐に預けたいけど」

「うたた寝している子を無理に起こせるわけないだろう。じっと椅子役を全うしろ」


 俺は五十嵐に助言を請うのを諦め、猫を見下ろして早く起きてくれの念を送ってみた。

 だが、白猫はふかふかの毛並みの体を呼吸で上下させながら、ぐーぐーいびきを掻いて完全に寝入っていた。両耳が時折、ぴょこぴょこと動く。

 猫が眠りから目覚めるまでは、眠りを妨げないよう配慮しなければならないようだ。猫ファーストなんて、このカフェはとんだ滅茶苦茶な世界だ。


 猫の襲来で話が中断していた。

 途切れた話題を戻すように、五十嵐が「さっきの続きな」と前置きをして話し出す。


「これも世奈から伝え聞いた情報なんだけど、古谷は佐藤のことを好きなんだろう。だから、佐藤と交際している新留が目障りで、暴力を振るって屈服させようとしたんだな。別れろと迫られたのか」


 俺は無言で頷いた。古谷は佐藤さんに激しい拒絶を受けていたので、今もなお好きかどうかは分からない。

 しかし、古谷がこのまま引き下がるとは思えなかった。俺なんかに負けたと捉え、それだけは度し難いと無理矢理にでも佐藤さんを略奪する強硬手段に打って出る可能性も捨てきれない。


 なぜ、古谷が佐藤さんに固執しているのか。一緒に行った遊園地で、古谷は俺に言っていた。一年生の頃から好きだったと。古谷は一年時、佐藤さんと同じクラスだ。

 俺は学校や学年内で誰と誰が交際しているとか、どんな連中同士で連んでいるか全く興味を持っていないので、高校の人間関係にはとんと疎い。


 その点、クラスの中心的グループにいて人脈も広く、周囲の人間から一目置かれている五十嵐には、望まずとも多くの情報が入ってくるはずだ。

 それに、佐藤さんとも友人なので、もしかしたら一年の頃の話を知っているのかもしれない。

 期待を込めた眼差しを向けると、五十嵐は俺の問いは悟ったらしい。だが、残念そうに首を横に振った。


「俺も詳しいことは知らないんだ。一年の時、佐藤と別のクラスだったし、それに今みたいに親しくもなかったから。佐藤とは世奈経由で仲良くなったからさ。最初の頃は、彼女の友達っていう感覚で接していたな。だから、一年前のことはあまり分からない。すまないな」

「……別に五十嵐が謝ることじゃないだろ」


 もしかしたら、内山さんであるならば佐藤さんから何か聞いて、古谷が佐藤さんに執着する理由を掴んでいるのかもしれない。

 だが、周りの人間に嗅ぎ回るより、佐藤さん本人に直接問いかけた方が正確であり、後ろめたい懸念もなくなる。


 けれど、佐藤さんに訊くのは躊躇われた。過去を詮索する厄介な奴だと捉えられそうだし、本人が言いたくないことを無理に聞き出すのは駄目だ。

 そして、過去の隠したいことのひとつやふたつ、誰だって多かれ少なかれ持っている。それをつまびらかにしようならば、こちらも相手に同格の秘密を開示しなければフェアじゃない。

 だが、俺は佐藤さんに過去を洗いざらい話すつもりは全くなかった。


「でもまあ、古谷のことはちょっと調べてみるよ。また新留たちに、危害を加えてくるかもしれないから」

「いや、五十嵐にそこまでしてもらわずとも……」


 遠慮がちに口を挟めば、五十嵐は眉根を寄せて苦笑を浮かべた。怒っているのか呆れているのか、もしくはその両方か。

 俺の意見が歓迎されていないことだけは、しっかり伝わる表情だ。


「俺、信用できない?」

「そういうわけじゃ……ないけど。ただ、懇意になってくれる理由が分からない」

「困っている友人の力になりたい以外の理由がいるか?」

「はあ……佐藤さんのためなのな」

「新留もだよ。友達だろ、俺たち」


 今度は俺が苦笑いを顔面に貼り付ける番だ。五十嵐の発言の意味を捉えかねる。

 五十嵐と佐藤さんは友人だ。友達の友達は友達理論だろうか。

 もっとも佐藤さんと俺が友人かは怪しいが、交際している事実からして近しい間柄なのは疑いようもない。

 陽キャはすぐ友達認定をする。顔を合わせたらもう友達、喋ったらすでに親友なのかもしれない。


「新留はもう少し人に頼った方がいい。真実ちゃんが怒っていたじゃないか。自分勝手だって。ひとりで何でもかんでも背負い込むのは息苦しいだろ」

「俺は人に重荷を預ける方が、よっぽど気苦労するね」


 頼られるのは嬉しく、助けを求められればすぐに駆けつける。困っている人は放っておけないし、俺にできることであれば何でも協力は惜しまない。

 けれど反対に、人を頼るのも助けを求めるのも、俺には絶対に無理だった。俺に差し伸べる手があるのなら、是非とも他の困っている人を救ってほしかった。


 天秤が一方に傾いている気がするが、ヒーローは常に強くあらねばならないのだ。他人に頼る道筋を残しているようでは、確実にヒーロー失格だろう。

 だから、俺は自分勝手と言われようが、自身の問題は自力で解決を試みたかった。


 五十嵐は俺が何としてでも折れないと気付いたのか、人を頼れと更に説得を重ねるような徒労を繰り返さなかった。

 しかし、ただで引き下がるのは癪なのか、爽やかな笑顔を見せつけるや朗らかに提案する。


「困ったことがあったら連絡して。相談に乗るから」

「あはは、言葉だけはありがたくもらっておく」


 端から本気に受け取っていないのは明白で、さすがの五十嵐も嘆息して天井を仰いでいる。

 このまま、もはやお手上げだと、変な同情を抱いて擁護するような真似を今後一切、諦めてくれたらいいのだが。


 膝上の猫はようやく眠りから目覚めたのか、ぼんやりとした目つきで俺を見上げていた。

 そうして猫はそのまま俺の膝上で、ぐぐっと背中を反らして伸びをひとつ。おはよう、と声をかけると「にゃああ」なんて、あくびなのか返事なのか判断に迷う鳴き声を上げている。呑気なものだ。


「あっ、お兄ちゃん。可愛い子と遊んでる。ズルい!」


 真実の声がすると思えば、架純さんと一緒に席へと戻ってきていた。おやつは猫たちにあげ終えたらしい。

 白猫は自由そのもので、まだ俺の膝の上に座っていて、今は毛繕いに熱心な様子だ。

 前肢をペロペロ丹念に舐めていたと思ったら、今度は顔を洗い出した。雨でも降るのだろうか。


「いいなあ。仲良くなって」


 俺の隣の席に腰掛けながら、真実が羨ましそうな声を上げる。

 おやつをあげて猫たちとは十分に交流しただろうに、なにゆえ俺に恨めしげな目線を向けるのか分からない。

 こちらは勝手に膝上に乗られて、寝床にされているのに。代わってもらえるなら代わってほしいぐらいだ。


「でも良かったよ、楽しそうで。癒やされたでしょ?」

「さあな」


 俺の手の甲には猫の前肢が乗っている。なぜだか、猫はご機嫌そうにヒゲをぴくぴく動かしていた。

 邪魔だなあと思うものの、邪険に払うようなことはしない。程よい温みが猫から伝わり、俺まで微睡みそうになる。


 そういえば、風邪の怠さや身体の痛みのせいで寝付きが良くなくて、ここ最近は質の良い睡眠が取れていない気がした。

 でも、今晩は昨日よりはよく眠れそうだった。

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