第42話「意外な再会」

「新留くん、しっかりして……」


 気付けば俺はベンチにぐったりと、軟体動物もかくやとばかりにへたり込んでいた。

 佐藤さんの気遣わしげな声がして、気力を振り絞ってヨロヨロと顔を上げる。目前に彼女の顔がドアップに迫っており、残りの体力全部使い果たして慌てて身を引いた。そのまま仰向いて、気を失いそうになる。


 だが、温かな両手が肩を握ってしっかり支えてくれたので、意識を手放す失態は犯さずに済んだ。いや、失態は現在進行中で犯し続けているけれども。

 佐藤さんの手をやんわりと払いのけ、俺は精一杯の笑顔を浮かべてみせる。心配そうに俺を窺う佐藤さんの後ろには、不安げな面持ちの鴻池と、困ったように微笑む古谷が立っていた。

 迷惑をかけている事実に心臓が押し潰されそうで堪らない。


「……悪い」

「謝らなくていいよ。私が乗ろうって無理させちゃったから。ごめんなさいを言うべきは私で……」

「いや、俺が強く拒否しなかったのがそもそも駄目だったから……」

「でも!」


 なおも言い募ろうとする佐藤さんを押しとどめ、俺は掻き集めた体力を用いて、首を横に振る。

 佐藤さんが申し訳なく思う理由はどこにもない。悪いのは全部俺だ。


「少し休めば立てるようになるだろうから、みんなは他のアトラクションに乗って来なよ」

「私は新留くんと一緒にいるよ」


 佐藤さんが付き添ってくれるのは、はっきり言って迷惑だった。

 こんなみっともない姿をこれ以上見てほしくないし、面倒ごとを引き受けてもらうのは申し訳なさで死にそうになる。

 それに、鴻池を古谷とふたりきりにさせるのは心配だ。ムードを作るためには、そりゃふたりで園内を廻ってもらうのが一番だろうが、あんな縮こまった様子じゃ鴻池は古谷とまともに会話も継続できやしないだろう。

 誰か仲介役を間に挟まないと、鴻池が萎縮して再起不能になってしまう。後輩が悲しい思いをするのは心が痛む。


「頼む、佐藤さん。鴻池についててあげて」

「でも……」

「頼むよ」


 佐藤さんはまだ食い下がりそうだったが、俺が断固として彼女の滞留を拒否し続けたせいか、名残惜しそうな気配を隠すことはせずともベンチから離れてくれた。


「何かあったら電話してね。すぐに戻ってくるから!」

「……うん、ありがとう」


 徐々に遠くなる三人の後ろ姿を見送り、俺は頭痛の鳴り止まない頭を抱え、ゆっくりと息を吐いた。

 頭の痛みに加え、気持ち悪さは継続中であり、気を抜くと胃液が迫り上がって、たちまち戻しそうになる。

 ジェットコースターから降りた途端、脇目も振らずトイレに駆け込んで、胃の中のもの全部吐いたというのに。まだ気持ち悪さ全てを、吐き切っていないらしい。ああ、胃がムカムカする。気持ち悪い。


