第53話「泣き寝入り」
会議室でリバースした俺は、吐瀉物で汚れた制服をジャージに着替えて、保健室へと運び込まれた。
嫌な顔ひとつせず、肩を貸してくれた五十嵐には感謝してもしきれない。
俺を会議室に通した後、内山さんは元会長と元副会長と適当に話をして別れ、帰宅すべく昇降口に向かおうとしていたらしい。
だが、そのまま真っ直ぐ昇降口に行こうとした途中、妙に嫌な予感を抱いたという。おかしな胸騒ぎを落ち着かせるためにも、内山さんは会議室に舞い戻って、佐藤さんとついでに俺の顔を見に行こうと決めた。
ただ、ひとりきりでは少し不安を感じた内山さんは、何かあったときのためにもと五十嵐を呼びに行き、その場にちょうど居合わせた速見と川元にも同行をお願いした。
大勢でやって来た内山さんの判断は正解だったわけだ。内山さんにも多大なる迷惑を掛けてしまったお詫びとともに、助けに来てくれた礼を言わねばならないだろう。
今、内山さんは佐藤さんに付き添ってくれている。
顔を腫らし、血の気の失せた真っ青な顔を晒して担ぎ込まれた俺を見て、保健室の先生は目を丸くして驚いた。
ヒビの入って歪む眼鏡をジロジロ見られながら何があったのかと問われたが、俺が黙って首を振ったため、先生は深く追求してこなかった。
付き添ってくれた五十嵐は何か言いたげな不満顔をしていたけれども、俺が古谷から暴行を受けた旨を伝えなかった以上、しゃしゃり出て暴露するような真似は取らなかった。
顔を殴られた傷はすぐに処置ができたが、腹部のダメージの程度は保健室では分からず、先生から病院での診察をすすめられた。
保護者に連絡して迎えに来てもらいなさいと言われ、両親は仕事中だからひとりで病院に行くと述べたら、先生も五十嵐も顔をしかめて呆れたように息を吐いた。
「……新留さあ、ひとりで歩けもしないのに、どうやって病院まで行くつもりかな?」
「学校最寄りのバス停までどうにか辿り着けたら、バスに乗って病院に行く。それならいいだろ」
俺の返事を受け、五十嵐は眉根を下げて肩を竦めた。
それから五十嵐は、お手上げだという風に、保健室の先生の指示を仰ぐ。先生は目を三角にしてお怒りの様子だった。
「良くないに決まっているでしょう。ご両親に来てもらえないなら、担任の先生か副担任の先生に車を出してもらいましょう」
更に面倒な事態になってしまった。申し訳ないから止めてくれと固辞する俺を無視し、先生は保健室から出て行ってしまった。
このままでは俺を嫌っている担任、もしくは苦手意識を抱く副担任のどちらかに迷惑を掛けてしまう。
今なら保健室を出て行って、とんずらを決め込めるか、と立ち上がって足を扉に向けたところ。じろり、と俺の顔に鋭い視線が突き刺さる。しまった、保健室にはまだ五十嵐が居やがった。
「どうして先生たちを頼ろうとしないんだ? それに、ちゃんと言った方がいい。古谷に暴力を振るわれたって」
「……面倒なことになるじゃないか」
「何を言っているんだ、君は。新留は被害者なんだ。古谷から暴行を受けたんだろう。ちゃんと説明したら、古谷には間違いなく処分が下る。彼は停学、いや、それ以上の罰則を受けるぐらいの悪行を犯したんだ」
「やめてくれ。事を大きくしたくない……」
ジクジク痛む腹部を押さえ、俺は消え入る声で懇願した。
五十嵐は瞠目し、俺の弁が不可解だとばかりに表情を歪ませた。彼の握る拳は怒りのせいか、小刻みに震えている。
「五十嵐の意見が真っ当だって分かる。だけど、教師に告げ口した後が怖い」
「告げ口じゃないだろう! 君は何をそんなに恐れているんだ!」
「佐藤さんに被害が及んでほしくない……」
五十嵐ははっと息を呑む。俺の訴えがあまりに迫真で、いやに切羽詰まっていたからか。
「教師に事実を話したせいで、古谷から俺が報復されて、今より怪我しようが骨を折ろうが、本当にどうだっていい。でも、佐藤さんの身に危険が迫ることだけは、絶対に阻止したい」
古谷は佐藤さんを力の限り振り払い、容赦なく床へと倒れ込ませた。床に這い蹲る佐藤さんを見ていられなかった。
俺の訴えのせいで、もしも古谷が生徒会長の座から失脚したら。奴は今日以上に牙を剥くだろう。古谷は欲しいものはどんな手を使ってでも、掴み取る人間だと痛感した。
もしも、掌中に納めた権力を剥奪されてみろ。奴の逆恨みは俺はもちろん、佐藤さんにも及ぶだろう。
古谷は頭脳明晰で、さぞや悪知恵も働くはずだ。自身の行動が周囲にどんな影響を及ぼすのかなんて完璧に把握しており、全てにおいて織り込み済みだろう。
そんな古谷が暴力を振るって被る損害に頓着せず、俺を心行くまで叩きのめせたのは自信があるからだ。
暴行を働いた事実を揉み消すのは容易いと、俺をとにかく侮っているのだ。
俺と古谷、どちらが信用に値する人物か。火を見るより明らかだ。古谷は教師の覚えもいい。加えて、生徒会長という役職持ちだ。品行方正で立派な生徒だと、誰もが賞賛してくれる。
