第23話「物陰の先」
次の組の走者たちが続々とゴールへやって来る姿を目にするや、内山さんは挨拶もそこそこに新たなる被写体へと声をかけに早足で向かってしまった。
先ほどまでの内山さんとのやり取りを思い返すと、あまり会話を交わした気はしないものの、無駄に緊張してしまった。やはり同年代の女子、それも華やかな人気者と喋るのは気苦労が絶えない。
まあ、クラスメイトではあるけれども今後、俺が内山さんなんて殿上人と関わる機会は皆無だろうし、交流を持ち得ない相手に対して変に気負わなくてもいいのだろうが。何だかどっと疲れてしまった。
それから、ゴール係へと旗の返却を済ませ、借り物競走を無事に終わらせられた安堵感で大きく息を吐いていれば、まだ観客テントへ戻っていなかった永遠が、スキップ交じりでやって来た。
今朝、永遠は真実と一緒に応援へ駆けつけると宣言していたが、まだ真実の姿は見当たらなかった。おそらくテントの下に居るだろうが、ちゃんと涼しい格好で来ていたらいいのだが。
「おにーちゃん、あらためまして、初めての一等賞おめでとうだよ」
「いやいや、永遠のおかげだろ。本当、一緒に走ってくれてありがとうな」
「うんうん、おにーちゃんは永遠に感謝しなきゃいけないって、よーく分かっているんだね。かんしん、かんしん」
「はあ? なんだよ、その含みのある言い方は」
永遠を訝しんで睨めば、妹はニヤリと妖しげな笑みを作り、唐突に片手を差し出した。
「さっしが悪いよ、おにーちゃん。コウロウシャには、ちゃあんとむくいるべきだって言っているんだよ」
「……もしかして何? 奢れってことかよ……」
「だいせいかーい! 永遠、ノドがかわいちゃった。向こうに自動はん売機があるよね? 行こう、おにーちゃん」
またもや永遠から強引に手を引かれ、自販機のある方向へと連行されることとなった。
確かに永遠のおかげで、借り物競走にて一位になれたのには違いない。功労者たる永遠に報いるため、ここは是非とも喜んで奢らせていただこうではないか。
体育館へと続く渡り廊下の傍に設置された自動販売機へと硬貨を投入し、永遠へジュースを選ぶようせっつく。永遠はオレンジジュースを、ついでだからと俺もコーラを購入した。
幼少期はそれこそ、骨や歯が溶けるだの、背が伸びなくなるだのと親に半ば脅されていたせいで、コーラを飲むのは事実上禁止されていた。だが、いつの頃か飲んでいいと許可されたのか、もしくは親の目を盗んでこっそり飲んだのか、初めてコーラを口にした際は、こんなに美味しい飲み物があるのかとえらく感動したものだった。以降、何か飲むものを求めるときは、大体コーラを選んでいるように思う。
そういや、真実も来ているのだったな。ひとりだけ何もなしだと膨れるだろうから、真実にもジュースを買って行ってやろう。
真実は何のジュースがいいだろうか、と永遠に問いかければ、
「おねーちゃんね、暑くてしんどいって、フラフラになっていたからさあ、きゅーごテントに連れて行ったんだよ」
「えっ……大丈夫なのか、真実の奴」
驚き慌てて自販機に背を向けて、オレンジジュースを美味しそうにゴクゴク飲んでいる永遠へと目をやった。救護テントに世話になるほど、真実は疲労困憊しているのか。
真実は暑さに滅法弱く、冬の寒さにもすぐへこたれる。季節の変わり目になると、おおかた体調を崩すし、気温や天候に翻弄される軟弱者なのだ。
小さい頃、真実は同世代の子よりずっと身体が弱く、よく寝込んでいたせいもあり、妹の具合が悪いことには多少慣れているが、心配なことには何ら変わりない。
まさか、熱中症にでもなっているのではなかろうか。
「係のひとから、ひょーのーもらって額に押し当ててね、涼しいテントの下でしばらく休んでいたよ。だから、だいじょーぶなんじゃない?」
