第55話「妹とお出かけ」
結局、俺は夏休みが始まるまでの数日間、風邪に罹って高熱にうなされて学校を休んでしまったらしい。
憶測でしかものを語れないのは、早朝に気を失ってからの数日、記憶が飛び飛びで曖昧だからだった。
負った傷が原因で発熱してしまったらしく、母に連れられ近所の病院へと赴き、医者による診察を受けたようなのだが、やはり記憶が薄ぼんやりとしか覚えていない。
熱が下がって傷が癒えるまで、俺はほとんどをベッドの上で過ごした。
ぶっ倒れて二日ぐらいは食欲が全く湧かず、水程度しか喉を通らなくて随分と消耗してしまった。今もまだ食べたい欲求がどこかに吹っ飛んでいるらしく、食事は必要最低限しか摂れていない。
洗面台の鏡を見やれば、落ちくぼんだ目をした俺が立っていた。目は虚ろ、頬はこけ、顔色は最悪、まさに文字通りげっそりとやつれていた。
主に母が看病してくれたようだが、部屋には真実や永遠が代わる代わるやって来ては、心配そうに俺の様子を窺っていた。
永遠が泣きべそを掻いて、「おにーちゃん、死なないで……」と胸に縋りつき、真実まで目を赤くして「やだぁ。あたしを置いて死ぬなんて、そんなの絶対許さない」と号泣しながらベッドの傍で蹲っていた記憶がおぼろげにあったが、夢うつつ状態の俺が見た幻覚かもしれないので真偽のほどは定かではない。
一生に一度しかない高校二年生の夏休み、幕開けは最悪なものだった。
ただ、どうにか体調はベッドから起き上がれる程度には持ち直し、万全とは到底言えないものの身体も動けるまで回復した。
これから、まずはレンズが割れて壊れた眼鏡を新調しに行かなければ、未だ慣れないコンタクトレンズを着けての生活を続ける羽目になってしまう。
コンタクトを装着するのはもっぱら、眼鏡を掛けることのかなわないジャスティスマンに変身しているときに限るので、非日常感がつきまとって落ち着かない。
しかし、横になっていた時間が長すぎるせいで、外出する気力さえ戻ってきていない。
部屋に籠もって、ベッドの上でゴロゴロと無為な時間を過ごすのは、駄目だと理解はしているのに、やる気が家出していくら待てども帰ってこないので、誰か迎えに行って呼び戻してくれやしないだろうか。
今日もどうにか起床はできたけれども、寝間着を着替える段階でつまづき、ベッドに腰掛けて時間を無駄に消費していたときだ。
控えめなノック音が鳴り、ひょっこりとドアの隙間から真実が顔を覗かせる。
「お兄ちゃん、おはよう」
「……おはよ」
かすれた声で返事をすれば、真実はおずおずと部屋の中へと入ってきた。
くるくると髪を緩やかに巻き、フリルとレースで彩られた夏用ワンピースを身に纏っている真実はおそらく、これからどこかに出かけるのだろう。
外出前に兄の顔を見に来る理由が分からず、首を傾げながら次なる反応を待っていれば、真実は逡巡するかのように目線を泳がせ、レース手袋を着けた手をもじもじと絡ませ、何やら言いあぐねているようだった。
「どうした? その格好、今から遊びに行くんだろう? 急がなくていいのか」
「えっと、うん……待ち合わせ時間には余裕があって。あの、お兄ちゃん。今日、暇?」
「ああ、急ぐような予定は特に何も入ってないが。それがどうした?」
俺の返答を聞くや、真実は意を決したように顔を上げた。そうして、艶やかなリップが輝く唇をおもむろに開く。
「それならさ、あたしと遊びに行こうよ」
「え? でも、先約があるんじゃないのか?」
つい先ほど真実は、待ち合わせ時間なんて単語を口にしていたので、本日遊ぶ約束をしている相手がいるのは明確だ。
その中に、部外者たる俺が加わってもいいのだろうか。間違いなく邪魔だろうに。
俺の抱える懸念が真実にも伝わっていたのか、詳しい説明を行ってくれるらしい。
「お兄ちゃん、架純のこと覚えている?」
「ああ、五十嵐架純さんな」
真実の友人である架純さんは、五十嵐の妹でもある。
真実と架純さんは無二の親友として大変仲が良く、ふたりの友情を穿った見方をして悦ぶ変態が彼女らの身近にいるのだが、変態の正体は妹たちのためにも黙っておこうと決めていた。
その正体はぶっちゃけ五十嵐、兄貴の方なのだけれども。
「今日ね、架純と一緒に遊びに行く予定なんだ。それでね、お兄ちゃんさえ良ければ、架純のお兄さんも合流して四人で遊ぼうって話があるんだ。どう?」
以前、五十嵐から妹交えて遊びに行こうと誘われていた。
