第8話「初デート準備 髪型編」
駅ビルでの買い物を終え、そのまま家路に就くものだとばかり思っていた。だがしかし、俺は未だに真実から解放されていない。
「無理無理無理! 美容室に行くなんて聞いていない!」
「だって言っていないもん。でもね、お兄ちゃん。ちゃんと予約しているから大丈夫。だから、店に入ろ?」
「嫌だぁー!」
「ああ、もう! 観念しなさい!」
真実行きつけだという美容院は、駅ビルからほど近くの大通りに店を構えていた。
小洒落た外観や、掲げられた看板に書かれた読める気のしない外国語の店名を目の当たりにし、俺は瞬時に悟っていた。場違い甚だしいこと、身の程知らずなこと、敷居を跨ぐのさえ躊躇することを。
散髪で普段利用している店は近所の理髪店であり、頼んでいるのも千円カットだった。髪型に関して、無頓着極まりない俺が入店して良い場所ではなかった。
しかし、真実も引き下がらない。及び腰の俺の後ろへ回り込むと、背中をぐいぐいと押しやって入り口へと無理矢理、前進させやがった。
店の玄関に立って、俺はようやく気付く。さすがオシャンティーな店、何と大通りに面した壁は前面ガラス張りで、いやに開放的な空間が広がっていた。
店内がよく見え、現に今もカットを施されているご婦人の姿が目に入った。つまり、店の中が外から丸分かりということは、店外の様子もばっちり目撃されているわけで、俺と真実がさきほどまで繰り広げていた押し問答も全て露見していたことになる。
唖然としたまま玄関口に棒立ちしていれば、程なく扉が開いて店員さんであろう女性がにこやかな笑みを浮かべ、俺たちを快く迎え入れてくれた。
「いらっしゃいませ。大丈夫よ、取って食ったりしないから。安心してくださいね」
にっこりと完璧な接客スマイルを輝かせる店員さんの口振りからして、もしかしなくても絶対に、俺たちの攻防をしばらく傍観していたに違いなかった。
先の俺の醜態を思い返し、顔から火が出そうだった。敵前逃亡を試みたいが、前門の美容師、後門の妹。俺に逃げ場なんぞとうに失われていたのだった。
笑顔が眩しいばかりの店員さんに導かれ、天井から注ぐ照明と窓から差し込む日光で明るい店内を怖ず怖ずと進み、空いていた席へと通される。
見渡す限り、施術を受けている客は女性ばかり。もしや、男性客お断りの店だったのではと焦るも、店員さんは全てを見透かしているかのように笑顔を深めて、こともなげに言う。
「弊店、メンズオッケーですから、そう怯えなくても大丈夫ですよ」
「そうなんですね……」
消え入る声量で言葉を返し、店員さんの傍らに何故か佇んでいる真実を鏡越しに見やった。
玄関入ってすぐにソファとテーブルの置かれた待合室のようなスペースがあり、そこで腰を落ち着けて待っていればいいのに。もしくは、哀れな兄貴を捨て置いて、散髪が終了するまで近辺にて買い物でもすればいいのに。
いや、心許ない不慣れな美容室に俺だけ残して、真実には出て行ってほしくないのが本音ではあるのだが。
俺の不審な視線に気付いたのだろう。真実は俺から目を逸らし、隣の笑顔が素敵な店員さんへと向き直ると、急に口を開いて喋り出す。
「
「ええ、心得ておりますよ。お兄さんの初デート成功のお手伝い、ご尽力させていただきますね」
とうの兄を差し置き、和やかに交わされる会話たち。
俺は笑顔の店員、馬場さんと真実の顔を交互に見やり、文句の一つでも言ってやろうとしたが、ふたりの話す内容にケチをつける箇所などどこにもなかったので、やり場のない鬱憤は胸にそっと仕舞って俯いた。
「さて、長さなど如何いたしましょう? なりたいイメージはございますか? よろしければヘアカタログをお持ちしますよ」
「そうですね……清潔感があって、なおかつ爽やかな雰囲気にできますか? 難しい注文ですけれど」
張本人が答えるべき馬場さんの問いかけにも、真実が差し出がましくペラペラ応じており、俺は怒っていいのか感謝していいのか判断に困った。
ただ、俺が理髪店で告げたことのある注文なんて、短めに整えてください程度しかなかったので、詳細なイメージを正確に伝えられるはずがない。
ぜひ、このまま真実と馬場さんのふたりで、俺の髪型を決定してやってください。
「でしたら、髪の毛の量を全体的に減らしまして、長さもある程度短くいたしましょうか。お兄さん、スタイリング……髪のセットは毎朝やられています?」
ふいに馬場さんに話を振られ、油断していた俺は案の定、返事に窮する。
不甲斐ない兄を見かねたのか、すぐに真実が助け船を出してくれる。
「寝癖を直すぐらいでしょ、お兄ちゃん。それも水で、ちゃちゃっと跳ねている箇所を濡らすだけ」
「でしたら、ヘアアイロンやヘアワックス、ムースの類いはお持ちになっていないですね」
「ですね」
ふむ、と頷いた馬場さんの質問の意味が分からずに目を白黒させていると、俺の困惑を即座に感じ取ったのか、馬場さんは付け加えるように説明してくれた。
「そうしますと、忙しい朝でも簡単にセットできる髪型が安心でしょうね。ですが、毛先に流れをつけたり、髪の毛を立ち上げてふわっと軽い印象にできたりと、おひとつでもヘアワックスを持っていたら、色々と動きもつけられますし重宝しますよ」
「それもそうかも。じゃあ、馬場さん。後でお兄ちゃんにワックスの付け方、レクチャーしてやってください」
「承りました。お任せください」
何やら俺の理解が及ばないところで、着々と話が進んで恐ろしくなった。
