第59話「逆上がりの練習」

 俺は無理矢理立ち上がり、どうにかこうにかアイノの手を振り払った。

 途端、アイノが頬を膨らませ、分かりやすい不満顔を晒すが、なりふり構っちゃいられない。

 俺は雫くんを見下ろし、当初の目的を思い出してもらう。


「雫くん、ところで今日は何の用だったのか?」

「あ、忘れていた。ぼくね、逆上がりをできるようになりたくて」


 逆上がり? きょとんと目を瞬くアイノ同様、俺もヘルメットの下で同じような表情をしていることだろう。

 雫くんは立ち上がって階段を降りると、「ついて来て」と俺たちを目的地まで先導してくれた。

 当然のようにアイノも後ろからついてくるが、帰れと邪険にするほどでもないのでそのまま放っておいた。


 神社の敷地内には小さな広場みたいな、もしくは簡易的な公園のような区域があった。そこには、ブランコと鉄棒ふたつが設置されていた。

 人目につかない場所にあり、わざわざ遊びに来るような子どもはそう多くないだろう。

 雫くんは恥ずかしそうに目を伏せつつも、逆上がりの件について説明を始めた。


「神社のここでなら、人に見られずに練習できるかなって思ったんだ。ぼく、逆上がりができなくて、でもできるようになりたくて、ジャスティスマンに教えてもらいたいんだ。夏休みの間、時間があるときでいいんだ。お願い、聞いてくれる?」


 なるほど。雫くんの申し出は理解した。

 人気のない場所ならば、誰にも邪魔されずに逆上がりの練習ができるはずだ。

 それに加えて、夏休みの期間であれば、ジャスティスマンとも頻繁に会えると踏んだのだろう。雫くんの予想通り、ジャスティスマンの夏休みはパッとしない。もちろん、暇を持て余し気味だ。


 ひとつ、懸念があるとするならば、ジャスティスマンに果たして、逆上がりを指導する腕があるかどうかだ。

 もし、俺が逆上がりのできない人間だったら雫くんはとんだ人選ミスを犯してしまっただろう。

 もっとも、雫くんの中ではジャスティスマンは何でもできるスーパーヒーローレベルに神格化がなされていそうなので、最初から問題に悩む必要はなかったのだろうが。


 そのジャスティスマン、いや、俺自身は逆上がりができる。小さい頃に、両親に仕込まれたからだ。

 小学一年生までに補助輪なしで自転車に乗れるようにされ、二年生で逆上がりを叩き込まれ、三年生で二十五メートルプールを泳げるように鍛え上げられた。


 とはいうものの、父はその頃外国に単身赴任中だったため、実際のコーチ役はもっぱら母さんであったのだが。

 母はできなくても理不尽に叱らないし、決して無駄に声を荒げて怒らない。

 だが、できるようになるまで執拗に、それこそ延々と練習を続けさせる厳しい指導方針を取ったので、運動神経が良いと言えない俺も妹の真実も、どうにかモノにすることができたのだった。

