第32話「休み時間」

 梅雨時期のせいか、ここ二、三日雨が降り続いている。今日もまた朝よりずっと、灰色に曇った空から、細雨がしとしと降り注いでいた。

 廊下の窓から空を仰ぐ。雨はまだ止みそうにない。この様子だと放課後もまだ降雨は続いているはずだ。傘は持ってきているが、やはり雨の中を帰宅するのは億劫だ。


 現在時刻は二時過ぎ。五限目が終わり、休み時間の最中だった。

 教室ではクラスメイトたちがめいめい、自由に休み時間を過ごしているはずだろうが、俺は日直だからと指名され、副担任に頼まれて視聴覚室まで今日の保健体育の授業で用いたスクリーンを返却する手伝いをした帰りだった。

 副担任は俺が入っているボランティア部の顧問でもあるためか、あまりにも気軽にあれこれと雑多な用事を言いつけてくるので、正直言って困っていた。

 しかし、教師に口答えしても、どちみち面倒なことにしかならない。理不尽すぎる要求を課してこない限り、笑顔で応じるのが最善なのだろう。


 六限目の授業は大の苦手科目である数学のため、心に積もる憂鬱が加速していた折。廊下を突き当たりまで進んで、階段へと差し掛かっていたときだ。

 踊り場の真ん中で向き合って、言い争うような二人組を視界の端に捉え、慌てて身を引っ込めた。

 咄嗟に隠れた壁から、恐る恐るわずかに顔を出し、階段の踊り場を占領して通行の邪魔をしてくれている生徒の面を確認して驚いた。


 対峙するように立っている片割れは清住だったのだ。清住の向かいに立っている男子の顔に見覚えはないものの、締めているネクタイの色から推察するに三年生だと知れた。

 うちの高校では学年色が定められており、三年生が緑、二年生が青、一年生が赤となっている。ジャージや上履き、ネクタイやリボンの色などが学年ごとに統一されているのだ。

 ちなみに在学中三年間、学年色は変わらないので、進級するたびに学校指定の品々を逐一変更する必要はなかった。例えばジャージなどの買い換えを検討するのは、生地がへたってきたと感じた頃合だろうか。

 悲しいがな、これ以上成長する見込みがまるでないため、背が高くなってサイズが小さくなった結果の買い換えイベントは俺の身に起こりようがなかった。成長期は中学生のころ、すでに去って行ったのだ。


 そんな俺の悲しみはともかく、今は清住たちの様子が気懸かりだ。

 垣間見える清住の横顔は、当惑が隠しきれないようだった。困ったように眉根を下げ、目の前に立つ三年生の先輩を見上げていた。

 一方、三年生の方は興奮気味の面持ちで頬を上気までさせ、捲し立てるかのごとくベラベラ流暢に喋っている。

 先ほど言い争う二人組と称したが、三年生が一方的に話しているばかりで、これは独り相撲の体をなしている。


「だからさあ、おれにとっても、星ちゃんにとっても、このサジェストはシナジーをもたらすはずなのさ。つまり、ウィンウィンの関係になれるってわけ。というわけで、今一度検討してみてはくれないかい? おれたちはアライアンスを組むべきだよ」


 俺は今、おそらくきっと、清住と同じ表情を浮かべているはずだ。

 よく分からない箇所でカタカナを多用しており、あの三年生が一体何を言っているのか判断が難しいものの、彼はたぶん清住に対して何らかの話を持ちかけているのだろう。


「えっと、先輩……。気持ちはそのね、わりかし嬉しいんだけど、編集とかはボクひとりで十分やれているし、先輩の手を煩わせるわけにはいかないから、その、遠慮したいかなって……」


 歯切れ悪くも清住がお断りの言葉を吐いているにもかかわらず、三年生はまるで関係ないとばかりに、立て板に水のように話し続ける。


「アマチュアレベルのエディットで満足していたら、さらなる高みにはリーチできないんじゃないのかな? 前に星ちゃんには語ったと思うんだけど、おれは映像専門学校に進学するつもりなんだ。もちろん、入学するだけで満足するわけがない。在学中から頭角を現して、有名映像作家からお声がかかるレベルにまでなりたい。そのためには、アチーブが必要なんだよね」

「あ、アチーブ?」


 困惑を滲ませる清住に微笑みを返し、三年生は芝居がかった動作でもって、ゆっくりと前髪を掻き上げた。

 この男もまた、清住と同じように演劇部で役者でもやっているのだろうか。清住が「先輩」と三年生のことを呼んでいるし、同じ演劇部に所属しているのには違いないはずだ。


「ふっ、ちょっとばかり難しかったかな。有り体に言えば実績だよ。星ちゃんのマネジメントを請け負うのは、おれの実績作りに適しているって閃いたんだ。高校在学時にインフルエンサーのプロデュースをやっていたってファクトは、映像作家、ゆくゆくは名監督へとのし上がるのには大いなる強みだろう? それに入学時から、同期のライバルどもをうんとリードできる。というわけだから、おれに一切合切アウトソーシングしてみないかい? 星ちゃんは正しいディシジョンをセレクトできるって信じているからね」


