第14話「猫救出大作戦」

 緊張の初デートからしばらく経った。

 相変わらず俺と佐藤さんは、学内では極力接触を控えて、電話やメッセージのやりとりで親睦を深めていった。佐藤さんの告げる言葉の端々にまたデートしたいというニュアンスがほのかに含まれていて気が気でないのだが、そう頻繁にお出かけできるほど俺の財布の中身は潤沢ではないし、そもそもそんな度胸はどこにもない。

 初デートの失敗を未だに引きずっているぐらいなのだ。あのときああすれば良かった、こうすればまだマシだったと過ぎたことを今更ウジウジと思い悩んでは、落ち込むのを繰り返す面倒くさい奴でもあった。

 我ながらいい加減吹っ切れと、頭を引っぱたきたくなる陰鬱野郎振りには反吐が出るぐらいだった。


『みんなー、おっはよー! 珍しい朝の投稿でビックリさせちゃったかなー? というのも、今日の動画ではねー、前からリクエストが多かったほしちゃんのモーニングルーティンを紹介するから! さっそく、刮目してとくと見よ!』


 アラームを止めるついでに、スマホに通知が来ていた動画を再生すれば、冒頭からフルスロットルで幕が上がって、寝起きの脳みそに多大なるダメージを食らわせてきた。朝からこのハイテンションには、正直言ってついて行けない。

 しかし、ちゃんと最後まで動画は視聴しないと。投稿者に感想を送らなければいけないからだ。星ちゃんとの約束なので致し方あるまい。約束不履行なんてしでかしたら、間違いなく叱られてしまう。

 スマホの音量を最小まで下げ、粛々と動画を観終える。続けざまにメッセージまで送り終え、ホッと一息吐く。

 朝から走りに出向いて、その上筋トレとストレッチにまで精を出すなんて凄いな、と褒め称える文面を送ったら、


『そうでしょそうでしょ。ボクすごいでしょ』


 と、速攻で鼻高々な返事が届いた。感想にご満足していただけたようで、それは何よりだ。


 動画内で披露されたモーニングルーティンを倣い、俺もそろそろいい加減ベッドから起きなければ。被る布団を引っ剥がし、えいやっと勢いをつけて半身を起こす。ベッドを降りてカーテンを開けたら、眩しい陽射しが降り注いできた。雲ひとつない爽やかな晴天が窓の外には広がっている。


 今日は休日、それでもって絶好のお出かけ日和ときた。自室に籠もって、デートの失敗を思い返してウダウダと悩むのは建設的ではない。ここは気分転換がてら、出かけるかと重い腰を上げたときだった。

 スマホが振動して、メッセージの到着を告げてきた。星ちゃんとのやり取りが一段落した今、メッセージを送ってくる相手といったら。

 ま、まさか佐藤さんからだろうかと、若干恐れをなしつつ画面を覗き込んで相手を確認し、安堵の息を漏らす。


 一瞬想像してしまった佐藤さんからのデートのお誘いではなかった。送り主は知り合いの小学生男子だった。歳の離れた友人で、共通の趣味から親しくなった間柄である。

 その男子、名前はしずくくんといって、彼が送ってきたメッセージの内容は今から会えるかとの打診だった。

 いつもの河川敷で待っていると末尾にあったので、すでに雫くんは外に出て現地にいるか、もしくは指定の場所に向かっている途中だろう。

 特にこれから予定もなく、はっきり言って暇を持て余していたので、雫くんからのお誘いは渡りに船だった。家から出る良い口実をもらい、俺は意気揚々と外出の準備に勤しんだ。


 徒歩で河川敷へと向かう途中、一件着信が入った。

 変身ベルトを模したボディバッグから覚束なくもスマホを取り出して確認すれば、永遠からの電話だった。今日永遠はたしか、昨晩夕飯の席で嬉しそうに語っていた情報によると、午前中から仲良しの友達と遊ぶはずでは。

