第22話「借り物競走」

 体育祭の日であっても、普段通りに制服を着て登校し、学校に到着してから体操服へと着替える手筈となっていた。

 高校の近所に自宅がある生徒なんかは、すでに体操服姿で学校へ来るらしい。そういった一部の猛者を除き、ほぼ全員が教室に着いてすぐに、着替えへと直行するので更衣室は混み合っている。

 更衣室の混雑振りに辟易としながらも、何とか体操服へと着替え、体育祭の会場となるグラウンドへと向かった。


 団は色別に分かれており、組み分けはクラスごととなっている。俺の属する二年二組は白組なので、白いハチマキを頭部に巻き付けながら集合場所のテント前に歩を進める。

 これから開会式が催され、体育祭の幕が上がる。思わず溜め息を吐きながら、鈍重な足取りで白組の面々が詰めるテントの前に向かっていれば、ふっと隣に人の気配を感じて俯いていた顔を上げる。


「おはよう、新留くん」

「え、あっ……佐藤さん……お、おはよう」


 にっこり微笑む佐藤さんが至近距離に立っていた。佐藤さんは後ろで手を組んで、俺の顔を覗き込むように見上げている。

 ばっちり目と目が合って視線が交錯した結果、言いようのない緊張感に苛まれ、咄嗟に顔を逸らしてしまった。そして、あまりに詰まった間隔を開けるべく、横に数歩スライドして佐藤さんから慌てて距離を取った。

 だが、挙動不審な俺の態度をさして気にする風もなく、ふんわり穏やかな微笑を浮かべたまま佐藤さんは軽やかに話題を振ってくる。


「浮かない顔をしているけど、新留くんは体育祭、気乗りしないのかな?」

「え? まあ、あんまり……運動得意じゃないし」

「そっか。私もね、走るのは嫌いじゃないけれど、瞬発力とかスピードなんてないから徒競走やリレーは苦手かも」

「そうなんだ……」


 俺の相槌に「そうなの」とにこやかに頷く佐藤さん。

 今まで接していて察するに、穏やかな気質だと思われる佐藤さんは、他人と競い合うのは苦手そうに見える。誰かを追い落としてまで競り勝たんとするギラギラとした闘争心とは無縁に思えた。

 なおも佐藤さんはお喋りを続けたそうに見えたが、正直に申し上げるとそろそろ離れてほしかった。

 隣に並んでずっと話していれば、俺たちの関係性を勘ぐられる可能性も高まる。


「おおい、新留?」


 そんな懸念を抱いて、ヤキモキしていた折。小野田の声が背後からかかり、ハッと後ろを振り向く。

 小野田と堤が立っており、俺と佐藤さんの顔を交互に見比べていた。ふたりの怪訝そうな表情を見るにつけ、俺たちの取り合わせを不思議に思っているに違いない。

 急いで佐藤さんとの距離を取り、小野田と堤の立つ方へと足を向ける。


「それじゃ、友達が呼んでいるから……」

「うん。またテントでね」


 柔らかく微笑み、胸元で小さく手を振って俺を見送ってくれる佐藤さん。

 やっと解放されたと安堵する一方で、佐藤さんの告げた「また」が気になって仕方がない。今日一日中、佐藤さんが再び喋りかけに来る恐怖に怯えねばならないのか。憂鬱の種が増えてしまった。

 溜め息を零しながら、ふたりの元へと歩んでいけば早速、小野田が仰々しい調子で話しかけてきた。


「おい、新留。貴様、女子と仲睦まじげに喋っておったな?」

「ええ? 何かの見間違えじゃ……?」

「すっとぼけるのも大概にしろぉ! よりによって、女神と話しておったな、お前ぇ! 断固として許すまじ」

「女神って誰だよ……」

「佐藤殿に決まっておろーが!」


 憤怒の表情を浮かべ、地団駄を踏む小野田はますますヒートアップしている。顔を真っ赤にして、小野田が猛然と俺を睨めつけた。

 三次元の女は総じて敵、現実の女はクソとまで断じる小野田が、佐藤さんのことは女神と称するだなんて驚きだった。誰に対しても分け隔てなく接する佐藤さんなら、小野田とだってにこやかな態度で会話してくれるのだろう。


「仲良いの? 佐藤さんと」


 憤慨する小野田に代わり、堤が何気ないように問いかけてくる。

 佐藤さんと交際している旨はクラスの皆に黙っているし、ふたりにも伝える気はなかった。特に小野田から激しい叱責を受けると想像に難くないためだ。それに、とやかく言われるのは友人といえど煩わしい思いがあった。


