第24話「落とし物」

「あっれー? おかしいなあ? たぶん、ここで落としたハズなんだけどなあ? みつからないよぉー、おにーちゃん。どこいったのかな? うーん、どこかな? どこだろう?」


 永遠は緊迫した雰囲気をぶち壊す呑気な声色でペチャクチャ盛んに喋りながら、テクテク彼女たちの元へと恐れを知らずに近づいていく。

 そうして永遠は、まだその場から動けないまま、突っ立っている情けない限りの俺を振り仰いだ。永遠はしきりに片目で瞬きを繰り返し、俺へとウインクで合図を送ってくる。何かを探しているらしい永遠の芝居に乗っかって、先輩を窮地から脱却させねば。

 震える足腰を無理矢理叱り飛ばし、視線を集めるようにワザとゆっくり、永遠の傍へと近寄っていく。


「な、なあ、本当にここに落としたのか? ど、どこにも、ないじゃないか?」


 芸達者な永遠に比べると、あまりにお粗末な棒読み具合と大根役者振りではあったが、先輩たちは毒気を抜かれたというか、皆一様に気まずそうに顔を見合わせ、永遠と俺の様子を訝しげに窺っていた。

 突然現れた空気の読めない闖入者ふたりをどうするか、判断に迷っているのだろう。彼女らの当惑なんぞ気にも留めず、大袈裟な仕草で周囲をぐるりと見渡した永遠は和泉先輩へと視線を定めた。にっこり顔を綻ばせ、永遠は堂々と問いかける。


「ねえねえ、おねーさん。この辺にね、ハンカチ落ちていなかった? 永遠、まちがって落としちゃったみたいで……」


 急にハンカチの所在を尋ねられた和泉先輩だが、目元を緩めて柔らかな笑みを浮かべ、永遠を見る。それから、小さくかぶりを振った。


「ううん、私は見かけていないや。この辺りにも、ハンカチの落とし物はないみたい」

「そっかー」

「ごめんね、力になれなくて」

「ううん、それは大丈夫なんだけど……ところで、おねーさん。ほっぺ、はらしてどーしたの? もしかして、ケンカ?」

「えっ?」


 和泉先輩は永遠からの指摘を受け、パッと頬へ手の平を押し当てる。

 ぶたれた右頬はすっかり赤く腫れ上がっており、見るからに痛々しい。永遠は和泉先輩から、周りを囲む三人組へと目線をスライドさせ、無邪気な笑顔を振りまいて緩やかに小首を傾げてみせた。


「まさかとは思うんだけど、おねーさんたち三人で、おねーさんひとりにイジワルしていたのかなあ? ねえ、おにーちゃん。おにーちゃんはどう思う?」

「ぅえっ、俺!?」


 まさかここで、永遠から後を託されるとは。皆の視線を一身に浴び、挙動不審に拍車がかかる。小心者の兄は人に注目されるのが大の苦手だと知って、この暴挙。

 八面六臂の活躍を見せていた永遠にしてみれば、でくの坊たる兄貴に大層苛立っていたのだろう。少しぐらいお前も役に立たんかい、と発破を掛けてくれたのやもしれぬ。

 落ち着きなく視線を四方八方に泳がせていた俺は、ヘラヘラと何とも情けない笑みを繕い、一方で必死に頭を働かせながら、述べるべき言葉を絞りだそうと躍起になった。


「ええっと、そうだな……もしもイジメの現場だったら、そりゃもう一大事じゃないか。まずは、とにかく先生を呼びに行こうか。拗れた生徒間で話し合っても、埒が明かないだろうしなあ。ひとまず大人に仲裁に入ってもらって、双方の言い分を聞いてもらうのが良いんじゃないか」


