第20話「説得」
昔ながらの瓦葺きの平屋建てに到着した。
インターフォンを押して程なく、俺を出迎えてくれたのは昨日と違わずおばあさんだった。いや、少々おばあさんの様相が違っている。
「おやまあ、あんたは……」
目をまん丸に見開いて、驚き固まってしまったおばあさんを前に、俺もたじろぎ身体を固くしていた。
昨日は雫くんを伴い、ジャスティスマンに変身して家を訪ねたのだ。見知らぬ男子高校生が現れたのだから、困惑されるのは了承済みだったが、ここまで極端に驚かれるとは思ってもみなかった。
発す言葉を探し求め、視線を彷徨わせていれば、おばあさんが急に近寄ってきて、突如俺の手を両手で握り締めてくる。
おばあさんの唐突な行動に仰天し、慌てて身を退こうとしたのだが、おばあさんが手を握っているので退避行動は適わない。
「あ、あの……どうされたんですか」
腰を引いて、できる限り距離を取りつつ、何故だか深く頭を下げてしまったおばあさんに問いかける。
俺の声を聞き、おばあさんは慌てて顔を上げ、恥ずかしそうな笑みを浮かべて見せた。自身の突飛な行動に、今更我に返ってくれたのかもしれない。
だが、まだ手は繋がれたままで、離してくれそうにないから困ってしまう。
「あんた……やっぱり」
「い、いえ……俺はジャスティスマンではなく、知り合いで……」
田代さんに弁解したときと同様に、ジャスティスマン別人説を唱えるが、おばあさんは俺の言葉なんてまるで聞いちゃいなかった。
再び腰を折り、深々と頭を下げているではないか。だから、おばあさんに謝られるような理由が、俺には皆目見当がつかない。
「あのときは本当にありがとうよ。あんたのおかげで、あたしゃ命拾いしてね」
「えっと……?」
「覚えていないのかい? 四月のいつだったっけねぇ……朝にさ、助けてくれたろう? 腰を抜かして座り込んでいたおばあちゃんだよ。忘れたのかね?」
「あっ……!」
思い出した。何だか見覚えのあるおばあさんだと昨日も思っていたら、あのときの老婆だったのか。
登校途中に路肩でへたり込む老婆を発見して、病院に背負って向かい、案の定学校に遅刻してしまい、担任教師にこっぴどく説教を食らった日のことを。
俺の驚き様を目にし、おばあさんは嬉しそうに弾んだ声を上げた。
「あのときはちゃんとお礼を言えなかったからね。助けてくれてありがとうねえ」
「い、いえ、困っている人がいたら助けるのは当たり前で、俺は当然のことをしたまでで……別にお礼を言われるようなことでは……」
「おやおや、謙遜しなくてもいいんだよ。ささ、上がってちょうだい。お礼をしなくちゃいけないからね」
「いや、本当に大丈夫ですって。お礼なんか、そんな見返りを求めてやったことではないので……勘弁してください」
俺の言葉はテンションの上がったらしきおばあさんには、これぽっちも届いちゃいなかった。ぐいぐいと急き立てられるよう家に上げられ、あっという間に居間に通されてしまった。
ちゃぶ台の前に腰を下ろし、お茶を持ってくると言い残して台所に向かったおばあさんを呆気に取られながら見送り、ようやく状況を確認できた。
目の前には仏頂面の綿貫さんが座っており、声にならない悲鳴を上げて、俺は飛び上がりそうになってしまった。
「あ、えっと……どうも、お邪魔しています」
「何だお前は……」
吐き捨てるように言葉を投げかけられ、萎縮した俺は返事に窮して押し黙る。
やはり、綿貫さんはどことなく祖父に雰囲気が似通っているので、恐怖が全身を駆け巡り上手く言葉が出てこなくなってしまうのだ。目前のおじいさんは祖父とは別人だと何度も唱えて、込み上げる震えを追い払う。
どうにか動悸を押さえつけ、俺は綿貫さんを恐る恐る窺った。縦皺の刻まれた眉間、への字に曲げられた唇、天板に置かれた握り拳は強く握り締められたまま。綿貫さんは間違いなく不機嫌だった。
「お待たせしたね。お茶、ここに置いとくよ。お菓子もどうぞ」
息の詰まるほどの静寂を破ったのは、おばあさんのはしゃいだ声だった。
思わずホッと息を吐き、俺は勧められた湯飲みを手にして、お茶を一口飲み込んだ。程よい熱さで柔らかな苦味と深い旨味を感じるお茶だった。きっと、俺なんかに出すようなものではない上質な茶葉を使ってくれたに違いない。申し訳なさが募る。
