第52話「自信」
俺の隣に立つ佐藤さんに視線をずらせば、彼女は煩わしそうな顔つきを隠しもしない。
普段の朗らかで優しい佐藤さんとはまるで異なる表情に、俺はひたすら驚愕してしまう。
そこまで古谷に嫌悪感を抱いているのか。俺も奴は心底嫌いだけれども、佐藤さんの比はそれ以上に感じられる。
「なんか、って何? 新留くんだから、私お付き合いしているんだけど。勘違いしないでくれるかな?」
「こっ、こんなヤツのどこが良いんだ!? ろくに取り柄もなさそうで、野暮ったくて冴えない男だろう!? こんな男よりずっと僕の方が勝っている! 僕と付き合う方が佐藤くんは幸せになる、絶対に! 新留なんか捨てちまえ!」
古谷の渾身の訴えを黙って聞いていた佐藤さんだが、隣で見ていた俺には分かる。彼女が纏う怒りのボルテージが徐々に上がっていたことを。
佐藤さんは不機嫌な表情を消し去り、今度は異様なまでの満面の笑みを作る。その笑みを見た古谷は何をどう解釈したのか、元来の勝ち誇ったような自信満々の顔つきを取り戻す。
佐藤さんがようやく理解を示してくれたと、まさに勘違いしていそうな顔だった。
いや、佐藤さんはとうとう堪忍袋の緒が切れて、怒りが振り切れただけだと思うのだが。
「黙れ」
「さ、佐藤くんっ!? そんなことを君は言わないだろう! どうしたんだ、一体。いつもの佐藤くんに戻りたまえ」
「ねえ、私の何を知っているの? 私を勝手に定義しないで」
佐藤さんは再び笑顔をなげうち、古谷をしかと睨みつけて啖呵を切る。
「私が好きで愛して止まないのは新留くん。決してあなたじゃない。いい加減、理解して」
「こ、こんなヤツのどこが……っ! こんな、こんな劣っているヤツを……」
「何も知らないくせに。新留くんを悪く言わないで!」
佐藤さんの慟哭に、古谷はひゅっと喉を震わすと、もはや聞き入れられないと諦観したのか、怒りの矛先を俺へと向ける方向転換に打って出た。
佐藤さんを見ていた際には決してなかった憎悪の色が、俺を睨む古谷の目には今、如実に表れていた。
いつもの外面の良さはどこへやら、煮えたぎるような激昂が顔中に広がり、般若のごとき形相で醜く歪み切っていた。
一時間ほど前に演説を打っていた好青年じみた姿とは、まるで別人のようだった。
「身の程知らずめ。なあ、新留。君は恥ずかしいとは思わないのかい」
「は?」
「前に言っただろう。佐藤くんに相応しい相手は僕だと。君は何かひとつでも、僕に勝っている点があるのかな。言ってみろ。ないだろう?」
得意げな顔つきで俺を見下す古谷。
俺はすぐさま言い返すべきだった。そんなことない。俺にだって、古谷に勝ることのひとつやふたつあるのだと。声を大にして主張しなければならなかった。
だが、俺は拳を握って俯いていた。いくら考えてみたところで、何もなかった。
何にも俺は持っていなかった。容姿もぱっとせず、頭脳は明晰じゃない。運動神経も人並み以下で、溢れる自信も前向く勇気も持っちゃいない。
古谷を圧倒する長所なんてなんにもない。全てにおいて劣っていた。俺は古谷に何一つ言い返せやしないのだ。
その現実をまざまざと実感し、俺は恐怖に震えている。目線は教室の床を舐めるばかりで、決して顔は上がらない。
負けている。勝負はすでに着いていた。
「ほら見ろ! 新留、お前が僕に勝てる要素はひとつもないんだ。自覚しろ、自分の駄目さ加減を。やっぱりお前に佐藤くんは不釣り合いだ。これ以上、お前も恥を掻きたくないだろう。僕に渡せよ、佐藤くんを!」
ぐいっと手を差し出し、古谷は歯茎を覗かせ高笑う。
腹の底から自信満々に笑いながら、古谷は俺と佐藤さんの元へ歩み寄り、一層残虐な表情を顔に張り付かせて言い放つ。
「返せよ、ほら!」
一瞬の隙を突き、古谷は佐藤さんの手を引っ張った。
そして、佐藤さんの身に腕を回して、逃がすものかとばかりに激しく掻き抱いたのだ。
「やめてっ! 離して!」
「佐藤さん!」
彼女を奪還すべく必死に手を伸ばすも、無残にも空を切るばかり。
佐藤さんも古谷にされるがままではなく、身体に巻き付けられた奴の腕を叩き、どうにか束縛から逃れようともがいているがままならない。
一方、タガが外れたように笑う古谷の目には、もはや理性は吹っ飛び、欲望しか渦巻いていない。
「おい、言えよ。僕の彼女にしてくださいって、ほら言えよ! 僕は生徒会長だぞ。生徒の中で一番偉いんだ。僕に反抗なんてしてみろ。お前の学校生活、滅茶苦茶になるからな。ほら僕のものになれ!」
「嫌だ! 絶対に言うもんか! 私は……、私の恋人は新留くんだけだもの!」
頭を振って腕を揺らし、古谷に力の限り反抗する佐藤さんは涙で顔を濡らしていた。
どうして俺は、何もできないと突っ立っているのだろう。俺を好きでいてくれる希有で優しい女の子を泣かせるなんて、俺はどこまで無力なんだ。
これじゃまるで、俺の掲げる理想はとんだお笑い種だ。困っているひとを救うヒーローに、憧れているのではなかったか。
恋人ひとり守れないで、ガタガタ無様に震えているなんて、俺の矜持はこの程度か! 動け、足! 前に進め! 声を出せ!
