第21話「体育祭の朝」

 運動会や体育祭に良い思い出が一切ない。特段、運動神経が良いわけでもなく、徒競走などの出場競技において一等賞を獲った経験は振り返っても憶えがなかった。

 それに、皆で結託して何かを成し遂げ、涙を流して感動を分かち合うような感覚がいまいち分からないことも、体育祭が苦手な件に拍車をかけている気がする。

 ようするに、パリピの皆さんがワイワイ騒がしく楽しむ行事が嫌いなだけだ。仰々しいほどのハイテンションについて行けない。


 俺の憂鬱とはまるで関係なく、体育祭の本日は朝から雲ひとつない晴天に恵まれていた。

 あくびを噛み殺しつつ自室を出て、階段を降り一階へと向かう。食卓の椅子を引きながら、目にしたテレビに映る天気予報では、一日中すっきり晴れると報じられていた。

 太陽が昇るにつれ、それに伴って気温もぐんぐん上がるのだろう。勘弁してほしかった。


「おはよー、おにーちゃん。今日は永遠とおねーちゃんがおうえんに行くからね」

「おはよう、永遠……応援って何だよ」

「おうえんは、とーぜん体育祭のおうえんだよ。おにーちゃん、がんばってって、高校にエールを送りに行くからね」


 テーブルに着いて早々、朝も早くから元気な永遠が話を切り出してきた。

 今日は俺の通う高校の体育祭だ。高校生にもなって親の応援なんぞ、気恥ずかしさもあって全く望んではいないので、父さんや母さんへ来てくれるよう頼みすらしない。そもそも、そんな発想さえなかった。

 両親同様、妹たちにも応援に来てと要請すらしていない。駆けっこ大好き、足の速い者の晴れ舞台ならいざ知らず、体育祭が問題なく無事に早いとこ終わってくれるよう、切に願っている人間の応援なんて楽しくもないだろうに。

 両拳を握って、今からもうやる気をみなぎらせている永遠を、嘆息しつつ白い目で見る。


「お兄ちゃん、別に体育祭で応援されても嬉しくないから遠慮しておくよ……」

「おうえんするかしないかは、おにーちゃんが決めることじゃあないんだよ。それにね、もうおかーさん、永遠とおねーちゃんの分のお弁当、作ってくれているから」

「ええー……まじかよ」


 永遠の発言を確かめる意味もあって、台所に向かえば、母が朝から面倒だろうに揚げ物をしていた。台所には、パチパチと油の跳ねる音と、香ばしい匂いが漂っている。

 菜箸を片手に持つ母は鍋に落としていた視線を上げて、こちらを見やった。


「おはよう、早いのね」

「おはよう……朝から揚げ物なんて、面倒なことしなくていいのに……」

「でも、お兄ちゃん。唐揚げ好きでしょう?」

「好きだけどもさ……」


 母の問いかけに渋々頷く。唐揚げというだけでも作るのが大変だろうに、よりによって母が今揚げているのはチューリップ唐揚げみたいだ。

 手羽先をチューリップの花びらの形に整えて揚げる、これまた煩わしい作業を要する唐揚げだった。体育祭の弁当に入れるおかずだから、張り切って準備してくれたのかもしれない。

 調理台の上を見れば、卵焼き他沢山のおかずを用意してくれているようだ。普通の弁当で良いのに、余計な真似をと思わなくもなかったが、作ってくれるだけでもありがたいのだ。ここは素直に感謝しておこう。


「弁当、ありがとう。それでさ、弁当作るの大変そうだし、朝飯で何か手伝えることない?」

「あらそう? 何だか悪いわね。それじゃあ、朝ご飯をテーブルまで持って行ってくれない?」

「了解」


 母の指示に頷きを返す。トースターから焼けたロールパンを取り出し、バスケットへと盛る。すでに出来上がってフライパンの中で待機していたスクランブルエッグを平皿へとよそい、隣にこんがり焼けたベーコンを添える。