 教師へ告げ口しに赴くと暗に脅せば、たちまち先輩三人の顔色が変わった。彼女たちは互いに目配せをすると、苛立ち交じりにこの場からそそくさと去って行く。

 おお、「先生に言ってやろう」が、高校生にも効き目があるなんて。

 窮地で教師へ助けを求めても、まるで無意味だとは重々知っているが、威嚇する分には効果もそれなりに見込めるのか。


 あっという間に遠ざかる三人組の背中をポカンと口を開け、しばし眺めていた和泉先輩だったが、完全に彼女らの姿が見えなくなると、ホッと安堵の息を吐く。それから間もなく、和泉先輩は急に声を上げて笑い出した。

 驚き慌てたのは俺と永遠で、兄妹揃ってたちどころに泡を食い、顔を見合わせる。腹を抱えて笑う先輩を遠巻きに、ヒソヒソと言葉を交わす。


「どーしよ、どーしよ……おにーちゃん。おねーさん、おかしくなっちゃった!?」

「いや、お兄ちゃんに面倒を押しつけるなよ。あのな、永遠。俺なんかに頼っちゃ駄目だ。永遠、お前はどうすりゃいいか分からないのか……?」

「おにーちゃんこそ、妹にたよるなんて、なっさけないよ! もぉー、おにーちゃんの役立たず!」

 

 膨れ面を晒す永遠から乱暴に腕を揺さぶられ、散々貶されていたときだ。


「ふふ、ごめんごめん、もう大丈夫だよ。君たち、私のこと心配してくれてありがとうね」


 和泉先輩が笑い声交じりに謝ってきた。目尻には、うっすらと涙が滲んでいる。泣くほどまでに大笑いしていたとは。

 掴んでいた俺の腕から手を離し、永遠が恐る恐るといった調子で和泉先輩の近くへと寄っていく。


「でも、おねーさん、ほっぺが真っ赤になっちゃっているよ……? だいじょうぶじゃ、ないでしょ?」

「ああ……平気だよ、これくらい。慣れているから」


 しばらく放っておけば、腫れもじきに引くでしょ、とカラカラ笑う和泉先輩。

 だが、俺も永遠も気が気じゃなかった。頬を腫らすのが慣れているって、それ修羅場に巻き込まれた回数も多いってことでは……いいや、今は和泉先輩の色恋沙汰に思いを馳せている場合ではない。

 不埒な思考を働かせている兄に反し、永遠はすでに先輩へと気遣いの言葉をかけ、彼女を救うべく動き出していた。


「おねーさん、イタいならムリはダメなんだからね? 永遠、きゅーごテントに行ってくるよ! ねえ、おにーちゃん!」

「えっ、何だ!?」


 出し抜けに永遠に呼びかけられ、慌てて返事をして背筋を伸ばす。


「永遠、これからテントまで、ひょーのーを借りにと、あと、シップをもらいに行ってくるね!」

「そ、そんな、俺も一緒に行くから……」

「だーめ! おにーちゃんは、おねーさんについててあげて!」


 いやいや、この場に情けない兄貴を残していくのは愚策じゃないか、我が妹よ。

 人見知りと無縁な永遠こそが、傷ついているであろう和泉先輩に優しく寄り添ってあげてほしい。それでもって、俺が救護テントまで使い走り、頬を冷やす氷嚢を借り、腫れを治癒する湿布を貰い受けに行くべきではなかろうか。

 だが、行ってくるね、と一方的に告げるや、永遠はあっという間に体育館裏からダッシュで駆け去って行った。永遠は足が速いため、テントへ向かうのにはやはり適任だったのか。