「……佐藤さんを離せ!」
床を蹴り、俺は古谷へ跳びかかった。
それからはもう、がむしゃらだった。佐藤さんを抱き締める古谷の腕を力ずくで引っ張り上げる。
密着度合いが薄れ、わずかに生じた身体と身体の隙間を使い、佐藤さんはどうにか古谷による束縛から逃れた。
しかし、捕らえていた佐藤さんを失ったということは、古谷が自由に動けるとも同義であった。
腕を掴む俺の手を簡単に払い除けるや、古谷は払った動作の勢いそのままに、俺の顔へと掌底を叩き込む。
「新留くん!」
俺は佐藤さんの悲鳴を耳に、もんどり打って床へと倒れた。
古谷から渾身の力で顔を殴られ、床を転がるように倒れた結果、掛けている眼鏡は吹っ飛んで、遠くに飛んでいってしまう。
「がはっ……!」
上手く受け身も取れなかったせいで、転倒した俺の身体は瞬く間に大ダメージを被った。
カエルの潰れたような声を出し、胸を打った衝撃で激しく咳き込む。顔面を拳で殴られたためか、鼻から血がボタボタと結構な勢いで滴り落ちていた。
慌てて鼻の下を拭うと、ドロリとした生温かい感触が指先から広がる。鉄の臭いが鼻一杯に充満し、ふいに目の前が真っ赤に染まる錯覚に囚われた。
「新留くん!」
俺の名前を涙声で叫ぶ佐藤さんに、大丈夫だからと全く嘘の返事をしようと身を起こそうとした矢先、顔の前が暗く陰る。
仰向けに寝転がる俺を、古谷が見下ろしていた。眼鏡を失い、視界がぼやけており、なおかつ頭上の蛍光灯を遮るように立たれているせいもあり、古谷の表情は分からない。
けれど、奴がどんな顔をしているのか確認するまでもなく、怒りに震えているのだけは伝わってくる。
上履きを履いた古谷の足が、俺の腹を容赦なく蹴りつけた。腹部に伝わる衝撃を受け、俺は声にならない悲鳴を漏らす。
一発、二発、三発と、古谷は俺の腹をめがけて何度も何度も蹴りを繰り返す。
俺が苦痛で上げる呻き声と、佐藤さんの悲痛な叫びの合間に、古谷が俺を足蹴にして規則正しく鳴る音が混じり合う異様な合唱音が室内に響いていた。
「やめてっ! もうやめて!」
「……佐藤くん。君のせいでもあるんだよ。君が僕に逆らうからこうなる」
佐藤さんは果敢にも古谷にしがみついて、俺へと向けられる攻撃を中断させようと挑んだ。
けれど、古谷は呆気なく佐藤さんの身を振り払い、冷酷非道に突き飛ばす。そうして、中断していた俺の腹への蹴りを再開するのだった。
絶えず痛みが疼く混乱の最中、佐藤さんまでも床に倒れているのを、霞む視界の端で捉えた。
怪我をしていないといいのだが、なんて俺はろくに働かなくなってしまった頭で、佐藤さんの身を案じることしかできない。
俺を助けてくれようとした佐藤さん、君を守れない自分自身が不甲斐なくて仕方がない。
「痛いか、苦しいか。いい気味だ。僕に歯向かった罰だ」
古谷の口から漏れるのは、ぞっとするほど冷たい声色だった。
蹴りつけられる痛みで、意識が遠くなるけれど、俺が今気絶したら最後、古谷の攻撃の矛先は佐藤さんに向かってしまう。
だから、痛みに負けて意識を手放すことはできやしない。薄れる意識をしっかり持つべく、ガチガチと震える歯を懸命に食いしばった。その顔はもはや、苦悶の表情を浮かべているとしか捉えられないようなひどい形相だろう。
「おい、佐藤くん。やめてほしいか」
「やめてよ! 今すぐに!」
「だったら言え。僕のものになりますって、言え」
佐藤さんは息を呑み、言葉を失ったように静まり返った。
その間もなお、古谷は足を止めず、俺を蹴り倒す動作を休めない。むしろ、どんどん蹴りの強さと速度は上がり、生じる痛みは増加する。
額にはびっしりと脂汗が浮き、呼吸はままならず、迫り上がる胃液をこのまま吐き出してしまいそうだった。いっそ、楽になってしまいたい。
