第26話「リレー決着」
このまま会場から黙って逃げてしまおうか。そんなズルい考えが脳裏を過ぎったときだった。
頑張れ、頑張れと応援する声が耳に届く。ハッと顔を上げれば、場に居るクラスメイトたちの誰もが声援を送っていた。
コース前ギリギリまで近づき、最後尾を駆ける走者に向かって、声を張ってエールを送る佐藤さんの姿を目が捉える。
俺以外、クラスの皆はまだ諦めてはいないのだ。
気付けばレースは終盤に差し掛かっており、川元が内山さんにバトンを渡す様が見えた。
順位は変わらず最下位に落ちたままだったが、ここまでバトンを繋いできた走者の頑張りにより、川元が走り終えた時点で前を行くランナーを追い越す寸前まで距離を縮めていた。
そうして、川元からバトンを受けた内山さんの走りはただただ圧巻のひと言だった。
瞬く間にすぐ前を走るランナーをあっさり追い抜くや、惚れ惚れするようなフォームで弾丸のごとく駆けていく。次なる獲物、三位の走者にぐんぐんと猛追し、見事に追い越したのだ。
ただし、内山さんは第三位なんぞに甘んじるかとばかりに、続く標的目がけて加速をつけていく。最終走者、五十嵐くんとのバトンパスの直前、内山さんは二位と並んだ。
その瞬間、我らが二年二組の興奮は最高潮に達する。割れんばかりの拍手で内山さんの力走を讃え、大声援を送ってアンカーである五十嵐くんへと大逆転の思いを託す。
クラスメイトによる大きな期待を背負い、けれども、五十嵐くんはそんな重圧なんぞまるで気負わぬ軽やかな滑り出しを切った。
まずは小手調べとばかりに現在二位の走者をあっという間に抜き去ると、五十嵐くんは内山さん同様、身体の軸を真っ直ぐに保ち、やや前傾姿勢で前行く一位を見据えて走る。
腕を大きくなおかつ速く振り、お手本になるようなランニングフォームで地面を蹴り、ひた走る五十嵐くんの姿はまさに疾風のようだ。
グラウンドの中心は五十嵐くんだった。生徒はもちろん、教師陣や保護者、観客たちといった会場にいる全ての視線が五十嵐くんの走りに注がれていた。
徐々に一位の走者との差が縮まり、とうとう五十嵐くんは前行く背中に追いつき、順位が入れ替わる。
一位であった一組の男子を追い抜いてからも、五十嵐くんの快進撃は留まることを知らなかった。
五十嵐くんは決して慢心なぞせず、絶対に縮まらないであろう圧倒的な差を作り上げ、二位の走者の闘争心をバッキバキに折って敗北感を与え、完璧に勝ち切る様はまさに王者然としていた。
いの一番にゴールテープを切ったのは、二年二組のアンカー、五十嵐くんであった。
五十嵐くんがゴールに飛び込むのと同時に、いつの間にやら一カ所に集結して応援に精を出していた二組の輪から、華やぎに満ちた歓声がどっと湧く。
クラスメイトたちは我先にとゴールへ駆け寄り、次々に五十嵐くんへと労いの言葉をかけていた。
内山さんによる怒濤の猛追と、五十嵐くんの華麗なる追い抜きがなければ、俺は紛れもなくクラス対抗全員リレーでの戦犯になっていたわけで、勝利に高揚するあの輪の中へ入ることは絶対にできなかった。
できればこのまま、グラウンドからフェードアウトしたいのも山々だが、そうは問屋が卸さない。謝るべき相手がいるのだ。
不甲斐なさ過ぎる俺のせいで、バトンミスをやらかす過ちに加担させてしまった飯島さんには、申し訳なくて仕方がなかった。
飯島さんの姿を探すべく視線を彷徨わせていたら、佐藤さんとふたりで和気藹々と談笑していた。飯島さんが他の女子と楽しげにお喋りの花を咲かせていれば、気後れが勝って話しかけるのにも躊躇していただろうが、彼女の話し相手が佐藤さんであるならば幾分マシだ。
もっとも、情けない醜態を晒した直後なので、合わせる顔はどこにもないのだが。
飯島さんの傍へと恐る恐る近付き、意を決して声をかけようとしていた矢先。飯島さんより先に、隣に立つ佐藤さんと目が合った。
「あっ、新留くん。お疲れさま」
ふんわり穏やかに笑いかけてくれる佐藤さんは、相変わらず優しさに満ち溢れており、傷心の身の上には染み入るものがあった。
佐藤さんに引き続き、飯島さんもまた俺の存在に気が付いた。
「わ、新留。ゴメンね、ウチのせいでバトン取り落としちゃったでしょ」
「いや、焦った俺がタイミングトチって早く走り出したから、ちゃんとバトン受け取れなかっただけで……悪いのは全面的に俺だから。飯島さんが謝る必要は全くないし、本当申し訳ない……」
謝罪の言葉を口にし、飯島さんに向かって誠心誠意頭を下げた。
「そんな謝らなくてもいいって。ウチら二組、結局のとこ一位だったワケだしさあ」
「そうだよ、新留くん。ミスなんて誰だってしちゃうもの。そんなに気を落とさなくてもいいよ」
頭を上げてくれと飯島さんに請われ、渋々折った腰を戻して面を上げる。
飯島さんは両眉を下げて苦笑いを浮かべており、佐藤さんも困ったように微笑んでいる。ふたりに余計な気を遣わせてしまったことで、更に心が苛まれた。
ここでまた「ごめん」なんぞ口にしようものなら、ますます佐藤さんと飯島さんを困惑させてしまうだろう。