「あ、えっと……色々、勝手にすみません……」


 永遠の姿が消え、この場に和泉先輩と共に残された俺は、落ちる沈黙に耐えかねて謝罪の言葉が口を衝いて出た。

 突如、空気も読まずに乱入してきたかと思ったら、場を散々引っかき回し、騒々しく暴れ回った余罪は大きいだろう。

 つい先刻までは顔も名前も知らない先輩だったのに、助けねばと身勝手にもしゃしゃり出て、あれこれ言いたい放題喚き散らしたのだ。


 余計なお節介を焼かれたと、憤る先輩から怒られても、何らおかしくない。

 和泉先輩はきょとんと目を瞬き、じいっとこちらを凝視してくる。

 いつもの悪い癖で、先輩の垂れ目がちの双眸から咄嗟に顔を逸らしてしまう。切羽詰まっている自覚が大いにあった。


「君は何も謝る必要はないよ?」

「いや、ですが、妹と一緒に好き勝手にやらかしたのは事実なので……本当すみません」

「うーん……? そんなさ、謝らなくていいのに。むしろ、君と君の妹ちゃんに、私は感謝しなきゃいけないんだもの。助けてくれてありがとう」


 ちらりと和泉先輩を窺うと、彼女は腰を屈めて深くお辞儀をしていた。

 驚きのあまり目を剥いた俺は、すぐに頭を上げてもらわねば、とすっかり気が動転してしまい、和泉先輩のすぐ傍まで走り寄ってしまった。


「顔、上げてください!」


 俺の声に従い、和泉先輩がおもむろに面を上げた。そこでようやく俺は、和泉先輩の顔が目と鼻の先にある現状に思い当たる。

 どうやら和泉先輩は俺と同じぐらいの背丈のようで、至近距離で向き合う形になってしまった。ひいっ、と心底情けない悲鳴を漏らし、俺は慌てて後ろへと飛び退いた。


「ええ? そんなビビらなくてもいいじゃない? 傷つくなあ」

「あ、え、いや、えっと……すみませっ……」

「だから、謝らなくていいって言っているのに。ふふっ、強情だねえ?」


 くすくすと楽しげに笑い、和泉先輩はどういうわけかこちらへと近寄ってくる。摺り足で後方へと逃げようとするも、背後には体育館の壁がある。

 何てこった、いつの間にやら俺が窮地に追い込まれているじゃないか。どうしようどうしようと、思考回路がしっちゃかめっちゃかに乱れる最中、和泉先輩がどんどん目の前に迫る。


 助けてくれ、永遠……と、まだ戻って来てくれない末妹へと、兄の尊厳なんぞ問答無用で蹴っ飛ばし、情けなくも脳内で救援要請を必死に送りかけていたときだ。

 俺の視界へ和泉先輩の腫れた頬が飛び込んだ。一瞬、混乱が掻き消え、冷静な思考を取り戻す。


「先輩、こ、これっ!」

「……コーラ?」


 和泉先輩からの純粋なる問いかけに、コクコクと勢いをつけて首を縦に振る。動揺のあまり声が詰まって、無言で自身の右頬を指し示すことで返事に代えた。

 永遠の持ってきてくれる氷嚢が届くまでの一時凌ぎとしてでも、頬に冷えたコーラの缶を押し当てていれば、腫れが引くのも少しは早まるのではなかろうかと、ロクに働かない脳味噌でとにかく考えたわけだ。