けれど、止めてくれと、俺が懇願したところで古谷は聞かない。佐藤さんだけが古谷の動きを封じるカードを持っている。
だが、佐藤さんは古谷の言葉に頷かない。眼鏡を失った視界はぼやけ切って、加えて痛みのせいでろくに瞼も開けられず、佐藤さんが今、どんな顔をしているのか分からない。
でも、彼女はしゃくりを上げて泣いている。俺のせいで悲しんでいる。
「さ、さと、うさ……ん」
「新留くんっ!」
「どうした、おい。早く言わないと、好きな男が死ぬんじゃないか」
「いや……いや……だめぇ」
涙に濡れた嗚咽が響く。佐藤さんは「うん」と言わない。俺は今、佐藤さんに何と言ってほしいのだろう。
古谷の攻撃から解放してもらうべく、奴のものになれと言ってほしいのか。それだけは願えない。
だって、佐藤さんは誰のものでもない。もちろん佐藤さんは俺のものでもないし、彼女は彼女、佐藤千晴だ。
「言えよ!」
「嫌! 私が好きなのは、ずっと昔から、これからもずっと新留くんだから!」
「……もういい」
古谷は大きく足を振り上げ、体重を乗せた強烈なキックを俺の腹部に、とどめとばかりにぶち込んだ。
骨が軋み、身体の引き裂かれるような激痛が全身を貫く。心臓が悲鳴を上げんばかりにドクリ、と大きく脈打った。
顔は汗にまみれ、ぼやける視界はノイズが走ったかのごとく乱れ、うっすらと白くモヤがかる。荒い呼吸が耳にうるさかった。
腹を蹴り上げ続けざま、俺の顔をも蹴りつけようと古谷の足の裏が迫ったそのとき。
「そこまでよ!」
勢いよく扉が引き開けられ、幾重もの声と共に、多数の者が教室へと一斉に雪崩れ込む。
「うわっ!」
「大丈夫か!?」
「やべえ!」
次々に頭上から降ってくる声。
不鮮明な視界に映るのは、佐藤さんが女子生徒……たぶん内山さんだろう、の手を借りて立ち上がる姿だった。良かった、佐藤さんが無事で。
「新留、立てるか?」
「なあ、無理に動かさない方がいいんじゃね?」
名前を呼びかけられ、遠慮がちに肩口を揺すられた。
目線を動かし上を見やれば、おそらく五十嵐がいて、その両隣には川元と速見が俺を取り囲むようにしゃがんでいるようだった。
「って、ああ! あれ、古谷くんじゃん。何アイツ、おい! 逃げんなよ!」
傷に響く怒鳴り声に顔が歪む。
川元か速見、どちらかが立ち上がって、猛然と扉の方へと駆けていった。どうやら、逃げた古谷を追いかけて行ったみたいだった。
「これ、新留の眼鏡でしょう。割れちゃってる……」
内山さんが近づいてきて、眼鏡を差し出してくれた。
床に転がっていたままの眼鏡を拾って持ってきてくれたみたいだ。受け取った眼鏡はとてもじゃないが、使用できるような有様ではなかった。落下した衝撃でレンズにヒビが幾筋にも入っており、バキバキに割れている。
「起きられるか?」
背中に手を添え、五十嵐が俺の上半身を起こしてくれた。起き上がった途端、激しく咳き込み、じわりと下瞼に涙が滲む。
ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す最中、口内の金属臭さに今更ながら気がついた。口の中を切ってしまったのだろう。鋭い痛みと共に鉄の味が舌に広がる。
思わず舌先で傷口をなぞると、ドロッと血が垂れた。鼻血に加え、口からの流血を自覚したのを引き金に、俺は腹の底から迫り上がる猛烈な気持ち悪さに勘付く。
慌てて口元を押さえるが吐き気が収まるわけもなく、何度も何度も執拗に蹴られて、苛まれた腹の下の内臓がしきりに悲鳴を上げていた。
喉元に生温かさを感じた刹那、胃から逆流してきた吐瀉物に空気の通り道が完全に塞がれ、ぐうっと息が詰まった。そうして、閉じていた唇は圧迫に耐え切れず、俺は盛大に嘔吐したのだった。
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