 永遠の身に何かあったのだろうかと不安を抱きつつ、慌てて電話へと出る。


「……もしもし、どうした?」


 声がくぐもっている気がして、声量を心持ち大きくしてみるものの、ちゃんと聞こえているか心配になった。だが、すぐに永遠から返事が来る。


『おにーちゃん。たいへんなの』

「えっ! 何があった? 大丈夫か」


 返答内容を受けてぐっと前のめりになり、スマホを握る力も自然と強くなった。

 恐れによりドキドキと高鳴る心臓を必死に宥めすかし、永遠の言葉をハラハラしながら待つ。


『永遠はだいじょうぶなんだけど、助けてほしいの。おにーちゃん、今どこ?』

「ええと……永遠こそどこにいるんだ? お兄ちゃん、今からそこへ行くから」

『ほんと? あのね、タコさん公園のブランコのちかくだよ』


 永遠が言っているのはおそらくタコの滑り台ある公園だ。

 公園の本当に正しい名称は違うのだが、タコを象った滑り台が印象に残るせいで、誰も彼もがタコ公園と呼んでいた。

 そのタコ公園、俺の今いる場所から向かうのならば歩いて十分もかからないはずだ。


「分かった。すぐ行く」

『うん、はやく来てね』


 通話を終え、俺は駆け足で公園へと急ぐことにした。

 そして、ほどなく公園の入り口へと辿り着く。まず目に飛び込んでくるのは、公園のトレードマークとなっているタコの滑り台だった。

 滑り台は敷地内の中央に置かれており、この公園でもっとも人気の遊具と言って過言ではないだろう。現に、今も滑り台には沢山の子供たちが群がっている。


 また、休日とあってか見る限り、敷地内に人気は多かった。ベビーカーを押すお母さんの集団や鬼ごっこに興じる子供たちが目に入る他、砂場近くの開けた広場的な空間には、ゲートボールをする老人の姿がある。

 もっともゲートボールのルールを全く知らないので、遊びなのか試合なのかは判断がつかないが、おじいさんおばあさんたちの賑やかな声が聞こえてくるので、楽しそうなことだけは伝わってくる。

 入り口を抜け、砂場を通り過ぎ、ブランコの遊具が設置されている場所へと向かう。ブランコは公園のやや奥まった一角に設置してあった。


「おにーちゃん。こっち、こっち」


 永遠の声が耳に入り、ブランコへと向けていた視線を彷徨わせる。

 声の主を探すべく周囲をきょろきょろ見渡していれば、永遠の方からこちらへと駆け寄ってきてくれた。


「永遠、どうしたんだ」

「うん、たいへんなの」


 たいへん、たいへんと繰り返す永遠は俺の腕を引っ張り、ブランコの置かれた方角へと連れていってくれる。


「すけっと、来たよ」

「永遠ちゃん……と、だれ?」


 ブランコの支柱近くに立っていた女の子が振り返り、永遠を見やって安堵の声を上げたかと思えば、隣に立つ俺へと目線を移して、すぐさま警戒心バリバリの声色を出す。女の子にとって、正体不明の俺がやって来たのだ。不審者だと疑われても仕方あるまい。

 俺を見上げてきっと顔を強張らせているであろう女の子は、永遠が今日遊ぶと言っていた友人で間違いないだろう。

 どことなく見覚えがあるので以前、家に遊びに来てくれた子のひとりかもしれない。交遊範囲が極端に狭い兄や姉と異なり、永遠は社交性の塊なので友人が多いのだ。


由芽ゆめちゃんあのね、このひとは永遠のおにー……まちがえた。ネコちゃんのきゅーせーしゅさんだよ」

「きゅーせーしゅ?」


 言わんとしているのは、救世主だろうか。永遠の言葉に小首を傾げる女の子由芽ちゃんと、大威張りで俺を紹介してくれた永遠が見上げる先を辿れば、ブランコの傍に植わる樹木があった。

 そして、葉を茂らせる樹の幹の付け根には、小さな猫らしき小動物がちょこんと座っているのが見えた。遠目から見ても毛並みはややボサボサと荒く、首輪が見当たらないところを鑑みるに、誰かの飼い猫ではなくきっと野良猫だろう。


「もしかして、猫が降りれなくなっているのか?」

「だいせいかーい。さっきまで永遠と由芽ちゃんとネコちゃんで遊んでいたんだけど、ネコちゃんがね、お散歩に通りがかったワンコの鳴き声にビックリして、木の上ににげたんだ」

「で、降りてこられなくて今に至るのか」

「そうそう、そうなんだよ」


 こくりと頷いた永遠。由芽ちゃんは俺と永遠の方を向きつつも、不安そうな面持ちでちらちらと視線を木の上に送っている。猫が心配で仕方ないようだ。


「そういうわけだからさ、おにー……ううん、きゅーせーしゅ! ネコちゃんを助けてほしいの」


 ぐいぐいと腕を引っ張り、永遠は俺を樹の目の前まで連れて行く。もしかしなくても、木登りをして猫を救助しろということか。

 永遠はもちろん、由芽ちゃんも安易に木に登るような危険な真似を犯さなくてよかった。樹木の高さはそれほどないが、もしも足を滑らせたら怪我を負う可能性もある。

 仮に俺が木の上から落ちたとしても、捻挫ぐらいで済みそうだけれども、ふたりは小柄な小学生。打ち所が悪ければ障害が残るような恐れだってある。ふたりでどうにかせず、俺を呼んだ永遠の賢明な判断に感謝しなければ。


