第54話「母と父と話すこと」

 程なく、母さんが病院へと姿を現した。仕事を抜けてきたというから、迷惑を掛けてしまった実感が一層強くなる。

 母は副担任としばらく話をした後、俺へと近づいてきて目の前で立ち止まった。浮かべる表情から感情は上手く読み取れず、何を考えているのかは分からない。

 ただ、不甲斐ない世話の焼ける息子に対し、怒っているか呆れているのは容易に想像ができた。


「悪い。わざわざ迎えに来てくれなくても良かったのに。家の近くで車から降ろしてくれて本当いいから、ひとりで帰れるし。何なら、すぐに仕事に戻ってくれても……」

「会社は早退してきたから、心配しなくてもいいわ。立てる?」


 手を貸そうかと問うてくる母に首を横に振り異を唱えると、俺は椅子に手をついてヨロヨロと、どうにかこうにか立ち上がった。

 ほら、ちゃんと立てるし、ゆっくり歩けば自分ひとりで帰宅も十分できたのに。何も親まで呼んで大事にしなくても。


 そう伝えれば、母はうんざりした顔をして目くじらを立てた。すわ怒られると、慌てて身を引いた。

 しかし、母さんは怒鳴るなんてことしなかった。そもそも、母はあまり怒らない。子どもに非があった場合、怒るというより、叱るか諭すような態度を取る。


「な、なに……?」

「相変わらず、何でもひとりで背負い込むのが好きね」

「そんなこと……」

「ないわけがないわよね。昔からそう。親に相談なんて端から考えていないし、ひとりで解決しようと突っ走ってばかりいたわね。それで、どれだけ傷ついた? 反省している、もうしないって誓ってくれたのに。中学生の頃からまるで成長していないわ」


 母の断定口調に腹が立つ。

 俺はただ、忙しい両親に迷惑を掛けたくない一心で、性根が優しく悲しみや苦しみに人一倍敏感な妹たちに心配を掛けたくないだけなのに。


 俺がどんな傷を負ったとしても、ひとりで抱えて黙っておけば、誰の手も煩わせない。できないのは自分が悪く、蔑ろにされてコケにされて笑われるのも己の落ち度だ。

 全ては行き着くところ、自己責任。自業自得で苦しむだけだ。

 この世をひとりきりで生きていけるなんて、露ほど思っちゃいないけれども、できることは自分ひとりでやらないのは怠慢だ。


 それに俺は長男だから、しっかりしないといけなくて、小さな頃はひとつ違いの真実を守ってあげてねと頼りにされていたし、今は幼い永遠がのびのび成長できるよう支えていかないとならない。

 両親は俺なんかにかまける時間はなく、目を向ける優先順位の最下位に甘んじていようが全く問題がない。むしろ、俺なんか放っておいてくれても平気で、疎んじられても仕方がない。