 サラダは用意したものが冷蔵庫の中に仕舞ってあると母から声がかかり、バターや紙パック入りの牛乳と一緒に取り出してテーブルへと持って行く。

 ダイニングへ戻れば、ちょうど父が椅子を引いて着席しているところだった。永遠が郵便受けから取ってきた朝刊を父へと渡している。


「真実はまだ起きてきていないのか?」


 永遠に礼を言って新聞を受け取りながら、父が周囲に視線を彷徨わせている。

 真実の姿はない。まだ自室のベッドで眠りこけているのだろう。永遠が肩を竦めて、呆れた様子で息を吐く。


「おねーちゃんはまだ夢の中だよ」

「あの寝ぼすけめ……」


 永遠共々揃って嘆息した。低血圧の真実は朝に滅法弱く、早起きがたいそう苦手なのだ。早く起きるよう母に諫められ、渋々食卓に着くのが常だった。

 今朝もまた母が痺れを切らし、真実を起こしに行くのか。でも母さん、弁当作りで忙しそうなので、真実を叩き起こす役目は俺が担った方がいいのだろうか。


 しかし、強く出られない母ではなく、日頃から舐めてかかっている兄貴なんぞが起こしにやって来ても、確実に真実はむずがって二度寝を決め込む。

 もっとも今日、真実は学校が休みなので、少しは惰眠を貪っていても問題ないのだ。永遠と一緒に体育祭の応援にやって来るようだから、昼過ぎまで寝こけているわけにはいかないだろうけれども。


 真実の心配はこれぐらいにして、そろそろ朝食を食べなければ、学校に遅刻してしまう。太陽の下、動き回るのだ。しっかり食べておかないと、確実に体力が持たない。

 温かいうちに食べておいてと、母はさっき言っていたので、先に俺たちだけで食べ始めても問題ないはずだ。


 マグカップに牛乳を注いでいたら、妙に強い視線を感じた。顔を上げると、途端に永遠と目が合った。

 じっと無言で見つめてくるばかりで何も言ってこない永遠が不気味で、傾けていた牛乳パックを真っ直ぐに戻して注ぎ口を閉じ、テーブルへと置いてから妹へと訝しげに目線を返す。


「……何?」

「そういやさあ、おにーちゃんって、牛乳すっごく好きだよね。毎朝のんでいるもん」

「いや、別に好きなわけじゃ……」

「ええっ? 好きじゃないの?」


 目をまん丸に見開いて、大袈裟なまでに驚く永遠から、思わず視線を逸らしてテーブル上を見る。水色のマグカップに描かれたラッコのイラストと目が合った。

 この小さなマグカップは確か小学生の夏休み、水族館のショップで購入したものだから、考えてみたらコイツとの付き合いも結構長いな。今までよく割れずにいてくれたものだ。

 永遠は大体、朝は果物ジュースを飲んでいる。両親は決まってコーヒーだ。真実が飲むのはコーヒーや紅茶、炭酸水など日によってまちまちだが、小学生の一時期は兄を真似て牛乳を飲んでいた気がする。


「じゃあさ、好きでもないのにどーして、牛乳なんか毎日のんでいるの?」

「あー……何ていうか、昔からの習慣が単に抜けないだけだよ」

「しゅーかん?」

「永遠、お兄ちゃんは背を伸ばしたいからってな、小学五年生の終わり頃から中学の途中までだったか? 牛乳を毎日毎日浴びるほど飲んでいたんだ。うちの牛乳消費量が一気に跳ね上がってなあ」

「……父さん、余計なこと言うなよ」


 生温かい視線を送ってくる父をひと睨みし、即刻黙るよう目配せをする。

 しかし、笑顔を浮かべた父はますます調子に乗って、言わんでいいことをベラベラ開陳し始める。


「お兄ちゃん、小さい頃は背が低いのをえらく気にしていたんだ。だから、背を伸ばしたい一心でな、それはもう嫌いだった牛乳を毎日一パックも飲み始めて、小魚ミックスをもりもり食べるのも義務づけて。背が伸びますようにって、毎晩眠る前、夜空のお星さまに向かって熱心にお祈りしていたんだよな」

「へええー! 一パックも牛乳のんでいたんだ。おにーちゃん、そんなにもチビだったんだー」

「……うるさい」


 永遠の驚きで弾んだ声は、なんだか無性に腹が立つ。今でこそ、一般的な男子高校生の平均身長に達した俺だが、小学生の頃は永遠が言うように、それこそ本当にチビだったのだ。