 救世主と囃し立てられたのだ。ここはいっちょ、猫を助けてみせようではないか。

 できれば脚立か何か、支えになるような手助けアイテムが近くにあれば良かったけれど、そう上手く事が運ぶはずもない。自力で木登り決定だ。

 木の幹に手を伸ばし、頭上で震えている猫を仰いだ。視界は悪いけれど、樹は真っ直ぐに植わっているので、上へ上へと登り進めば問題がない。

 幸い、手にはグローブを装着しているので、木登りによって木の皮やささくれで掌を怪我する心配も要らないだろう。


 幹に腕を伸ばし、ぐっと身体を樹へと密着させた。それから、勢いをつけて地面を蹴り上げ、木の幹にへばり付く。そうして、胴の部分に脚を回して身体の安定を保つ。

 更に上で葉を茂らす太い枝に手をかけて、ゆっくりと確実に慎重な足取りで登り進めて行く。木の表面は意外と滑りやすく、つるりと足を踏み外して落ちないよう、足を一歩進めるたびにしっかりと踏ん張った。

 また、樹を登っている際、決して下を見てはならない。俺は高所恐怖症気味なので、徐々に迫り上がってくる恐怖心で足が竦み、上へと登ることを躊躇ってしまうからだ。


「がんばってー!」


 永遠の声援を背に、登って行くこと十数分。

 木登りで通常使わない筋肉を酷使しているせいか、急速に腕や足が怠くなって疲れが溜まり、息が弾んで呼吸が乱れて仕方がない。それに伴い、被り物のせいで元々悪かった視界が、吐く息でこもって更に煙って悪化する。

 初夏の陽差しも厄介だった。じっとりと背中を汗が伝い、不快さが急上昇。加えて、枝に掴まる手にも汗が滲んでしまい、滑って枝から手が外れそうになる。


 眼下に広がる景色を見られないせいで、どれほどの高さにいるのかは判断がつかないが、地上からはそれなりに距離があろう。はるか頭上で震えていた猫も間近に迫っている。

 落下しないようにゆっくりと安全に、用心に用心を重ねながら登ってきたので、予想以上に疲労が蓄積していた。


 肩で息をしながら、乱れる呼吸を整えつつ、目前で縮こまるように身を丸めた猫を見据えた。

 猫はぷるぷると小刻みに震え、恐怖で耳を伏せており、尻尾もくるんと胴に巻き付いて全身で怯えているアピールに余念がない。

 犬に吠えられ追い立てられ、無我夢中で木の上に避難してきたのだろう。必死の思いで木を駆け上がったのはいいが、どうやって降りたらいいのか分からずにさぞや心細かったはず。早く木の上から助けてあげて、安全な地上へと戻してやらなければ。

 猫の気持ちを正確に斟酌はできないが、ずいぶんと怖い思いをしているのだけは、震える様を見ていれば十二分に伝わってきた。

 片手はしっかり幹に腕を回し、もう片方の手をうんと伸ばして、猫の救助に当たろうと考える。猫の確保に成功したら、しっかりと猫を胸に抱きかかえ、木を下ってゆくつもりだった。


「あと少しだよー」


 永遠の声に顎を引き、俺は今一度、目の前で小さくなっている猫を見る。


「今、助けてやるからな」


 そうっと手を伸ばし、猫の身体を包み込むように掴み抱える。突如、摘まみ上げられた猫は身体をばたつかせ、どうにか拘束から逃れようと躍起になった。


「わわっ……危ないから静かにしてくれ」


 混乱で暴れる猫をどうにか宥めすかし、絶対に取り零さないよう即座に胸元まで引き寄せる。

 猫は未だバタバタと動き、どうにかして逃げてやろうと抵抗してくるが、圧迫はさせない程度、胸にしかと抱き締めたので、腕の中から脱走されて落下させてしまう不安は減っただろう。


 後は俺が木から落ちないように気を引き締めつつ、降りてゆくだけだと意気込んだときだった。俺は止せばいいのに、思わず視線を地面に落としてしまった。

 想像以上、木の上まで登り進めていたみたいだ。木の根元で帰りを待つ永遠と由芽ちゃんの姿が小さく映る。高さを自覚した途端、背中がぞっと粟立ち、胸の下がふっと軽くなった。