「いや、別に……。単に隣の席だから、たまに話すぐらいなだけで、特別仲良いわけじゃ……なくて……」

「へえ、そうなんだ」

「ああ、うん……」


 堤の確認に頷きながらも、咄嗟に目を逸らしてしまう。これ以上、佐藤さんについて喋っていたらボロが出そうだったので、何か他の話題を場に提供しなければ。


「そ、そういや、ふたりはどの競技に出場するんだったっけ?」


 うちの高校では、体育祭において必ずひとり一種目は、団体競技とは別に個人競技に出場しなければならない決まりとなっている。ちなみに俺はと言えば、借り物競走に出場する。


「僕は徒競走に出場するよ。小野田は障害物競走だよね?」

「左様。オレの華麗なる走りを全校生徒に見せつけてやるわい!」


 芝居がかったように胸を張って大袈裟に腰を反り、やけに勝ち誇った顔つきで呵々大笑していた小野田であったが、レース結果は無慈悲な最下位。

 平均台からは何度も落ち、潜り抜ける網に絡まり身動きが取れなくなって、最後は疲労困憊状態で蛇行しながら、小野田は倒れ込むようにゴールしていた。


 体育祭が始まるまであれほど大口を叩いていたのに、散々な有様には閉口する他ない。小野田は非常に無様な姿を全校生徒に向けて知らしめる形になったわけだ。現実はとにかく無情なのだ。

 小野田の徒死なんぞまるで関係なく、体育祭は順調に進んでいき、俺の出場する借り物競走がもうじき始まる頃合いだった。

 出場者は入場ゲートへ集合するようにとのアナウンスが流れ、応援テントからのっそりと出て行く。


 借り物競走では、借りるように提示された題目が、レース結果を左右するといっても過言ではなかった。

 グラウンドで調達可能なお題しか、さすがに用意していないとは思うが、借りるのに勇気がいるものは遠慮したかった。

 程なく最初の組のスタートが切られ、競技参加者はお題の書かれたカードをめくり、対象物を借りるべく四方へと散っていく。


 テンポ良く順番は巡り、気付けば前の組が終わって、とうとう俺の走る順番が回ってきた。スターターピストルが鳴り、俺を含め走者が一斉に駆け出した。

 トラックを少し走ったところで、地面に散らばる画用紙大のカードを拾い上げて、お題を確認するべく裏返した。


「えっ……小学生?」


 思わずお題を読み上げ、しばし思考が停止してしまった。地区開催の運動会ならいざ知らず、高校で催される体育祭において小学生を探すのは困難を極めよう。

 見物客の中に、きょうだいの応援に赴いた小学生はいるだろうが、見ず知らずの子ども相手に借り物競走とはいえ、俺なんかが声をかけたら事案なのではなかろうか。


 いや、待てよ。ひとりだけ、俺が声をかけても絶対に安心安全な小学生を知っている。

 保護者他見物客の集う観客用テントへ駆け寄り、周囲にざっと目線を走らせる。辺りをキョロキョロ見渡すも、アイツは背丈が低いので中々発見には至らない。

 ならばもう、恥は掻き捨てて声を張り上げ呼ぶべきだ。


「……永遠っ!」

「なーに、おにーちゃん?」


 俺の叫び声に応え、混み合う集団をかい潜り、目の前にポンと姿を現わしたのは、現役小学二年生の永遠だ。

 俺は無言で妹へとカードを掲げて見せた。永遠は心得たとばかりにコクンと大きく頷くや、出し抜けに俺の手をぎゅっと握ってきた。


「よっし! 急いで走るよ、おにーちゃん。永遠を借りるんだもん。とーぜん、一等賞まちがいなしだよね。ほらほら、行こう行こう!」

「ちょ、おい……永遠、そんな引っ張るなって!」


 先行する永遠にグイグイ腕を引かれ、ゴールを目指して突き進む。

 永遠があまりに速く駆けるから、周りの状況を見回す余裕さえないが、まだ幸いにもゴールテープは切られていないようだ。

 軽快にダッシュする永遠とは対照的に、半ば足をもつれさせながら、ゴール直前に立つ判定係の前に躍り出る。きちんとお題に沿った借り物を持ってきた、連れてきたかどうかの審査が入るのだ。