かたや、俺は担任教師はもとより、ほとんどの教員から好かれてはいないだろう。教員が俺に抱く印象は数いる生徒のうちのひとり、もしくは存在自体覚えていないかもしれない。
俺と古谷、どちらの言い分を信じるか。
俺が事実を誇張なく洗いざらい述べたとて、教師陣に信じてもらえる可能性は低い。
仮に物的証拠があったならまた結果は変わってくるだろうが、古谷から暴力を受けていた現場を証明するようなものは何にもないのだ。
忸怩たることだが、スマホでの録画も録音もできておらず、唯一の証拠は俺の受けた傷と言い分だけ。けれど、どうやって古谷からの暴力のせいで、生じた怪我だと根拠を示すのか。
更に、言い分はもっと心許ない。いくら必死に声を上げたとて、俺の訴えは嘘だと一蹴されるに決まっている。
勝負は最初から決している。負け戦に挑むなんて馬鹿らしい。これ以上の痛みを受けないためにも、俺は自ら進んで泣き寝入りを選択するのだ。
俺の頑なな態度を見てか、五十嵐はもう反論を口にはしなかった。
代わりに五十嵐は、「俺にできることがあるなら言ってくれ。助けが必要なら遠慮するな」と真剣な顔つきで説いてきたので、こればっかりには頷く他なかった。
五十嵐が単なるクラスメイトである俺に対し、どうしてそこまで親身になってくれるか分からない。とんでもないお人好しなのだろう。
そうして、どこまでもお節介なのだ。陽キャというのは、誰も彼も大体距離感がトチ狂っているから、五十嵐もただのクラスメイトにまで、手を差し伸べる酔狂さを持ち合わせているのだろう。
ただ、ひとつ確信を持って言えるのは、五十嵐が良い奴だということだった。
結局、俺は副担任の車に乗せられ、近くの病院まで連れて行かれて診察を受けた。
副担任は保健室の先生とは違い、空気が読めずにしつこいので、どうしたどうしたと大袈裟なほど騒ぎ立て、執拗なまでに怪我の理由を尋ねてきてほとほと閉口した。
俺は目を伏せて恥じ入る演技をしながら、階段から誤って転落してしまったと、でまかせの負傷理由を口にした。
副担任は俺の言葉に半信半疑の様子であった。だが、俺がそれ以上詳しい話を述べずにだんまりを決め込んだためか、更にしつこく追求してくる気配はなくて安堵した。
病院での医師による診察と検査の結果、幸いにも臓器や血管への損傷や出血は見られなかった。しかし、腹部の腫れや痛みはあるので、傷の手当をしてもらい、薬の処方は行われるとのことだった。
診察後、待合室に待機していた副担任に症状を伝える。
診察に同席したいとの申し出を断っていたためか、副担任は不機嫌そうな顔つきを隠しもせず、戻ってきた俺の説明に逐一頷いていた。
それから受付で支払いを終え、薬局で薬を受け取ったら、これでようやく帰宅を指示されるだろうと油断していた。
「新留くんが診察中に、親御さんへ連絡をしておいたからね。お母さまが職場から迎えに来てくれるそうよ」
「は……何を勝手に。親は呼ばずとも、ひとりで帰れたのに」
「馬鹿言わないで。きみ、ヨロヨロじゃない。眼鏡もバッキバキに割れて危なっかしいし、ひとりで帰すわけないでしょう。それにね、学校で怪我したと、説明もしなくちゃいけないし、親御さんを呼ぶのは当然よ」
俺は反論しようと口を開きかけたが、副担任からギロリとひと睨みされ、慌てて唇を引き結んだ。
それ以上口答えせず、黙って座っていなさいと諭されてしまう。
「それとね、明日は学校来ちゃ駄目よ。安静にしておくこと」
「教師が欠席を勧めないでもらえますか」
「皆勤賞狙っているの? 残念だけど諦めなさい」
「そう言うわけじゃないですけど……」
俺が欠席に対してやんわり異を唱えると、副担任はますます眦を吊り上げて、怒った口調で言い含めるように告げてくる。
「だったら何を躊躇うことがあるの。今はゆっくり休んで、万全の体調になったら学校に来ること。新留くん、顔真っ青よ。息も荒いしフラフラだし」
「明日には治っていますって」
「強情ね……それほど学校が好きだなんて、先生思ってもみなかったわ」
パチパチとわざとらしく目を瞬く副担任が憎らしい。
けれど、これ以上反駁せずに先生の言い分に納得し、頷いた方が得策なのは違いない。渋々顎を引く。
「……分かりました。明日は休みます」
「最初から素直に言えば良いのよ。それとね新留くん」
「なんですか」
「きみを信じて、階段から落ちて怪我したって言い分を今は信じますけれどね。気が変わったら、本音を話してちょうだいね」
つまり、俺の負った傷は階段から落下してできたものではないと暗に言っているのだろう。黙りこくる俺を見て、副担任は小さく息を吐いて苦笑した。
俺の喋らない意思は変わらないと、諦めたのだろうか。しかしまだ、今後追求する気は持っているらしい。正直、面倒なことになったと臍を噛む。
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