ひょーのー……永遠が言っているのは氷嚢か。何にせよ、身体を冷やすなど適切な処置を施してもらい、真実の体調がすでに持ち直しているのなら安心だ。
だが、朝も早い時間帯でへばっているようなら、これから先も体育祭の観覧を続けるのは難しいのではなかろうか。
「今日は午後からもっと暑くなるって予報が出ているから、切りが良いところでお姉ちゃんと帰れよ、永遠」
「えー? 永遠、最後のブロック対抗リレーが楽しみなのに」
「……俺出ないけど?」
プログラムの終盤を飾るブロック対抗リレーは、足に覚えのある生徒たちが団のために健脚を競う花形競技だ。
体育祭のラスト付近に行われるということもあって、大いに盛り上がる種目だった。各学年の男女がバトンを繋ぎ、一蓮托生ゴールを目指す。
さして足が速くない俺には、まるで縁のない競技だ。永遠はあからさまに嘆息すると、やれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせた。
「おにーちゃんが出場しないのは知っているよ。ただね、永遠は足の速いひとを見たいだけ」
「知りもしない奴、応援しても楽しくないだろ」
「リレー面白いのに。それじゃあ、おにーちゃんのいる白組をおうえんするよ。二組だから、同じクラスのひと出るんでしょ?」
「そうだけど……」
我らが二年二組でブロック対抗リレーの走者に抜擢されたのは、えらく俊足だと噂の五十嵐くんと内山さんの両名だ。ふたりは満場一致で走者に推薦されていた。
何でも持っている者は何でもできるのだ。天は二物を与えないと言うけれど、ハイスペックなふたりは何事においても完璧にこなしてみせるのだろう。僻む方が馬鹿らしくなる強者振りだ。
暑さにへたった真実には、熱中症対策のためにもとスポーツドリンクを購入し、自動販売機を永遠と共に後にした。
「ねえねえ、おにーちゃん。そういやさ、お弁当は体育館で食べるの?」
「いや、教室で食べるつもりだけど」
観覧者向けに昼食を摂るスペースとして、体育館が開放されているのだ。
永遠と真実は体育館で昼飯を食べればいいし、俺は自分の教室で小野田や堤と一緒に食べる予定だからと伝えると、永遠は不満げに唇を尖らせた。
「なんでよ。永遠たちとお昼食べよーよ」
「真実とふたりで食べろよ。兄なんか放っておいて」
「おにーちゃんなんて、どーでもいいんだよ。永遠は千晴おねーちゃんと、いっしょにごはんが食べたいんだから」
「えっ、佐藤さんと……?」
永遠はコクンと頷き返す。永遠の浮かべているにっこり笑顔が、どこかあくどい笑みに変貌を遂げた気がするが、コイツ何を一体考えているのか。佐藤さんと接触したい理由がまるで分からない。
「そーそー。永遠も千晴おねーちゃんに会って、お話してみたいんだよ。永遠、今日はおにーちゃんのために、がんばって走ったよね?」
「……そのお礼にジュース奢ってやっただろうが」
「足りないよ、こんな百円ぽっちのジュースぐらいじゃ」
「強欲め……」
唇を歯噛み、永遠を睨みつける。借り物競走に尽力してくれたお礼、とんでもなく高くつきやがった。
我が儘を言う子にジュースはあげません、とペットボトルを奪うべく腕を伸ばすも、永遠はひらりと身を躱し、俺から距離を取るべくタタッと、軽やかな走りで向こうへと駆けた。
俺なんぞでは永久に追いつけまいと侮られているのだろう。永遠の余裕綽々な態度が癪に障った。
その場でぴょんぴょん足踏みをして、こちらを煽っている永遠の元へ、飛びかからんばかりに駆け寄る。
しかし、指先が永遠の肩口を掴む直前。永遠は素早い身のこなしでしゃがむと、柔軟な身体を上手く使い、すぐさまジャンプするかの如く立ち上がるや、いとも簡単に俺の腕をかい潜って体育館裏へと続く通路を走っていく。