 係の生徒に向かってカードを示し、永遠と一緒に握った手を挙げた。じきに「OK」の文字が書かれた白旗が上がり、無事に合格をもらい受けて後はゴールへ駆け込むだけだ。

 目前を走る永遠がゴール前にピンと張られた白いテープを勢いよく切り、続いて俺もゴール目がけて飛び込んだ。


「やったあ! いっちばーん!」


 両膝に手を突き、弾む息をどうにかこうにか整えている最中、「1」の数字が染め抜かれた等賞旗を片手に握り、ご機嫌そうな永遠が傍へとやって来た。

 一心不乱にゴールを目指し、ぐんぐん急加速し、トラックを華麗に疾走した永遠であるが、息一つ乱していないのは流石という他ない。

 末妹の運動神経の高さには、ただただ目を見張るばかりだ。


「おにーちゃん、イェイイェイ! 一番だよ、一番!」

「凄いな、永遠は……」


 顔の横で片手を挙げた永遠から合図を送られたので、すかさず身を屈めて手のひらを寄せてハイタッチを交わす。パシッ、と小気味良いクラップ音が鳴った。


「一等賞おめでとう、新留。記念に一枚いかが?」


 ゼエゼエと乱れていた呼吸もようやく正常に戻ったころ。活気に溢れて喧騒めいたグラウンドには、そぐわないほど静謐な声が背後からかけられた。

 声のした後ろを振り向けば、頭にサンバイザーを被り、カメラを首から提げ、更に肩にも一台カメラを掛けた女子が立っていた。


 彼女は確か、クラスメイトである内山さんだ。

 内山さんは普段は下ろしている長い髪を一つにまとめ、頭の高い位置で結んでいる。それに、単なるポニーテールではなく、白いハチマキが髪の間に編み込まれていた。

 そういえば、佐藤さんが初デートの際、内山さんに爪を塗ってもらったのだと、やけに嬉しそうに教えてくれていたな。内山さんは器用で凝り性らしいので、何だか無性に煩雑そうなヘアアレンジもお手の物なのだろう。

 ただし、熱中症予防かはたまた日焼け予防のためなのか、内山さんが被っているつばの広いサンバイザーは、真っ黒だしデザインも野暮ったいしで、どうにもお洒落からはほど遠い帽子に思えた。


 内山さんが右腕に巻いている腕章には「撮影:写真部」の文字がプリントされている。とすれば、内山さんは写真部なのか。初めて知った。

 しかし、何でまた、内山さんは俺へと声をかけてきたのだろうか。記録写真を残すため、一等賞を獲った生徒全員に対し、写真部総出で声かけしているのだろうか。


 いや、それよりも、だ。内山さんが俺の名字を呼んできたのが気にかかる。

 同じクラスとはいえ、俺なんか底辺男子をトップオブ陽キャの内山さんが認識し、名字まで把握しているなんてあり得ない。もしや、内山さんの親友である佐藤さん経由で知っているのか。

 しかし、佐藤さんには俺と付き合っている旨をクラスの連中には決して口外しないでくれと、箝口令を敷いているので、秘匿している交際がバレるはずがないのだが。


 困惑に満ちた眼差しを向けて黙り込んだままでいると、内山さんは優美に微笑み、「写真、撮ってもいいかしら?」と手に持つカメラを持ち上げ、こちらへ今一度返答を促してくる。

 内山さんからの意味深な笑みを受け、異様に背筋が冷えてしまい、咄嗟に遠慮しておきますと、断り文句が口から出かかったが、


「わあ、写真だって! ねえねえ、おにーちゃん。せっかくだから、とってもらおーよ」


 永遠がはしゃいだ声を上げるのが先だった。

 ふたりで並んだ構図にしましょう、と内山さんから指示が飛び、素直な永遠がすぐさま俺の隣に整列した。それから永遠は、気軽な調子で等賞旗を俺へと手渡してくる。


「はい、おにーちゃん。はた持って」

「え? 旗は永遠が持てよ。お前のおかげで一位になれたもんだろうし……」

「かけっこが得意な永遠はさ、一等賞なんてとり慣れているけど、おにーちゃんは今まで運動会で一位になったことないって、朝くやしそうに言っていたじゃん。だからさ、エンリョしないで持ちなよ」


 永遠め、要らん気を回しやがって。

 羞恥で顔が熱くなる。確実に、顔全体が赤く染まっていることに違いない。


「あら、新留。妹さんの厚意を無駄にしては駄目よ。ほら、旗を受け取ってあげなさいな」


 俺たち兄妹のやり取りをしばらくの間、目を細めて眺めていた内山さんにも促され、永遠から渋々ではあるものの旗を受け取った。

 カメラを向けられ、永遠は俺の腕に手を引っかけて腕組みし、もう片方の手でピースサインを作った。

 満面の笑みを浮かべ、無邪気に決めポーズを作れる永遠は大変度胸がある。小心な兄貴はへどもどしつつ、ぎこちない苦笑を口元に形作るだけでも精一杯だというのに。


「いち足すいちは-?」

「にぃー!」


 永遠が無邪気に声を上げるのと時を同じくして、内山さんの持つカメラから、カシャリとシャッターの切られる音がした。

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