 手がかからない子どもでいさせて欲しかったし、甘えん坊の弱虫だと後ろ指を差され、躾がなっちゃおらんと父と母が祖父から説教される姿はもう二度と見たくない。

 だからどうか、良い子でいさせてほしい。


「帰るわよ。病院の入り口まで一緒に行きましょう。それから、少し待っていてちょうだい。車を玄関に横付けするから。それならあまり歩かなくて済むわね」


 母は俺に拒否する暇も与えず、テキパキと行動しだした。

 車に乗っての帰宅は確定事項らしく覆すのは困難そうだった。もう観念するべきだろう。

 明日はちゃんと休むようにと念押しをする副担任に見送られ、俺は母の運転する車に乗って病院を後にした。


 車内には、カーラジオから流れる流行歌が虚しく流れるのみで、親子のハートフルな会話は展開されない。そもそも、年頃の息子が好き好んで母親と話す方が稀だ。

 だから、俺が黙って窓の外を眺めているのは、特段おかしくも何ともない。


「……階段から落ちたんですって?」


 ラジオから流れる曲が終わり、一瞬、車内に落ちた沈黙を破るように母が尋ねてきた。

 俺は最初、聞こえない振りでもしてやり過ごそうとしたが、静かな空間で無視を決め込むのは無理があった。

 思春期特有の反抗でもしてやろうかとも考えたが、母親に歯向かって勝てた試しがないので渋々口を開く。


「そう、俺の不注意で」

「先生は、そう考えていらっしゃらないようだけれど」

「いや、俺が間抜けだっただけだから。恥ずかしいからあんまり追求しないでくれる?」

「ふうん。誰か庇っているの」

「まさか」

「そう……」


 バックミラー越しに母親と目が合った。母さんは至極冷静な表情をしており、やっぱり何を考えているのかさっぱり分からない。

 ただ、その目で見つめられると居たたまれなくなるので、俺は露骨に視線を逸らして窓の外へと顔を背けた。

 夕焼けの空は橙色に染まり、ぽつぽつと現れ出した気の早い星の存在により、じきに訪れるであろう夜の気配もわずかに感じられる。


「学校で嫌なことがあったら言いなさいよ」

「言ったところで何にもならないでしょ」


 中学の頃、まざまざと実感させられたのだから、俺はもちろん母も分かっている。

 声を発しても、届かないことはある。

 俺の明白な拒絶を感じてか、母はそれきり話しかけては来なかった。俺は安堵しつつも手持ち無沙汰があまりあったので、暇つぶしがてらスマホを取り出した。


 画面を立ち上げてみれば、メッセージの着信が複数あった。佐藤さんと内山さんから、直近では五十嵐からも届いている。

 佐藤さんからのメッセージには謝罪が切々と綴られており、一瞬で胸がぎゅっと詰まった。佐藤さんが謝る箇所はどこにもないのに、彼女に罪悪感を抱かせてしまった俺は重罪人だ。


 何と返事したらいいのか迷いあぐね、一旦保留して他のメッセージに目を通す。既読スルーするつもりは毛頭ないが、返す言葉が今は全く見つからなかった。


 内山さんからは、佐藤さんに付き添って帰っているから安心してくれといった旨の文が送られていた。

 当初、佐藤さんも保健室に行くと言って聞かなかった。けれど、精神が不安定になっているであろう佐藤さんと、これ以上一緒にいたらもっと余計な心配を掛けてしまうと懸念した。


 俺の不安を察知してくれたのか、すかさず内山さんが「千晴はあたしと会議室の片付けをするの。いいわね」と有無を言わさぬ提案をしてくれたので助かった。

 俺がしでかした嘔吐の処理、加えて汚れた会議室の掃除までもを頼むのは大変心苦しいものがあったが、内山さんはどうってことないから、さっさと五十嵐を連れて保健室に行けと突き放してくれたので、有り難くてほとほと頼もしかった。


 俺は今日、五十嵐内山カップルに助けられっぱなしである。後ほど、多大なる借りを返さなければならない。

 五十嵐からのメッセージには、病院での診察結果はどうだったのかと俺の身を案じる文章の他、古谷の行方についての情報が記載されていた。


 速見から伝え聞いた話だという。会議室から逃げた古谷を追いかけた速見だったが、途中で巻かれてしまったらしい。

 姿を見失って捕まえられず、申し訳ないと速見は謝っているようだが、俺からしたらロクに関係ないにもかかわらず、わざわざご足労かけてこっちこそ申し訳ないばかりだ。

 今度教室で顔を合わせたときにでも、直接感謝の意を伝えようと決めた。

 これは、騒がしくてうるさいばかりの陽キャ野郎と、速見や川元に対して抱いていた認識も改めるべきである。彼らは五十嵐共々良い奴らだ。


 翌日。朝というより、早朝と称した方が適切な時間。

 傷がズキズキと断続的に痛み、俺は昨晩中々寝付けなかった。

 睡眠不足で頭がぼんやりとして倦怠感に苛まれる中、少しでも眠るべく痛み止めを飲もうと、水を取りに一階の台所に向かえば、リビングの扉から光が漏れ出ていた。朝もうんと早いのに、誰かいるらしい。