「おいこら、待て永遠」
「やーだよ。永遠、待てと言われて待つバカじゃないもんねー」
おちょくるような声色で口答えすると、永遠は一目散に駆けていったが、体育館裏を直前にして、その場で急にピタリと立ち止まる。
目の前で突如足を止められたせいで、永遠の背中目がけて勢いよくぶつかるところだった。衝突一歩手前のところで、つんのめるように停止したおかげで、永遠にぶつかってしまう憂き目は免れた。けれど、永遠の急停止には、苦言を呈せねば溜飲が下がらない。
「こら永遠。急に止まると危ないだろ……」
「しぃっ! おにーちゃん、しずかにして」
永遠は素早く背後を振り仰いで、唇の前に人差し指を立てたジェスチャーを続けて送ってきた。半ば出かかった小言を呑み込み、慌てて口を噤む。
まるで身を隠すように道の端へとにじり寄った永遠の隣に並び立ち、指差す方向をそっと窺う。そちらには、複数名の女子生徒がたむろしていた。
じっと目を凝らし、正確な人数を数えてみれば、全部で四人いる。彼女たちの着る体操服の色からして、全員上級生だろう。
最初、三年生の先輩たちは体育祭を皆でサボっているのかと思ったが、にしてはどこか様子がおかしい。
追い詰められたかのように、体育館の壁を背に立つひとりを、他三人がまるで逃げ道を塞ぐかのごとく周囲を取り囲んでいるのだ。
これって、シメられている現場ではないのだろうか。嫌な汗が背中を伝う。
「ちょっと、
何だか異常なまで偉そうに腕を組み、真ん中に仁王立ちしていた女子が苛立たしげな声を発した。鼻頭にうっすらとそばかすが散っており、吊り目がちなキツめの顔立ちをした女子だ。
そのリーダー格と思われる女子から名指しで呼びかけられた、三人に詰められている先輩の様子を見やる。
彼女はスラリとした長身で、なおかつ髪型も短く揃えたショートカットの黒髪だから、一見中性的でスポーティーな印象を受けるものの、やけに立派なバストが少年らしさを見事に粉砕していた。
甚だしく下品な表現だが、デデンとそびえる巨乳の存在感は、それはもう余りあった。あれ、一体何カップあんの。
ギロリ、とすぐ隣から不穏な殺気を感じ、慌てて巨乳先輩……いや、和泉先輩の驚異的な胸元へと注いでいた視線を無理矢理引き剥がす。
純真無垢な小学生の妹には、胸のドデカい先輩をジロジロ眺めて下劣な発想を抱いているなど、絶対に気取られてはならない。兄の尊厳が地に落ちる。
もっとも、真実は元より永遠からも立派なお兄ちゃんとしては、そんなに敬われている気はまるでしないけれども。
「……聞いているよ。でも、あなたたちが話している内容は、まるで理解が不能だけど」
「はあ? ふざけてんの、アンタ……ユイの彼氏たぶらかして、寝取ったんだろって問い質してんだよ、こっちは」
「事実無根のデマで詰問するなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があるんじゃない? 根も葉もないホラ話じゃないならさ、ちゃんと根拠を示してよ。私が彼女の恋人を奪った証拠は?」
三人に囲まれているというのに、和泉先輩は全く萎縮する様子はなく、むしろリーダー格のそばかす先輩を笑顔で煽っている始末。火に油を注いでいる話し振りに、無関係なこっちがヒヤヒヤ肝を冷やしてしまった。
和泉先輩からの飄々とした問いかけを受け、そばかす先輩の右隣に立つ女子がカッと顔を赤く染め、たちどころに怒りを露わにした。ハチマキをヘアバンドのように、頭部へぐるりと巻いたロングヘアの彼女が「ユイ」とそばかす先輩が呼んだ子みたいだ。
ヘアバンド先輩はワナワナと肩を震わせ、唾を飛ばさんばかりの勢いで、和泉先輩に向かって捲し立てた。
「まさかしらばっくれる気っ!?」