「お菓子もどうぞ。ほらほら、遠慮しなくていいんだよ」
「……はい、戴きます」
おばあさんの異常な熱心さに負け、俺はお茶菓子も受け取ってしまう。ぺりぺりと包装紙を剥ぎ、これまた上品で高価そうな最中を囓る。香ばしい皮の香りが鼻を抜け、舌触りの良い餡子が舌に広がってすっと消えてなくなった。
これ、絶対高いやつだ。最中なんぞ、スーパーのお徳用ぐらいしか食べたことない舌には、刺激が強すぎる。
「お父さん、この子ね、前のあたしを助けてくれた子なんだよ。ほら、春に言っていただろう」
「……病院の世話になったあれか」
「そうそう、朝も早い時間だったのに、この子が背負って病院に連れてくれたおかげでねぇ」
当時を回顧しているのか、おばあさんはしみじみと溜め息を吐き、綿貫さんは呆れたような目をして嘆息している。
「すみません、病院に送った後は大丈夫でしたか?」
差し出がましさは重々承知も、俺は気になっていたことを訊いてみた。現在のおばあさんは元気そのものだし、大事なかったのは当然の気もするのだが。
「ええ、おかげさまでね。あんたがすぐに病院に連れて行ってくれたから、症状も軽く済んだんだよ。病院の先生も感謝していたよ。ありがとうね」
「そんな……処置してくださったお医者さんのおかげですよ」
「今時の若いもんにしちゃ、謙虚すぎるよあんた。もっと堂々と胸張っていても問題ないって言うのにさ」
ははは、と乾いた笑い声を発し、俺は思わず下を向く。
眼鏡越しに映る畳は、古ぼけて茶色く焼けていた。これ以上賞賛されるのがむず痒く、俺は他の話題をと心の中で呟いて、必死に別の質問を考える。
「そういえば……どうしてあの日は朝も早いのに、あんな場所にいたんですか? 日課の散歩とか……?」
「そうじゃなくてね。朝のパンを買いに行っていたんだよ」
パン。何だかこの家には不釣り合いな単語に、俺は戸惑ってしまう。ちゃぶ台の置かれた畳敷きのこの部屋で、朝食として出てくるとしたら白いご飯に味噌汁の方がしっくり来る。綿貫さんだって、パン食よりも白飯を好むような気がしてしまう。
おばあさんは「ちょっと待ってておくれ」と言い残し、台所に向かって袋に入った何ものかを手に戻ってきた。透明の袋に入っているのは、茶色く四角い物体だ。紛れもなく食パンだろう。
その食パンこそが、おばあさんが朝早くから歩いて買い求める品なのか。見たところ何の変哲もない食パンに思えるが。
袋に印字された店のロゴと思われるプリントの絵を見てみるも、パン屋事情に疎い俺には、食パンの製造元である「
「この店は開店時間が早くてね、焼きたての食パンを朝食に出せるから重宝しているんだよ。前は一人で歩いて行っていたけれど、最近はお父さんも足の具合が良くなったから、二人で運動がてら一緒に行っていてね」
「余計なことは言わんでいい」
「ちょっと、まったくお父さんは。この子はあたしの恩人なんだよ」
綿貫さんをたしなめるおばあさんを眺めながら、俺は先の発言を反芻していた。足の具合が最近は良くなった、とおばあさんが言った。
であれば、綿貫さんは以前、俺がおばあさんを助けた四月頃は、足の怪我を負っていたことになる。田代さんは数ヶ月前、綿貫さんが広場を訪れなくなってしまったと語っていたような。いや、追い出したと表現していたか。
「あの、綿貫さんがゲートボールを辞めていた原因って、足の怪我のせいですか」
「余計なことは……」
「そうだよ」
目くじらを立てて怒る綿貫さんを遮るように頷いたのは、おばあさんだった。おじいさんは畳の縁に足を引っかけ、転び方が悪かったのか運悪く足を痛めてしまったらしい。
しばらくは歩くのも難儀するほどであったが、最近は一緒に散歩をできるぐらいに回復していると、おばあさんは語ってくれた。
「でしたら、綿貫さんがゲートボールをやっている公園の広場から足が遠のいた理由も、足の怪我のせいですね」
「お前……黙らんか」
俺は首を横に振り、ステッキを綿貫さんの鼻面へと突きつけた。突然のことに驚き黙ったのは、綿貫さんの方だった。俺は制止なんぞ、構うことなく声を出す。