 汗が急速に引き、身体が寒さで冷える。それから間もなく、心臓がうるさいぐらいに早打ちを開始した。恐怖心が急激に湧き上がり、想定以上のどえらい高さに足が竦み、今にも痺れて動かなくなってしまいそうになる。

 だが、今の俺は小さな命を預かる身。猫を放って、ガタガタ高所に震えていては、救世主失格に他ならない。


「がんばって! あとすこし!」

「がんばって、ください……!」


 地上からは、永遠と由芽ちゃんが俺に向かってエールを送ってくれている。ここは最後まで、ふたりからの助けを完遂させなければ。

 震える足に力を入れ、静かにゆったりとした速度で深呼吸を繰り返す。一度目を閉じ、気持ちを落ち着かせたところで、徐々に降下を再開した。

 木を登っていくときの倍の時間を要しながらも、俺はどうにかこうにか猫を胸に抱き、地上への生還を果たすことに成功した。


「おにー……きゅーせーしゅ!」


 ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきたと思ったら、永遠が俺目がけて腕を広げて飛び込んできた。


「うわ、あぶない!」


 咄嗟に猫を目の高さまで抱え上げ、永遠のタックルじみた抱擁を受ける。

 ぎゅっと抱きついてきた永遠は上目遣いでもって、頭上にてぷらぷら揺れる猫を食い入るように凝視していた。


「よかった。ネコちゃん、ぶじで」


 俺は猫を永遠へと手渡した。恐る恐る俺の手から猫を譲り受けた永遠は、傍で一部始終をビックリ目を見開いたまま見守っていた由芽ちゃんの元へと駆け寄っていった。


「ほら、由芽ちゃん。ネコちゃんだいじょうぶみたい」

「ほんとだ……元気だね」


 由芽ちゃんの指摘通り、永遠の腕の中に収まっている猫は、盛んに四肢を動かして束縛から逃れようともがいており、どうしても自由の身になりたいらしい。野良猫のようだから、そればかりは仕方あるまい。

 永遠と由芽ちゃんも猫とのお別れに満足したのか、二人で顔を見合わせて頷き合ったかと思えば、同時にしゃがんでみせた。


「よし、バイバイだね。もう木にのぼっちゃダメだよ」

「元気にくらしてね。またいつか、わたしと永遠ちゃんともあそぼうね……」


 永遠が抱えていた猫を地面に降ろし、少し躊躇いがちに手を離す。

 動きを縛る手がなくなった猫は、わずかにきょろきょろと周囲を確認し終えるや、軽やかな足取りであっという間にこの場から駆け去った。お礼のひと鳴きも残さず、さっさと消えていなくなった猫の姿はもう見えない。

 永遠は唇を尖らせ「おんしらずなネコちゃんだなあ」と恨み節を吐いているが、目が笑っている。隣で佇む由芽ちゃんも楽しそうに相好を崩していた。

 無事に猫は救助できたし、ふたりも幸福そうに笑っているので良かった良かった。


 俺の手助けも少しは役に立ったのかと、ほっと胸を撫で下ろす。あまりの高さに身が竦み、恐怖心で震えてしまった点は反省すべきだが。

 しばし、ふたりで笑い合っていた永遠が、俺の存在にようやく意識を向けてくれたらしい。

 はっと目を見開いて、可愛らしいお辞儀をひとつ。つられたように隣の由芽ちゃんも、永遠に続いて頭を下げてくれる。


「きゅーせーしゅ、ありがとう!」

「ありがとう、ございました……その、救世主さん?」

「あっ、そうだそうだ。由芽ちゃん、あのね、きゅーせーしゅには、ちゃんとした名前があってね」

「あ、そうなんだね。本名は救世主さんって名前じゃないんだ」


 うんうん、と由芽ちゃんに向けて頷いていた永遠は、今度は俺を見上げて、ちらりと目配せしてきた。由芽ちゃんへと、名前を開示していいのか、無言でお伺いを立てているのだろう。

 俺は首肯し、永遠へと承諾を返す。この場合、俺が名乗りを上げていいのだろうか。逡巡していたら、永遠が由芽ちゃんへと口火を切っていた。どうやら、妹が口上を述べてくれるようであった。

 ここはひとまず、永遠に任せた方がいいだろう。永遠は張り切った様子で、口を開いて楽しそうに声を出す。


「あのね、きゅーせーしゅの名前はね――……」

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