「父さん……?」


 恐る恐る扉を押し開け中を覗くと、ソファに腰掛けてテレビを観ていた父親が俺を振り仰いだ。


「おお、どうした? 早起きだなあ」

「早起きというより、寝付けなかっただけで……」


 ぼそぼそと言い訳するように呟く。父はしばし黙って俺を見ていたが、右端に身体を寄せると空けたソファの左側をポンポンと軽く叩く。どうやら隣に座れということらしい。

 父の真意は分からないが、従順に頷いていた方が面倒が少なくて済む気がした。

 しかし、まずは鎮痛剤を飲むのが先決なので、父にひと言断りを入れて台所へと向かう。


 そして、俺は台所で水を汲んだグラスを片手に、父の言いつけ通りソファに腰を下ろした。

 そのまま、点いているテレビ画面に何気なく目をやれば、本来ならば土曜日の早朝に放送されている趣味番組が映っていた。

 父はおそらく朝早くに起きて、録画していた番組を一気に視聴しているのだろう。

 わざわざ録画してまで観るような番組とは思わないけれども、父の趣味をとやかく言う筋合いはないので、薬を飲みながら黙ってテレビを眺めてみる。

 年配の男性が趣向を凝らした一軒家を訪ね、住人と和やかに語らう場面が映し出されている。


「これ、面白くなるの……?」

「流し見する分にはいいから」


 本腰入れて観ていないと話す父は、テーブルに広げているプラスティックの部品を手に取り、利き手で握るニッパーで、型からパーツを取り外し始めた。

 なるほど確かに、プラモ作り中にテレビドラマやアニメなど、ストーリー性のある番組は集中して視聴はできまい。

 父はデカい図体と反するような趣味ばかりを持っている。プラモ作りを筆頭に、ジオラマにも手を出しているし、この間はボトルシップに熱を上げていた。


 小中学生の頃は野球のキャッチャーを務め、高校大学時代はラグビーに明け暮れていたスポーツマンなのだが、父は意外とインドアで根暗である。

 休日になったら車を出し、キャンプ、もしくはアクアスポーツにでも意気揚々と出かけていきそうな外見をしているのに、休みは部屋に籠もって漫画を読み耽るのが至高と言ってはばからない。


 父の書斎には漫画ばかりが並んでいるし、読書家である真実とも本の貸し借りをしているらしい。

 父が俺や真実の趣味に対してびっくりするほど寛容なのは、父自身もオタク趣味を持っているからだった。

 それに加え、自身が幼少期に親から受けた圧制を反面教師に、子どもたちの「好きなもの」を頭ごなしに否定するような真似は絶対にしたくないとも、以前話してくれていた。


 テレビの中のおじさんが、凝った作りの子ども部屋を嬉しげに賞賛する様をぼんやりと目で追うが、話している内容がまったく頭に入ってこなかった。

 背中にはゾクゾクと悪寒が走り、身体中を覆う気怠さがさっきよりずっと増している気がした。薬はまだ効いていないのか、軋むような強烈な痛みが時折身を襲う。


 どうやら具合が悪化しているようだけれども、何だかえらく他人事のようで、どうにかしないとと焦る感情も湧いてこない。

 ただただソファに身を預け、上向く視線そのままに天井を仰ぐ。思考回路が上手く繋がっていないせいで、何にも考えきれない。


「母さんがやけに心配していたぞ」

「うん……知ってる」

「お前は中々自分のことを話してくれないからな」

「それは……ごめんて」

「前にも言ったと思うけどな、もっと簡単に、父さんや母さんを頼ってもいいんだから」

「……うん。分かってる」


 大変申し訳ないが、父さんのかけてくれる言葉にただ相槌を返すことしかできやしない。心苦しいが致し方ない。適切な言葉を引き出す思考にさえ、頭が回らないのだから。

 具合悪さが頂点まで達してきているかのようだった。首から下は寒さが凍み入り震えるほどなのに、頭は茹だるように熱くて苦しくて仕方がない。

 息をするのさえしんどくなって、脳内の離れた場所に居る冷静な自分が落ち着いた声音で呟いた。間違いなく、風邪引いている。それもうんとタチの悪いやつ、だって。


「……っておい、大丈夫か!?」

「平気だって……へいき、問題な……い、し」


 焦点の合っていない目で、俺の身体を揺さぶる父の必死な形相を見ていた。

 じきに意識が遠のく感覚に襲われた。今日はやっぱり学校行けないなあと、意識がブツリと途切れる瞬間に、考えられたことはただそれぐらいだった。

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