俺は五十嵐の異様な熱心さにドン引き、返事を先延ばしにしていたのだがとうとうアイツ、実力行使に出たのか。
いや、風邪を拗らせ寝込んで、学校を欠席している旨を知っているからこそ、五十嵐だって気遣いから申し出てくれたのだろう。
五十嵐や架純さん、真実の厚意を無駄にしてはいけない。それに、いつまでも部屋に閉じこもっていては駄目だと気付いていた。
今日出かけることで、現状を打破する良いきっかけになるかもしれない。正直、鬱々と思い悩み続けるのは気が滅入る。
「分かった、行こう」
「うん……ありがとう。じゃあ、支度してね。急がなくていいから、ゆっくりでいいよ」
部屋の外で待っているねと言い残し、真実は扉を開けて出て行った。
今日の真実は普段より三割増しで兄に優しい。いつも飛び出す減らず口は一体どこへやら、素直な口調で態度も柔らかくて和やかだ。
風邪で伏せっていた兄を心配し、色々気を揉ませてしまったのなら申し訳ない。
今日はどこに行くか分からないが、心配をかけたお詫びとして、出先で真実の好きな甘いものを奢ってやろう。
集合場所は駅前で、電車に乗って目的地へと向かうらしい。
外は夏本番らしく、青い空には入道雲がもくもくと湧き、降り注ぐ太陽光は午前中にもかかわらず、肌を焼き焦がすほど強烈だ。
数日、家の中に引きこもり、外気から遮断されていた俺は見事に軟弱者に成り下がっていた。
殺人的直射日光が注ぐ道を行き、駅へと到着する頃には疲労困憊、肩で息をしているほどだった。
これから遊びに行くっていうのに、ここまで弱り切っていたとは予想外だ。
駅前にあるよく分からないモニュメントの前まで辿り着いたところで、俺はクラッと立ち眩みがして、思わず像の台座に手をついた。
ふっと視界がブラックアウトして、一瞬倒れるかと思った。動悸が激しくなっており、呼吸するのさえ覚束ない。
「お、お兄ちゃん、大丈夫? 行き先は屋内だから涼しいし、そんな長距離移動なんてしないはずだけど、しんどいなら帰……」
「いや、大丈夫。急に歩いたから、少し身体がビックリしているだけだ。少ししたら慣れるだろ」
瞳にうっすらと涙の膜を張り、今にも泣き出してしまいそうな表情で俺を見上げる真実を安心させるべく、無理矢理笑顔を作った俺は、モニュメントの台座から手を離して自力で立つ。
まだガンガンと頭が痛んで痛んで仕方がないが、家を出る前に鎮痛薬を飲んできたので、薬の効き目が出てきたら、じきに頭痛も引くだろう。
真実に過剰な心配されながら待つこと数分。駅前に五十嵐兄妹が姿を現した。
架純さんは真実と同じような、フリルとレースがあしらわれた涼しげな色合いのワンピースを着用している。
一方の五十嵐はといえば、Tシャツとジーンズという、俺と大体同様の格好をしているが、その着こなしや見た目には雲泥の差があった。思った以上にラフな服装なのに、嫌味なぐらい颯爽として似合っていた。
男子生徒は皆一様の制服も、五十嵐は完璧に自分のファッションとして格好良く決めているのだ。個性の際立つ私服となれば、自身を一番良く見せる服を選ぶことなど造作もあるまい。
人間としての核が最初から異なっているのだ。俺は五十嵐に張り合う気など微塵も起きず、ぎこちない笑みを浮かべて、ふたりを出迎えた。
「やって来てくれて良かった。新留、学校あれから何日も休んでいたろ? 心配していたんだ」
爽やかな笑顔で、俺を気遣うような発言をする五十嵐。
教室での振る舞いから全く逸脱しない完全無欠の陽キャムーブに、恐れをなして背筋が冷えた。
いや、五十嵐は純粋に親切心から、俺を心配してくれていたのだ。ここは穿った見方をせず、こちらも素直に礼を述べるべきだろう。
「ええっと、心配かけてすまなかった。でも、もうすっかり体調は元通りで……」
「お兄ちゃん、嘘言わないで。すみません、五十嵐さん、架純。お兄ちゃん、まだたまにフラフラしているから、休憩挟みつつ目的地まで向かって大丈夫ですか」
俺はすぐさま愛想笑いを消して無表情のまま、余計なことを話す真実を軽く小突いて黙るように牽制したが、急に動いたせいか、また立ち眩みがして視界がぶれた。
傾ぐ身体を咄嗟に支えてくれたのは、こちらにさっと身を寄せた五十嵐の腕だった。助けるのもスマートか、やはり人間の出来が違う。
リア充怖い、と恐れ戦きながらやんわりと、俺の肩を抱く五十嵐の腕を解いて、適度に距離を取って警戒を強めた。
五十嵐は格差に震える俺などお構いなしに、眉根を寄せてやにわに不安げな表情を作るや、躊躇うことなく口を開いた。