 清住はネット配信者で、人気もそこそこ博している。よって、清住の影響力を利用しようとする輩が周囲に現れるのは想像に難くない。

 清住も提案に同意していたら問題はないのだろうが、ふたりの様子を観察するに、三年生ばかりがいきり立っているとしか思えない。

 清住は如実に迷惑を被っているし、俺だって通行を妨げられて迷惑だと実感している。

 とっとと退いてくれないかな、と内心で溜め息を吐いていたら、芳しい返事が得られないせいで痺れを切らしたのか、三年生が強引に清澄の腕を引っ張っているのが見えた。


「ちょ、ちょっと、やめてよ!」

「おれはただ、星ちゃんにアグリーしてほしいだけで……」


 悲鳴を上げる清住へと、三年生が襲いかかるような構図に絶句した。

 コソコソ隠れている場合じゃない。慌てて階段を駆け下りる。


「清住! こんなところにいたんだな……!」


 突然現れ、話に割り込んできた俺に面食らっているようで、三年生は清住の腕を引き寄せるのを中断した。

 拘束する力が緩んだ隙に、清住が三年生の腕を振り払った。そのまま距離を取り、清住は俺の元へと避難してきた。


「あっ!」


 清住に拒絶されるとは思ってもみなかったようで、三年生は驚いた声を上げた。

 清住に向けていた視線が俺へと移る。明らかな敵意を感じる目つきに、思わず背筋が冷える。

 この男は言葉で言っても分かってもらえない場合、実力行使に打って出るとはさきほど清住の腕を引っ張った件で実証済みだ。彼の気持ちを逆立てないよう、慎重に事を運ばねばならない。


「清住、先生が呼んでいた。なんか、緊急の用事があるからすぐ来るようにって。だからほら、早く教室に行こう」

「え……?」


 きょとんとする清住にそっと目配せをした。

 そもそも俺と清住は同じクラスではないし、大体、緊急の用事なんてでっち上げもいいところだ。この場を切り抜ける方便に過ぎない。

 体育祭で和泉先輩を助けるべく、永遠と演じた即興芝居を経て、ハッタリを利かせるスキルが少しでも向上してくれていたらいいのだが。

 清住も察してくれたようで、大きく頷きを返した。


「へえ、そうなんだ。じゃあ、急がないとね」

「そうそう。急いで教室に帰ろう」

「待ちたまえっ。話はまだ途中だよ」


 清住と連れ立ってこの場を辞そうとしたのだが、もちろん三年生が黙って見送ってくれるわけがなかった。

 異質な気配を感じて後ろを振り返ると、肩を怒らせた三年生が立っていた。憤怒の表情を取り繕いもせず、先ほどまで浮かべていた余裕綽々の微笑は見る影もない。

 何が何でも清住を帰さない気迫が感じられ、ますます背筋が寒くなる。一発殴られでもした方が、三年生の溜飲を下げられるのならば、頬を差し出すのもやぶさかではないけれど、暴力で問題を解決しても尾を引くだけだ。

 話し合いでケリをつけないと、この三年生はなおも清住にしつこく絡んでくるだろう。


「清住、嫌なことは嫌だって、ちゃんと意思表明してもいいんだからな」

「新留?」


 改めて三年生に向き直る。演劇部でもない部外者が介入するのもどうかと思ったが、致し方あるまい。知り合いが面倒ごとに巻き込まれている現場を、黙って見過ごすわけにもいかないだろう。

 確実に三年生からは目の敵にされるはずだが、そもそも関わり合いもない上級生なので、さりとて問題はないか。


「えっと、その、差し出がましいのは百も承知ですが、相手が嫌がっているのに、無理強いするのはどうかと思いますよ。後輩だからって反論できないのをいいことに、一方的に要求を押しつけるのはパワハラですよね」

「きゅ、急にしゃしゃり出てきたと思ったら、一体何を言っているんだ。だいたい、君は星ちゃんの何なんだ?」


 すぐ隣に立つ清住を一瞥する。去年一年間、クラスメイトだっただけの間柄です、と馬鹿正直に申告しても説得力がまるでない。

 ここは関係性を少しばかり誇張してでも乗り切るか。


「友達ですよ」

「ふんっ。ただの友達風情で、おれのスキームに口出そうなんて、ナンセンスもいいところだね。ビート・イット!」


 三年生はなおも懲りずに芝居がかった動作で、ビシイッと人差し指を突きつけてきた。

 だから、カタカナ英語を羅列されても、理解に時間がかかって会話が滞るだけではないか。

 面倒くさいな、と俺が脱力している傍らで、清住は口の端をニイッと吊り上げて不敵な笑みを形作っていた。先ほどまで三年生の勢いに呑まれ、戸惑っている清住の姿ではなかった。


「――どこか行け、だって。それじゃあ、お言葉に甘えて退散しよ? バイバイ、先輩」


 ヒラヒラと軽く手を振り、清住は三年生に向かって晴れがましい笑顔を向け、踊り場から階段へと歩み出す。

 一方、三年生はたじろいだまま、それでもなお清住の背中へよろよろと手を伸ばした。


「おい、星ちゃん!?」

「行こ、新留」

「あ、ああ……」


 毅然とした姿勢を貫く清住に続いて、俺も階段を降りるべく足を前へと踏み出す。

 礼儀的にもと一応会釈をしてみたが、三年生は俺に対して無視を決め込んでいるみたいで、反応は特に返ってこなかった。

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