 この様子では、しばらくは動けそうにない。三人と再び合流して、園内を巡るのには時間がかかりそうだった。

 佐藤さんの負担を考えたら申し訳なさが募るけれども、動きたくても動けないのだから、体力も気力も潰えてさながら屍状態の俺にできることはない。


 ひとりきり、ベンチで休んでどれほど経っただろうか。ほど近い隣のベンチに人の座る気配がして、緩やかに顔を上げれば騒がしい声が耳に届く。

 ベンチには今し方、小柄な老人が腰掛けており、続いて駆け寄ってきた子どもふたりが老人の両隣に座るや、きゃっきゃっと笑い声を上げて、ふたりじゃれつくように喋り出す。


「じいじ、つぎはメリーゴーラウンドにのりたい。るり、カボチャのばしゃにのるの!」

「ええっー! ボクは最初から、ゴーカートに行きたいって言ってたじゃないか。おじいちゃん、行こう?」

「こら、瑠璃るり翡翠ひすい。じいちゃんは一人だから、どっちかひとつに絞ってくれ。もう足腰が震えて動けねえよ」


 幼い兄妹らしき子どもたちの声に続いて聞こえた老人の特徴的なしゃがれ声に、何だか聞き覚えがある気がして、三人が腰掛けるベンチへと顔を向けた。

 老人はピカリと光り輝く見事な禿頭の持ち主で、ド派手なアロハシャツを纏っていた。酒焼けでしゃがれた声といい、派手な外見といい、まるで見覚えしかなかった。


 俺はこの老人をよく知っている。雫くんと共にゲートボールのステッキの持ち主を探す際、公園で出会った老人集団の中にいた人だ。

 リーダー格らしく、皆から「田代さん」とか「珠ちゃん」とか呼ばれて、随分と慕われていた記憶があった。

 ステッキの持ち主である綿貫さんは果たして、あの後広場に顔を出したのであろうか。その後、気にはなっていたものの、特に接点のない相手とあってそれきりになっていた。


 田代さんに偶然出会えたのだ。渡りに船とはいわばこのことで、詳細を訊いてはみたいが、今近づいていっていいものか。

 ぐるぐると考えを巡らせていたせいか、彼らをジロジロ不躾に見つめすぎてしまっていたらしい。

 さっきまで孫ふたりを見て、疲れ切った笑みを浮かべていた田代さんと目が合った。思わず慌ててそっぽを向いて、何も見ていませんと必死に繕った。

 だが、俺の名演虚しく、田代さんは「おい、そこのボウズ」と声をかけてくる。せめてもの抵抗と周囲を見渡すも、あいにく辺りに人の気配はなかった。

 田代さんは間違いなく俺を呼んでいる。やはり、顔を覚えられていたか。


 観念して田代さんを怖ず怖ずと見る。田代さんの横には小さな孫がふたり座っているので、彼らをジロジロ凝視していた俺は、小さい子に異常性欲を抱く犯罪者だと疑われているのでは、と警戒した。

 けれども、田代さんは俺の目にはどうにも上機嫌に映った。まるで、例えるならば生け贄を見つけたような、そんな目をしていた。 

 田代さんの不気味な笑顔に合わせ、俺もどうにかこうにか微笑みを返してみせた。俺のぎこちない笑顔をどう捉えたのか、田代さんはますます上機嫌になった。

 口笛を吹かんばかりの調子で、こっちに来いと俺へと手招きをしてきた。身体には気怠さがまだ残っていたが、立ち上がって歩けないこともない。若干覚束ない足取りで、隣のベンチへと歩み寄る。


「久しいな……ええっと、じゃすちすれんじゃー、だったか?」

「ジャスティスマンです! いい加減覚えてください」


 この人、やっぱりちゃんとジャスティスマンの名前を覚える気がないな。

 脱力しながら田代さんを胡乱な目で見やっていれば、隣に腰掛ける男の子が不思議そうな面持ちで「ジャスティスマン……?」と呟いている。

 もしかして、この子こそ田代さんが言っていた特撮ヒーロー番組を好んで観ている孫だろうか。

 ヒーロー好きの将来有望な子どもに、ジャスティスマンの正体を知られてはまずい。俺は慌てて、繕うように言い募る。


「いや、俺はジャスティスマンの知り合いってだけなんですが……」


 何だか墓穴を掘った気がした。

 これ以上、藪蛇に陥らないためにも、別の話題に転換させよう、そうしよう。


「……あの田代さん。あれから、綿貫さんは広場に顔を見せられましたか?」


 俺が綿貫さんの名前を出せば、田代さんは先ほどまでのお茶らけた雰囲気を潜め、神妙そうな顔をしてゆっくりと頷いた。その表情にはどこか安堵にも似た色がある。


「ああ、おかげさまでよ。広場に出て来てくれた綿貫さんに、儂も謝ることもできた。綿貫さんも他の連中と話をしてな、誤解も解けたわけよ。まあ、全員が全員とまではいかないが。それからは、綿貫さんもたまに広場でゲートボールをやっていてな、相変わらず指導は厳しいけどよ。楽しんでのんびりやりたい人には、練習も無理強いしなくなったな」