「真実ちゃんの言う通り、まだ体調戻っていないようだな。焦らず、ゆっくり行こう。新留、駅構内の冷房が効いている部屋で少し休もうか」
「本当平気だから! 俺なんてお構いなく、ほら目的地までの電車に乗ろう。な?」
慌てて弁解するも、五十嵐は俺をじろりとにら睨みし黙殺すると、真実と架純さんを見やって仏頂面をすぐに消し去り、俺を見たときとは対照的なほどキラキラ輝く笑顔を作る。
「新留の強がりの意見は一律無視しよう。架純、真実ちゃん。駅で少し休んで、電車に乗ってもいいだろう?」
「おい……!」
「わたしはそれで問題ないよ、兄さん」
「あたしも大丈夫です。兄がご迷惑かけてすみません、五十嵐さん」
俺の扱いが段々雑になっていないか。
いや、体調を慮っての発言だとは重々理解しているが、やはり納得がいかない。憮然としながらも、俺は三人の後に続いて構内へと向かった。
駅の待合室で涼んだ後、俺たちは電車に揺られて十五分ほどで下車した。
降り立ったのは、地元より栄えている街で、駅前も背の高いビルが建ち並んで人の往来も激しい。
駅から出るや、たちまち照りつける太陽の陽差しに目が眩んだ。むっと蒸すような熱を孕んだ風が頬を撫でて通り過ぎる。
この炎天下、歩き回ったら間違いなく干物になって干涸らびる。
「ごめんね、お兄ちゃん。辛いでしょ? でも、安心して。目の前のビルが目的地だから、すぐ着くよ」
ひと言詫びた真実が俺を振り仰ぎ、すっと目前の建物を指差した。真実の指の先を辿るように見上げれば、何の変哲もない雑居ビルが建っている。
これからどこで何をするのか、いまいち分かっていない俺は、そのビルにどんなテナントが入っているのかも要領を得ない。
じっと目を凝らせば看板も見えるだろうが、ちょうど直射日光が目を焼いて、直視なんてできそうにもなかった。目的地へと到達すれば、そこが何かはいずれ分かるだろう。
情け容赦ない太陽光を背に、ビルへと向かって備え付けのエレベーターに乗る。何階かを示すランプは三階で止まり、重いドアが音を立ててゆっくりと開いた。
フロア丸ごとがひとつの店舗のようで、数歩も歩かないうちに看板を掲げた店の玄関へと辿り着く。
出入り口は二重扉になっており、どこか厳重そうな造りをしていた。
「何……ここ?」
看板に踊る横文字が読みづらく読解に苦労していれば、隣に並び立った真実が顔を綻ばせ、ようやく本日の目的を教えてくれる。
「猫カフェだよ。心身ともに疲弊したお兄ちゃんには、今は癒やしが必要でしょ?」
猫カフェ。俺は真実の告げた単語を復唱し、目の前の玄関扉を改めてじっと見やった。扉がふたつもあるのは、猫が脱走しないためか。なるほど。
いや、今は変なところに感心していないで、俺は真実の真意を測りかねた。俺が精魂疲れ果てているのは嘘ではないけれど、癒やしを求めて何故猫カフェに辿り着くのかが不可解だ。
俺は無類の猫好きでもないし、動物を見て可愛いと思いこそすれ、癒やしを感じたことはない気がする。俺の無言の不満を感じ取ったのだろう、真実はすかさず扉を開けて中へと誘導してきた。
「まあまあ、入り口に突っ立っていないで中に入ろうよ」
「そうそう、ほら新留。入ったら置いてある消毒液で手を洗うんだよ」
「靴はそちらで脱いでくださいね。靴下で入店するんです」
五十嵐兄妹はやけに猫カフェに詳しげで、もしや常連客なのかと訝しみながらも、ふたりの作法を倣い、未知なる猫カフェへと足を踏み入れたのだった。
「ふわあぁ……! 可愛い……!」
「ふわふわのもこもこ!」
入室して部屋でくつろぐ猫を目にするや、真実と架純さんは目をキラキラ輝かせて、はしゃいだ声を上げて静かに興奮している。
ふたり手を取り合って、きゃあきゃあと喜ぶものだから、女の子ふたりの戯れに目がない男までもが奮っている。
俺はさっとスマホをかざす五十嵐の腕を咄嗟にはたき、盗撮を阻止してみせた。
「何するんだ……新留」
「それはこっちの台詞だ。むやみやたらに写真を撮ろうとするな」
「新留は知らないかもしれないけど、猫カフェは撮影オッケーなんだよ」
「被写体は猫だろ。女子高校生じゃない」
それから、俺と五十嵐は無言で睨み合い、バチバチと火花を散らして険悪な空気を漂わせていたが、店員のお姉さんが気さくに声をかけてきたのでしばしの休戦を余儀なくされた。
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