「足の怪我は治ったのでしょう? 河川敷に練習に行くぐらいだ。まだゲートボールへの情熱も失っていませんよね。田代さんが待っています。また一緒に試合がしたいとおっしゃっていました。謝りたいとも申されていましたよ」
「珠ちゃんが……?」
初めて綿貫さんの顔に動揺が走った。田代さんの名前を出したことが効いたらしい。
俺はもう一度、腕を伸ばしてステッキを綿貫さんへと差し出した。だが、まだ受け取ってはくれない。
「顔を合わせて、話をしに行ってください。ゲートボールって、確かチーム競技でしたよね? チームを組まないと、試合には出られないはずです。それに、ひとりで練習するよりずっと、効率的に腕を上げられると思います」
知ったような口を利くなと、綿貫さんから叱責されることを覚悟していた。だが、綿貫さんは怯えるように視線を泳がせ、ステッキをちらちらと見つめては視界から外すことを繰り返していた。
綿貫さんの弱さを目の当たりにし、俺は当然の事実を再確認する。
このひとは俺が恐れて止まない祖父ではない。ちゃんと話が通じるおじいさんだ。言葉を尽くして説得すれば、綿貫さんの決意は変化させられる。
「綿貫さんにとって、納得いく水準まで到達できない人が我慢できない気持ちも分かります。ですが、誰だって同じ目標に向かって真っ直ぐ歩ける人間ばかりでもないです。技術の差もありますし、意識の差も生じます。試合だけでなく日頃から真剣勝負は正直、息が詰まりますよ」
ガチ勢にだって、エンジョイ勢にだって言い分はあるものだ。だが、互いの意見をぶつけるだけでは、何にも生まない、壊すだけだ。
田代さんはどちらにもいい顔をしていただけだと自省していたが、折衷案を探し求めるのは悪くない。心から和解できずとも、納得できる範囲にまで持って行ければ成功だ。
「もっとも、皆で仲良しこよしじゃなくともいいんです。でも、妥協できるところを探しましょう。綿貫さんはひとりじゃありません、田代さんを頼ってみてはいかがでしょうか? 田代さんは信頼に足る人物ではありませんか?」
「珠ちゃんは……あいつは信用できる奴だ」
おれはぐいっとステッキを前に押しやった。とうとう、綿貫さんは手の平を開いて、俺からステッキを受け取ってくれた。
よし、田代さんの願いも雫くんの頼みもクリアできた。
問題は残っているけれど、後は当人たちで解決するべきだ。部外者である俺の出る幕ではない。綿貫さんが広場へ出向き、田代さんと話をすることで、広場に蔓延る空気も多少は変化を兆すだろう。
そうであってほしいと祈るぐらいしか、もう俺にはできない。だから、これから頑張るのは綿貫さんたちだ。
「応援しています、俺。綿貫さんと田代さんがまた一緒に、試合へと出場できることを」
綿貫さん宅を後にし、帰路に就く途中で足を止めた。スマホを取り出し、雫くんへとメッセージを送るためだ。今日はちゃんと朝から、フリースクールに登校できたのだろうか。
メッセージの内容はジャスティスマンは無事、問題を解決したと綴っておこう。拾ったステッキはきちんと持ち主の元に返ったのだ。返されたステッキが再び日の目を見るかどうかは、本人たちにかかっている。
メッセージに登校の有無を尋ねる文面を連ねそうになって、送信の寸前で消した。気分を害するような問いはするべきではない。
雫くんからはすぐに返信が来た。返事はジャスティスマンを讃える文字が並んでおり、どうやら憧れは継続してくれているらしい。雫くんが嬉しいなら、俺も胸を張ってジャスティスマンが続けられる。
スマホを仕舞い、再び歩き始めながら俺は、先ほど綿貫さんにぶった言葉の数々を振り返っていた。
何様のつもりで説教、もとい説得を試みたのか。俺はひとに訓示を垂れるほど、できた人間では決してないのに、おこがましいにも程がある。
それに、心にもないことを言ってどうする。人を頼るなんて、誰しもができることではないのに。易々と提案すべきではなかった。
現に俺は、決して人を頼れないのだから。要所で人の助けを借りるなど、臆病者の俺には到底できっこない。どうしても無理だった。
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