 田代さんの穏やかな笑みと話を聞き、俺も良かったと息を吐いた。綿貫さんは適切に田代さんを頼ることができたのだ。


「本当、お前さんには感謝してもし切れねえ。ありがとうよ、じゃすちすまん」

「ジャスティス……いえ、俺の名前は新留です。ジャスティスマンとは別人ですから」

「悪い悪い、そうだった、新留くんな。ところで新留くんよ。何だか暇そうじゃねえか」

「……え?」

「まるで、恋人に振られて途方に暮れたような面してるぜ。ベンチで項垂れていてよ」


 呵々と笑う田代さんを前に、俺は困惑を隠しきれない。

 突然、がらりと話題を変えてきたかと思えば、とんだ断定をされてしまった。ジェットコースターの一件で、佐藤さんに呆れられたかもはしれないが、振られてまではいないだろう。

 それに、ひとりでいるのは俺自身が望んだ結果であって、暇で仕方がなく時間を潰せずにいるわけでもない。

 だけれど、佐藤さんを知りもしない田代さんを相手に説明をするにはややこしすぎて、俺は黙って曖昧に微笑むしかできなかった。


「なあ、新留くん。うん、新留くんよ、ひとつ頼まれちゃくれねえか?」

「はい?」


 田代さんは俺の名前を殊更親しげに呼ぶと、ぐいっと口角を上げてにこやかな笑顔を形作って、手を差し伸べてきた。

 もしや、握手でも求められているのだろうか。狼狽えつつも手を伸ばせば、田代さんは老人とは思えない握力でぐっと俺の手を握り返してきた。


「握手してくれたってことは、儂の願いを引き受けてくれるってことだよな?」

「え……承諾するなんて言ってな……」

「老い先短いジジイの頼み、若人は聞いてくれるよな?」


 強い目力と圧のある笑みで脅されると、気の弱い俺は頷くしかできなかった。一体、今度はどんな無理難題を田代さんに頼まれてしまうのか。

 田代さんは両隣に腰掛けて、俺たちの会話をお行儀良く眺めていた孫たちへと視線を落とした。


「翡翠、瑠璃、喜べ。この兄ちゃんが、これからお前たちの面倒を見てくれるからよ」

「えっ!?」


 突然何言っているのだ、このじいさんは。

 俺が目を瞬いて驚きで固まっている間にも、田代老人は孫ふたりへと説明を続けている。


「じいちゃんはちょっと疲れちまったからよ、休憩させてくれ。代わりに、これからはこの兄ちゃんと遊園地を廻るんだ。メリーゴーラウンドもゴーカートにも連れて行ってくれるからな」

「へー! このひとと?」

「頼りなさそうだけど、大丈夫?」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 俺を無視してどんどん話が進みそうになっているので、流石に待ったをかけさせてもらう。