 背がうんと低くて小柄だったせいもあってか、幼い時分はクラスメイトの男子たちから、からかわれる恰好の的になっていた。他にも小さな身体が原因で散々な目に遭ったので、どうにかして身長を伸ばすべく躍起になった。


 牛乳の飲み過ぎが原因か時折腹を下して悶え苦しむ困難も乗り越え、そんな涙ぐましい努力の甲斐もあり、中学生のときにめざましい成長期が訪れてくれたのだ。

 まあ、本音を吐露するならば、もう少し上背が欲しいけれども、あまり贅沢は言っていられない。チビを脱却できただけ御の字なのだから。


「そっかー。牛乳をたくさんのんだおかげで、おにーちゃんは背が伸びたんだね」

「永遠も牛乳飲めば、身長伸びるかもしれないぞ」


 ほら、と牛乳の入ったマグカップを差し出すも、永遠はしかめっ面を晒すばかりで、受け取る気配はまるでない。

 永遠はお腹がタプタプになってシクシク痛くなるから、と牛乳が大の苦手なのだ。給食に出る牛乳を飲み干すのにも、毎度のように苦労しているらしい。まあ、体質的に乳製品が駄目な人もいるので、無理強いは良くないのだが。


「永遠も背丈が低いこと、気にしているじゃないか」

「永遠、ちっちゃくないよ!」

「え、でも、永遠……背の順クラスで前から二番目なんだろ?」


 新学期早々に行われた身体測定の結果をもらい受け、学校から帰ってきた永遠が翌朝まで異常に落ち込んでいた記憶が一瞬で鮮やかに蘇る。

 永遠の奴、リビングの隅で体育座りをし、ぶつぶつ念仏を唱えるように、とある単語を繰り返していたような。チビじゃないチビじゃない、と自分で自分に言い聞かせ、永遠は必死こいて自己暗示をかけていた。


「そ、そんなの知らないよ! 永遠、チビじゃないもん!」

「うわっ! 急に立つな。おい、ごめんて、永遠。そんな怒るなよ……」


 椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、顔を真っ赤に染めてぷんすか怒り出した永遠を父と共に宥めていたところ、扉がゆっくり開いて真実がぬっと現れた。眉根が寄って唇もひん曲がっており、不機嫌さが丸分かりだ。


「永遠、うるさい……」

「おねーちゃん、おはよ! ねえねえ永遠、小さくないよね?」


 機嫌がすこぶる悪い真実にも全く怯まず、兄に苛められて半泣きの永遠は、姉に助けを求めるべく傍に駆け寄っていっていた。

 ベタベタ纏わり付く永遠をウンザリした面持ちで見下ろし、それでも優しくやんわり引っ剥がしながら、真実は緩く小首を傾げてみせた。

 それから、眼下の妹をつぶさに観察するかのように、じいっと視線を注いでいる。


「いや、れっきとしたチビでしょ、永遠は……」

「ななっ!? おねーちゃんまで、永遠にヒドいこと言うの!?」

「あたしは事実を言ったまでだから……永遠も好き嫌いせずちゃんと牛乳飲まないと、小学生のころのお兄ちゃんと同じように、ずっと小さいまんまだよ」

「何で俺のことまで、軽くディスったんだ? 真実、余計なひと言止めてくんない?」


 真実はか細く息を吐きながら、ジロリと俺を睨めつけた。妹には発言はともかく、優しく接する真実であっても、兄にはまるで容赦なく厳しい態度を取ってくる。


「余計も何も、小学生のとき、お兄ちゃんは確かにチビだったじゃない……」

「真実だってチビだったじゃないか」

「……昔の話なんて忘れてよ」

「だったら、俺の昔も蒸し返すなよな……」


 真実と無言で睨み合い、バチバチと火花を散らしていたときだ。

 母が台所から顔を覗かせた。息子と娘が朝早くから詮ない喧嘩を繰り広げている様を、実に冷ややかな眼差しで見ていた。


「しょうもない真似していないで、ふたりとも早くご飯食べちゃいなさい」

「はい……」


 母の凍てつく眼光に竦み上がり、真実と揃って返事をするや、俺たちは慌てて朝食を摂り出したのだった。

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