 もうひとりの妹である永遠は兄や姉に似ず、運動神経抜群なので練習地獄を恐れるなんて杞憂だった。


 しかし、昔できるようになったとは言え、現在も逆上がりを覚えているかどうかは甚だ怪しいものだった。

 鉄棒なんて、それこそ小学生ぶりではなかろうか。雫くんの期待に満ちた眼差しを背に、内心緊張しながら俺は鉄棒を逆手で掴む。


 ええっと、逆上がりのコツは確か、助走をつけて地面を蹴り上げ、身体を鉄棒に引き付けて一気に回る、だったはず。

 母に習ったコツを頭の片隅に置き、俺は逆上がりを試みる。


 弾みをつけて地面を蹴り、しっかり腕を曲げ、身体を早急に回転させる。途中、ぐるりと視界が反転するのが分かった。

 気付けば、再び足は地面に着き、どうにか逆上がりは成功できたようだった。何とか体面を保てて、すこぶる安堵した。


「すごい! ジャスティスマンはやっぱりすごいや!」


 雫くんはわあっと歓声を上げ、パチパチと拍手を送ってくれた。過度に褒められると、無性に照れてしまう。

 幸いお手本は示せたので、次は雫くんやってみようかと声をかけて促そうと、口を開いたその間際。

 俺と雫くんの間へにわかに割って入る人影があった。マズいと察したときにはすでに手遅れだった。

 いきなり眼前へ現れたアイノが両腕を広げて、俺の胸へと勢いよく飛び込んで来たのだ。


「ジャスティスマン! 格好良いよっ!」

「ちょ……!? 離れて、おい。待って!」


 出し抜けに抱き着いてきたアイノは、俺の制止の声を聞く気が全くないのか、更にぎゅっと腕の力を強めやがった。

 直後、ヒーロースーツ越しに触れ合う柔らかな肌の生々しい感触に、体温がガンと急上昇する錯覚を覚えた。


 慌ててアイノの両肩を掴み、引っ剥がそうと悪戦苦闘するも、中々彼女はしぶとくて梃子でも動きそうにない。

 もう、焦りが募って仕方がない。ふわりと、鼻腔をくすぐるのは彼女のサラサラの髪から香るシャンプーの匂いに違いなく、羞恥と当惑で脳内がパニックを起こしかけていた。


「あのう……アイノさん。離れたげて、ジャスティスマン困っているよ?」

「え? あ、ごめんね!」


 遠慮がちに雫くんが声をかけてくれたおかげで、ようやくアイノは腕を解いて俺から離れてくれた。

 胸元にまだアイノの身体の温もりが残っているようで、ドギマギが依然として継続しており、ほとほと自分の小心さが嫌になった。


 とにかく気を取り直し、逆上がりの特訓を始める。

 まずは現状、雫くんがどれくらい逆上がりの成功に近づいているか知るべく、一度自力でやってもらうことになった。


 結果は失敗だった。雫くんは地面を蹴って、どうにか鉄棒を支柱に身体を浮かせようともがいた。

 けれど、勢いが足りなかったのか、もしくは腕の力が弱くて身体を鉄棒に引き付けられなかったのか。

 身体は満足に持ち上がらず、わずかに上がった両足が不格好に地へ落ちた。


「ナイスファイト、雫!」

「そうそう、これからだ」


 背中を丸め、落ち込む雫くんを元気づけるべく、俺とアイノもすぐさま駆け寄り、勇気づけるよう優しく肩を叩く。


「よし、もう一回やってみよ!」


 アイノの提案に頷き、雫くんはそれから十数回、疲れ果てるまで逆上がりに挑戦し続けた。

 一度も成功はできなかったけれども、雫くんのやる気を実感して、俺も力が湧いてきた。


「また今度……次も来てくれる?」


 雫くんの消え入るようなお願いに大きく頷き、親指を立ててサムズアップを返す。

 隣を見やれば、アイノも俺同様にサムズアップをしていた。何故か流れでアイノもまた参加するみたいだが、彼女の明るい声かけは雫くんのモチベーション向上に貢献しているようなので、特に口出しはしなかった。


「じゃあね、ジャスティスマン。アイノさんもまた」

「バイバイ! 頑張ろう、雫!」


 雫くんと手を振り合って、神社の入り口で別れた。

 家路に就く雫くんの後ろ姿を見送りながら、俺は目標のない夏休みにようやく意義を見出していた。

 雫くんも頑張っているのだから、彼が憧れるジャスティスマンは更に努力を重ねなければならないはずだ。

 雫くんの逆上がりの特訓に付き合うのはもちろん、俺自身も成長すべく夏の課題を見つけよう。


 夏休みは始まったばかりで、時間はたっぷりあるのだ。できる限り、雫くんの力になれるよう、これから俺も励まねば。

 まずは、書店もしくは図書館にでも赴き、練習法の書かれた本を探すことにしようと決めた。


 神主さんに見つかる前に、そろそろ俺も神社をお暇しよう。

 足を帰り道の方角へ向けてから、すっかり意識から外していた隣の少女の存在に気がついた。

 俺から視線を向けられたアイノは、太陽みたいに眩しい笑顔を見せて、緩く小首を傾げる。

 アイノは口を開かず黙って笑っていると、れっきとした美少女だ。ジャスティスマンの変身がなければ、俺は間違いなく視線を逸らして顔を背けていただろう。


「ジャスティスマン、アタシも会いに来ていい?」

「え?」

「一緒にね、雫の逆上がりを成功させよ?」


 アイノは目を細め、キラリと白い歯を零す。

 雫くんは他人の目が気になるようだけれども、自分を応援してくれる人であれば、特訓に参加しても平気のはずだ。

 むしろ、声援が力になる分、アイノの存在は渡りに船かもしれない。ジャスティスマンは表情が分からないので、大きく頷いて同意を示す。


 そろそろ引っ越しの手伝いに戻らなければいけないと、にわかに焦って走り去ったアイノを見届け、今度こそひとりきりになった俺はゆっくりと帰り道を歩く。

 肌を撫でる風は生温いというより、もはや熱いぐらいだ。身を焦がす太陽は容赦なく、暑さのせいでスーツが蒸れて不快だったけれども、なぜか気分は快かった。

 忙しなく鳴いている蝉の声が大量に降り注ぐ中、俺は大きく足を前へと踏み出すのだった。

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