髪型なんて寝癖で跳ねてなきゃいいだろう、とろくに気にせず生きてきたため、聞こえる単語が未知なる言語に思えて仕方がない。無知がバレないようにも、俺は口を噤んで大人しくしていた方が賢明だ。
シャンプー台に連れて行かれ、これまた笑顔が印象的なアシスタントと思われる年若い女性店員さんから、やけにいい匂いのするシャンプーで丁寧に髪を洗ってもらい、再び鏡の前の椅子へと戻る。
現在はアシスタントさんと馬場さんが髪を乾かしており、これからカットが始まるらしい。髪型一つで見違える変化はないだろうが、確実に言えることがあるとすれば千円カットより仕上がりの期待はできる。
「それじゃ、お兄ちゃん。あたしはソファに座って、雑誌でも読んで待っているね」
「真実は髪、切らなくていいのか?」
「先週、トリートメントしてもらったから大丈夫」
ひらひらと手を振って、真実はソファの置かれた待合場所へと引っ込んだ。真実が店内にいてくれる、ただそれだけで安心感がまるで違う。
燦々と明るくて、やたらめったら良い匂いのする空間に俺ひとり残されたら、孤独感に苛まれて発狂しただろうから妹の気遣いに心底感謝した。
兄貴としての面目は丸潰れだが、初っ端に披露した俺の醜い抵抗を美容室の方々にはすでに知られているのだから、もはや恥も外聞もなかった。馬場さんは軽やかにハサミを操りながら、楽しげで人懐こい笑みを零す。
「仲良しなんですね、妹さんと」
「い、いやぁ……どうなんですかね」
「お休みの日に一緒に来店されるなんて、仲が良くないとできませんよ」
それは単に真実が、お洒落に疎い兄貴が心配なだけだ。今日の目的のひとつであった買い物だって、俺が真実に泣きつかないと実現しなかったし。
兄妹仲が悪くないのは事実だけれども。
「デート、成功したら良いですね」
本当にそう思いたい。シャキシャキと小気味よくカットされ、徐々に嵩の減っていく髪をぼんやりと眺めながら、俺は本心から願った。
ここまで事前準備して、無様な結果に終わる未来を想像したくはなかった。努力は報われてほしい。
「おお……! すっきりしたね」
それから小一時間後。カットとヘアセットが完了した知らせを受け、真実が俺の座る席までやって来て、しきりに感動していた。
うんうんと頷き、馬場さんに向かって「さすがです」と賞賛の言葉をかけてもいる。
真実の感動同じく、俺もまた自身の変わり様には結構驚いていた。
たかが髪型ひとつで見違えることはないだろうと侮っていた節があったが、ぼさっと膨らんでだらしなく伸びっ放しだった髪の毛が短く揃えられ、きっちりとセットも済ませて綺麗に整えられるとなかなか印象も変化していた。
馬場さんが素人も素人たる俺でも理解できるよう、懇切丁寧にレクチャーしてくれたワックスでのスタイリングも相まって、毛先は適度に動きがついてシャープな流れを作っている。
ぱっと見、陰鬱とした冴えないキモオタとは捉えられないだろう。これで真実が殆ど全て選んだ服を着て、初デートに向かっても、佐藤さんからドン引かれない自信はついた。
「いかがでしょう? どこか気になる点はございますか?」
「いえ、全然ないです。大満足です。ありがとうございました」
「あたしからもお礼を言わせてください。野暮ったくて、正直見ていられなかったお兄ちゃんがここまで変われたのも、馬場さんの凄腕のおかげです。ありがとうございます」
「変身のお手伝いをできまして、こちらも光栄ですよ。また不明点やご不満等ありましたら、お気軽にいらっしゃってくださいね」
支払いを済ませ、笑顔が太陽みたいに眩しい馬場さんに見送られ、俺と真実は頭を下げて何回も会釈をしながら店を後にした。
「美容室、行って正解だったでしょ?」
「こればっかりは認めざるを得ないな」
「ふふん。いつになく素直じゃない?」
勝ち誇った笑みを浮かべ、ふんぞり返る真実は癪だったが、せっかくの休日だっていうのに一日中、兄の買い物やら散髪に付き合ってくれた功績は計り知れなかった。もう、アイストリプルでは返済しきれない恩ができた気がする。
「真実、色々サンキューな」
「いいってこと。ただし、これだけ頑張ったので、ちゃあんとデート成功させてよね?」
もちろんと頷きたいのは山々だったが、見た目がどれだけ変貌を遂げても内面の成長は怪しいものだった。外見の変化によって自信は多少なりともついた。
しかし、デートを上手く運べる技量は、一朝一夕では身につかないものだ。だから、今から俺にできることと言ったら、少しでもデートの情報を仕入れることぐらいしか思い浮かばなかった。
プランはおんぶにだっこで申し訳ないのだが、全て佐藤さんが立ててくれているらしい。出向く場所は初デートの定番、映画と教えてくれていたものの、何を観るとか映画鑑賞後の計画までは明かしてもらっていないのだ。
未知なる領域に挑むのだから、保有情報は少しでも多いに越したことはない。けれども、当日をお楽しみにと佐藤さんから返事をされたら、俺はもう何も言えないのだ。
なんせ、恋愛経験が皆無なのだから、どういった反応を返していいのかも分からない。つくづく、俺の情けなさや世間知らずには嫌になる。
自信だって、仮初めでは決してモノにはできないと肝に銘じて、初デートに備える他なかった。
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