 俺の制止の声を聞き、田代さんは如実に面倒な顔つきになった。話の腰を折られて不満らしい。


「何だい、新留くん」

「こんな見ず知らずの人間にお孫さんを預けて平気なんですか? 今、誘拐とか何かと物騒な事件も多いじゃないですか」

「いやいや、見ず知らずなんて、そんな水臭いこと言うんじゃねえよ。儂にとって、新留くんは恩人よ」


 再び田代さんから握手を求められ、拒否しようと身を引いたが、強引に引っ張られて二度目の握手を交わされてしまう。

 一体何なんだ、このじいさんは。困惑しかない。


「それに新留くん、あんたに誘拐なんて真似ができるのかい?」


 ぐっと言葉に詰まる。確かに自分で提言したとは言え、俺なんかには誘拐事件を犯すような度胸はない。傍目には、人畜無害そうな冴えない男にしか見えないだろう。

 だが、どんなにひ弱そうな見た目であれ、犯罪に手を染める者だっているわけで、大事な孫をろくに知りもしない人間に預けるなんて暴挙、常人にはできるはずがない。

 恩人なんてうそぶかれても、俺は決して絆されやしないからな。

 田代さんが非常識なのだろうが、子どもの面倒を見るなんてこと、安請け合いで快く引き受けるわけにはいかない。

 ここはきっぱり断ろうと口を開こうとした矢先、田代さんが遮るように声を出す。


「新留くんは、困っているひとを見捨てるような非道じゃないだろう。前は助けてくれたじゃねえか。それによ、これ以上老体に鞭打たせて、老いぼれを孫のために奔走させるのかい」


 いや、それが保護者の役目だろうに。

 けれど、俺は反論の言葉をぐっと呑み込み、田代さんの話の続きを黙って聞く。理由は何であれ、困っている人は助けなければならないからだ。


「儂の娘がよ、今子ども連れて、しばらく実家に帰ってきているんだよ。仕事ばかりに精を出すロクデナシの夫と喧嘩しちまってな。それで、たまには子育て忘れて羽根のばして来いってわけで、儂の女房、娘にとっちゃ母ちゃんで、こいつらからしたら祖母ちゃんと一緒に買い物に行っているのさ」

「は、はあ……」

「儂はお守りを任されたんだが、やっぱり歳にゃ勝てねえな。朝から元気な孫ふたりに振り回されて、もうガタが来ている身体が悲鳴を上げている。だからよ、暇を持て余している新留くん、ぜひとも頼まれてくれ。儂の代わりに孫たちに思い出を作ってくれないか?」


 田代さんの抱える事情は分かった。

 だけれども、俺が孫ふたりの面倒を見る理由にはなっていない。いわば厄介ごとを押しつけられているのに違いなく、加えて見ず知らずの子どもを預かる責任を持てるわけもない。

 俺の不注意で小さな子たちを危険に晒してしまったらと考えれば、今回ばかりは簡単に田代さんの頼みを引き受けられるはずがない。


 そのような旨を掻い摘まんで述べれば、たちまち田代さんは孫たちに安全について説き、「兄ちゃんの言うことはしっかり聞くこと」と念押しし、俺と連絡先の交換を申し出やがった。意気揚々とスマホを取り出している。


「よし、これで儂らは名実ともに、見ず知らずの他人じゃなくなったわけだ。歳の離れた友達ってな。おい、新留くんよ。もし何かあったら儂に電話しな。それと、これは遊園地で使う分の費用とお守り代だ。受け取ってくれ。遠慮はいらねえよ」

「えっ……強引な」


 田代さんは俺の手に一万円札を二枚ねじ込み、さらに背中を強めに何度か叩いて激励を送れば、話はこれまでだとばかりに荷物を担いで歩き出す。


「儂は園内のゲームセンターで休憩しておるからよろしくな。メダルゲームでも遊んで、体力を回復させんと」


 結局、田代さんがゲームセンターにて、メダルゲームで遊びたいだけではないのか。

 釈然としない気持ちを抱きつつも、怒りをぶつける先の相手である田代さんの背中はすでに遠い。

 身体が悲鳴を上げているとか、疲労困憊で動けないだとか散々ほざいていた田代さんだったが、足腰はしっかりしているし、歩く速度も普通に速いし、やっぱりこの爺さん謀ったな。

 煩わしい孫の世話を俺に押しつけ、自分は冷房の効いた屋内で、悠々とゲームしたいだけじゃないか。


「ねえねえ、はやくいこーよ」


 傍らにほの温かな気配を感じると思ったら、女の子からぐいぐいと服の裾を引っ張られていた。これ以上、この場に留まってじっとするのは限界のようだった。女の子の隣に立つ少年もまた、退屈そうに俺を見上げている。

 もはや俺に逃げ道は残されていない。田代さんの望み通り、孫ふたりを遊園地で楽しませるしかなかった。

 何がどうしてこうなった。全てはジェットコースターに惨敗した俺が悪いのか。

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