代わりに「ありがとう」と礼を述べたら、佐藤さんはホッと安堵したように目元を緩ませた。飯島さんもまた笑顔で頷いてくれたので、俺の行動について今度は間違っていなかったようだ。
大いに盛り上がった二年生のリレーの余韻も冷めやらぬ中、続いて三年生のクラス全員対抗リレーが始まった。このリレーが体育祭午前の部、最後の種目だ。
飯島さんは他クラスの友人に呼ばれたようで、軽やかに手を振って去って行った。飯島さんに倣って俺もこの場から辞したいが、隣に立つ佐藤さんへ黙って消えるのはさすがに駄目だ。
何だか流れでふたり並んで、三年生のリレーを見る運びになっているようで、さよならを言い出すタイミングが掴めない。
早いところ離れないと、佐藤さんに間違いなく迷惑がかかってしまう。
どうしたものかと、むやみやたらに周囲へ視線を彷徨わせていたのがアダとなった。佐藤さんとばっちり目線がぶつかってしまったのだ。
すぐさま目を逸らそうとしたが、佐藤さんからニコッと微笑みかけられたので、ぎこちないことこの上ない笑みを返す。
「リレーが終わったらお昼だね。新留くんはお昼ご飯、小野田くんや堤くんと食べるの?」
「……あ。その、つもりだったんだけど……」
思わず言葉を濁して言い淀む。歯切れの悪い俺の返事を聞き、佐藤さんは不思議そうにキョトンと目を瞬いている。
永遠の浮かべる不敵な笑みが脳裏を掠めた。
「えっと、その、佐藤さんは昼飯ってさ、誰かと食べる予定入っていたりする?」
「私?」
佐藤さんの驚いた声色での確認に頷きを返す。普段の昼休みであれば、佐藤さんは内山さんや五十嵐くんたちお仲間と共に過ごしているわけで、今日もそうに違いないはずだが、佐藤さんは目尻を下げて困ったような笑顔を作った。
「世奈とね、一緒に食べようって思っていたんだけど、あの子写真部なの。それでね、今日は撮影係として、部の全員が駆り出されているらしくて忙しそうなんだ。お昼も写真部のミーティングが入っているみたい。そこに部外者の私がお邪魔するのは気が引けて……実は、一緒に食べる相手が決まっていないんだ」
えへへ、と恥ずかしげに片頬を掻く佐藤さん。こ、これは千載一遇のチャンスなのではなかろうか。
永遠の脅し……お願いもちゃんと聞き届けられるし、昼休みを共に過ごす相手に困っている佐藤さんを助けることもできる。
もっとも、佐藤さんが俺や永遠、真実とお昼を食べたいと思ってくれればの話ではあるのだが。
「ええっと、佐藤さん、あの、お、お昼は……」
初っ端からまごついてしまった。ここでスマートに誘い文句を口にできない己に落ち込みそうになるが、挫けそうな心を叱咤激励して言葉を継ぐ。
「もし、佐藤さんさえ良かったらなんだけど、今日さ、これから一緒に昼飯食べない?」
「えっ! いいの?」
「う、うん……もちろん。でも、俺だけじゃなくて、妹たちも一緒なんだけど……」
「妹さん? あっ、そういえば、新留くんの妹さん見かけたよ。借り物競走、ふたりで手を繋いで、一着でゴールしていたもんね。おめでとうって、伝え忘れていちゃったな」
見られていたのか。まあ、女子小学生にまるで引き摺られるように、みっともなく駆ける俺の姿は悪目立ちしていただろうしな。
「下の妹さん、永遠ちゃんだっけ? 足速いんだね」
「そうそう。永遠は俺や真実と違って、運動神経が良くて」
「へえ、そうなんだ。今日は永遠ちゃんと、真実ちゃんも来ているの?」
うん、と頷き、そういえばまだ真実の姿を見ていないことに気付く。
暑さにへばって、救護テントへ永遠に連れて行ってもらったらしいが、その後復活したのだろうか。
真実の心配をしていたら、あやうく佐藤さんの返答を聞きそびれるところだった。
チラリと佐藤さんを窺えば、先ほどより更に笑顔を弾けさせていた。にこにこ嬉しげに笑っており、上機嫌そうだ。
「ええっと、佐藤さん。それで、その……」
「あっ、ごめん。お昼だよね? もちろんご一緒させてもらいたいです。新留くんからお昼に誘ってくれるなんて思ってもみなくて、その、嬉しくてぼんやりしていたみたい。ふふ、浮かれすぎだね、私」
口元を押さえ、それでもこぼれる笑みを隠しきれないのか、小さく笑い声を漏らしている佐藤さん。ひとまず、嫌がってはいないようなので安心した。
佐藤さんから承諾は取れたとして、次なる問題は昼飯を食べる場所だ。教室は論外だし、体育館も人目につきすぎるし危ない。
ならば、以前ふたりで昼飯を摂ったボランティア部の部室が一番無難だろう。
佐藤さんに部室でいいかと問えば、大丈夫だと頷きが返ってくる。昼休みが始まったら、部室で落ち合う約束を交わし、佐藤さんとは一旦別れた。
長時間、佐藤さんと喋っていたのを目撃されていないか不安になってきたが、皆三年生の繰り広げるリレーに夢中なようで心配は無用か。
さて、小野田と堤には今日、一緒に昼が食べられないと伝えねばならない。
妹たちと一緒に食べるからと、断っておけば問題あるまい。俺は嘘を言っているわけではないのだ。妹ふたりと昼飯を食べるのは、本当のことだし。
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