ヘアバンド先輩は金切り声で叫ぶや、一歩前に足を踏み出して和泉先輩へ猛然と迫った。
「だから、証拠を教えてくれって言っているじゃない。決めつけは良くないよ? あなたの彼氏が浮気しようが知ったことじゃないけれど、勝手に二股の相手にされるのはいい迷惑なんだよね」
呆れ果てたように嘆息し、やれやれと肩を竦めてみせる先輩。彼女は至極冷静な様子だが、どうしてそこまで相手を逆上させる言葉と態度を示しているのか。これでは、ヘアバンド先輩他二人を、ますますヒートアップさせてしまうだけだろうに。
案の定もうひとり、掛けている赤縁眼鏡が目立つ先輩が黙っていられないとばかりに、和泉先輩へと突っかかる。
「ユイの彼氏が言ったんだってよ。アンタ……和泉さんのことが気になるから、別れてほしいって。アンタさ、いつもみたいに言い寄って誘惑したんでしょ。有名だもんね、和泉
赤メガネ先輩のあまりにも明け透けな言葉に、コレは小学生の永遠に聞かせていい類いの話ではないぞと、今更ながら焦りが募る。
だが、永遠を無理にでも引っ張って、退散するのは難しそうだ。当の永遠本人が興味津々の体で、彼女たちの話に耳を傾けているのもあるし、何よりこの不穏な現場を放って、撤退するのはさすがに躊躇いが勝った。
しかし、部外者が口を挟めるような状況でもなく、そもそも差し出がましい口出しなんて、到底できるわけがない。
あまりに酷い暴言を吹っかけられているにもかかわらず、和泉先輩は終始、口元に浮かべた冷笑を崩さなかった。
「何笑ってんだよ! アンタやっぱり、ウチのカレシのこと……」
「そんなわけないじゃん? そもそも、あなたの恋人の顔も私、よく覚えていないしね。そんな名前の男子、隣のクラスに居たかなあ? うーん、やっぱり記憶にないや。ごめんね? というか根本的にさ、恋人に振られた理由を他人のせいにするのって、どうなのかな。あなたにちゃんと魅力があれば、他の女に目移りされることもなかったんじゃあ、ないのかな? ねえ、私、間違ったこと言っている?」
とうとうヘアバンド先輩は、顔を覆ってワッと泣き出してしまった。友人の号泣する姿を目の当たりにし、赤メガネ先輩はオロオロとヘアバンド先輩の肩を抱き、慌てふためき慰めに走ったようだったが、ひとり闘志を剥き出しにしているひとがいた。そばかす先輩だ。
彼女は憎悪に満ちた眼差しを向けるや、和泉先輩の胸倉へと手を伸ばして突如、荒々しく掴みかかったのだ。パシンッ、と頬の張られる音が響く。
突然、距離を詰められて呆気に取られていた和泉先輩は、そばかす先輩からのビンタをモロに浴びてしまった。力任せに右頬を張られ、和泉先輩の頭は勢いよく左側を向いた。
「調子に乗るな、このビッチ! テメエ、いい加減にしろや!」
一発ビンタをかましただけでは飽き足らず、そばかす先輩の怒りは尚も治まらないようで、再び和泉先輩の胸倉をむんずと掴み上げ、続けざまに罵倒を放つ。
生々しい暴力を目撃し、驚き固まっていた永遠がハッと我に返り、俺の腰をバシバシ叩いてきた。
「お、おっ、おにーちゃん!? だいじょーぶなの……これ、シュラバじゃん。どーしよ、どーしよ、あのかみの短いおねーさん助けないとっ!」
「い、いや、でも、どうやって……?」
「アレコレ考えているヒマなんかないってばっ! ああっ! あれ、プランTでいこう、おにーちゃん!」
「プランT? なんだそれ!?」
「いいからいいから、おにーちゃんは永遠に合わせて! ほらほら、ついてきて!」
そう言うが早いか、永遠は動揺に溢れた表情をさっと消し去り、タッタッと軽い足取りで身を潜めていた場から躍り出た。
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