「でも、いいの? それ、君が飲むために買ったものでしょ」

「いいんです! だから、どうか受け取ってください! お願いです! お願いします!」


 脳裏に渦巻く動揺のせいで目も合わせられないまま、何度も必死で懇願していれば、缶を握る手がふっと軽くなる。

 恐々と手元を見やると、和泉先輩の白魚のような手がコーラの缶を掴み上げているのが視界に入った。良かった、和泉先輩はコーラをちゃんと受け取ってくれたようだ。


「あっ、冷た……」

「だ、大丈夫ですか?」


 恐る恐る顔を上げて正面を向くと、右頬に缶を当てる先輩の姿が見えた。

 和泉先輩は視線に気付くや、たちまち目を細めて柔和な微笑みを浮かべてくる。かち合った視線を速攻で外し、慌てて顔を伏せる。


「うん、お陰さまで頬の熱も引いてくれそう」

「永遠が……いえ、俺の妹がじきに氷嚢と湿布を持って帰ってくるので……少し、コーラの缶で辛抱していてください」


 はあ、と心の中で溜め息を吐く。永遠は何を手間取っているのか、まだ戻ってきやしない。

 女性との会話スキルをさして持たぬ俺が、女の先輩の話し相手を務められるはずがないではないか。

 再び辺りには静寂が広がり、スピーカーから流れる軽快なBGMが、風に乗って聴こえてくる始末。居たたまれなさで、今にも窒息死しそうだ。


「……ねえ、訊かないんだね」

「え?」


 まるでぽつりと呟くように、和泉先輩から投げかけられた問いかけに首を捻る。

 一体何がと、質問に質問で返そうとした矢先、察知の悪い頭であってもようやく思い至る。


「えっと、あの、あー……その、興味本位で尋ねるのは、失礼でしょうし……」


 まるで要領を得ない返しに、思わず臍を噛みそうになった。

 和泉先輩の抱える事情を何ひとつ知らないから、好奇心のまま首を突っ込むのはさすがに控えるべきだとは承知している。

 だが、心配や同情の言葉さえかけることのできない己の不甲斐なさには、我ながら恐れ入った。自分自身、デリカシーに欠けている自覚はあったが、加えて気遣いのできない駄目さ加減には呆れる他ない。


「そっかそっか。あのね、私さあ、誤解を受けやすくてね。ちょくちょく女の子から恨まれるんだよ。彼氏を寝取られた、人の男に色目を使っているなんて勘ぐられて。ビッチだとか、股緩だとか罵られてね。別の子の恋人を誘惑なんて一度たりともしたことないし、私自身とっても誠実なのにさあ。ねえ、ヒドいと思わない?」

「えっと、そう、ですね……」


 正直に言えば、そんなこと俺に訊かれても、だ。 初対面である和泉先輩について、何にも知らないのだ。彼女が今し方語る話と、先ほど先輩を取り囲んでいた三人が吐いていた暴言だけしか、和泉先輩を知る手がかりがない中、人となりを断じるなんておこがましい。


「おやおやあ? 君も私の言葉、まるで信じていないみたいだね?」

「いやっ、そんなことは、全然なくて……ただ、」

「ただ?」


 和泉先輩はきょとんと小首を傾げて、俺へと続きを話すよう促してきた。


「ええっと、何も知らない相手に向かって、決めつけるようなことを言うのは間違っている気がして……あ、いえ、疑っているわけじゃないんですけど、先輩が清純だって見ず知らずの俺が勝手言うのもおかしな話じゃないですか……」


 この言い分、もしかしなくてもセクハラに受け取られやしないだろうか。

 和泉先輩は怯えて青ざめる俺を見て何を思ったのか、ふっと表情を和らげた。


「君は慎重なんだね」

「び、ビビりなだけです……」

「あっはっは! 自分で言っちゃうかあ」


 俺の弱々しい反論を聞き、和泉先輩は腹を抱えて笑っている。そこまで笑い崩れずともいいだろうに。まあ、怒るに怒れない。


「……すみません」

「いやいや、咎めてなんかいないよ? 自分の目で見たものしか信じないってのは、実直で好感が持てるよ。噂やデマに踊らされるひとたちより、ずーっとね」

「はあ……」


 笑い声交じりに告げられる言葉から判断するに、褒められているかどうかは分からないものの、どうやら貶されてはいない模様だ。

 ここはひとまず喜ぶべきなのだろうか。引き攣った笑みを浮かべて、この場をやり過ごそう。

 和泉先輩はなおも笑いを引き摺りつつ、なぜか右肩をしきりに探っている。そういえば、和泉先輩も「写真部」と書かれた腕章を巻いている。であれば、内山さんと同じ写真部なのだろう。


「ああ、そうだ。カメラは世奈ちゃんに預けているんだったな……残念だけど、写真はまた今度ね」

「写真……?」

「うん、私のできることでお礼をしたくって」


 和泉先輩からは、すでに感謝の言葉をもらっている。これ以上、お礼をしてもらう謂われはない。

 結構ですと、遠慮すべく口を開きかけた矢先。荷物を抱えた永遠が、こちら目がけて大きく手を振りながら、軽やかな足取りで駆けてくる。救護テントから氷嚢と湿布をもらってきたのだ。

 ようやく、和泉先輩との気まずいふたりきりの時間が終わる。思わず胸を撫で下ろし、心の底から喜びの声を上げ、永遠を迎え入れたのだった。

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