第6話「妹の懸念」
それからの日々は、特筆すべき点はあまりない穏やかな時間が過ぎた。
教室では隣の席だから毎日話すし、帰宅すればスマホにメッセージが律儀に届いていた。毎晩、文字でもやり取りを重ね、時には通話をして言葉を交わした。
何気ないけれど、心が躍る毎日だった。彼女がいるって幸せだなあと、弛緩しまくっていた四月の終わり。ゴールデンウィークを間近に控えたときのこと。
「新留くん、ゴールデンウィークの予定ってもう決まっている?」
HRが終わり、帰り支度に勤しんでいた。俺と同じようにカバンに教科書類を詰め込んでいた佐藤さんから声をかけられる。
さっと周囲に視線を巡らすも、クラスメイトは誰も俺たちに注目している者はいなかった。それでも声のトーンは抑え気味に、俺は佐藤さんへと返事をする。
「家族と近場に出かけるぐらいで、他は特に……」
人で混み合うゴールデンウィークに進んで外出するなんて馬鹿げているが、下の妹がみんなで遊びに行きたいと願うなら家族全員、喜んでお供をするのは当然の理としている。
そういうわけで、両親の休日が合う日取りにでも、家族全員揃って出かけようと話をしていた。
佐藤さんはさぞや休みの予定が詰まっているだろうと、どこか他人事のように彼女の様子を窺っていれば、何やら急にそわそわと落ち着かない素振りを見せ始めたのだから、俺の脳内に危険信号が点った。
これは危ない、逃げないととカバンを肩に掛けて敵前逃亡を仕掛けようとした矢先、佐藤さんが意を決したように口を開く。
「……だったらデート、しよう?」
わあああっ! 恐れていた誘い文句が目の前に! 恋人同士ならデートに赴くのは、当然ごく普通の成り行きだ。
しかし、俺はその普通が未知数なのだ。何せ、ついこの間まで彼女いない歴年齢だったのだから。
「えっと……どうかな?」
佐藤さんは恥ずかしそうに前髪を指で整えながら、上目遣いを駆使して俺の返答を促してくるが、頭の中に混乱渦巻くパニック状態で適切な言葉を返せる気がしない。
「その、ああっと……う、うん」
「おっけー?」
「イエスイエス、ノープロブレム」
動揺のせいか、突拍子もなく口を衝いて出た片言英語で応じると、佐藤さんは相好を崩して大きく息を吐いた。
「よかったぁ。緊張していたの。それに、断られたらどうしようって怖かったし」
「いや、断るなんて滅相もない」
「ふふふ……本当に?」
不敵な笑みを浮かべる佐藤さんへコクコクと首を縦に振り、内心の躊躇いを悟られぬように躍起になった。
彼女との初デート、ここは大いに喜び浮かれるところなのだろう。間違っても嫌な顔や面倒な口振りを見せてはいけないことだけは、俺であってもちゃんと理解している。
佐藤さんがそれじゃあ早速と身を乗り出して、デートの詳細を詰めようとした矢先、
「千晴-! カラオケ、行かないの? もう皆、昇降口に向かっているけれど?」
教室の出入り口から彼女を呼ぶ声がした。振り向いて声の主を探ると、内山さんが佐藤さんへ手招きをしている。
俺は傍らの佐藤さんに視線をやり、早く行けばと目配せをした。しかし、なぜか佐藤さんはしきりに目を泳がせ、その場から動こうとしない。
「友達、呼んでいるよ。他のひとも待っているみたいだし、早く行った方がいいんじゃない?」
「でも……」
「千晴-?」
最初は急かす口振りだった内山さんも佐藤さんがあまりに動かないものだから、今度は隣の俺を胡乱な目つきでじろじろと見始めた。
まずい。このまま佐藤さんに居座られては、不信感を強めているであろう内山さんに、俺との関係を追求されかねない。
俺は制服のポケットに突っ込んでいたスマホを取り出し、佐藤さんにだけ見えるようそっと掲げてみせる。
「帰ったら連絡するから。そのとき、デートのことは話し合おう」
「……うん! ありがと、新留くん。電話待っているね」
さっきとは打って変わり、晴れ晴れとした表情で内山さんの元へと駆け寄る佐藤さんを見送り、俺はあれと眉根を寄せた。
どういうわけか、俺から連絡、しかも電話をかけることになっていた。いつもは佐藤さんが連絡を寄越し、会話がスタートするのが常なので、これは困ったことになった。
デートというだけでも荷が重いのに、果たして俺は佐藤さんへと電話することができるのだろうか。
「おにーちゃん、寝っ転がってる。具合悪いの-?」
夕飯も食べ終え、各自風呂に入ったり、テレビを観たりと自由に過ごす時間。
俺はリビングのフローリングで横になっていた。端から見たら、顔色の悪さも相まってゾンビかもしくは屍のよう。
兄の醜態を見かねたのか、下の妹である
むっくりと身体を起こし、近くのソファに何とか寄りかかる。
ソファの端には上の妹である
直接注意はしてこなかったが機嫌を損ねているだろうから、これ以上騒がしくはしないようにしなければ。心持ち声を潜めて、永遠へと返事をする。
「いや、大丈夫。元気だ、元気……」
「ほんと?」
尚も不安そうにこちらを窺うので、手招いて膝の上に乗せてやれば遊んでくれると解釈したのか、永遠の曇った表情も笑顔に様変わりしたようで何よりだった。
もっとも、俺の心は全く晴れやかではないのだが。知らず知らずのうちに溜め息が零れ、「あっ」と声を上げるが後の祭り。
永遠はもちろん、真実まで読書を中断して俺の方をじいっと凝視していた。こんなことなら、自室にこもってベッドの上に丸くなっているべきだった。家族の集まるリビングで、不調アピールなんぞするものではない。
「お兄ちゃん、鬱々してウザい」
読書を再開した真実がページを捲りながらも、エグいひと言を放ってきたので、心がざっくりと傷ついた。
しかし、真実の指摘は正鵠を得ている。俺がかまってちゃんオーラを漂わせていることこそが問題なのだ。
「うっ……それはごめんなさい」
「何? 困りごと? HDDに録画溜まりすぎて、昔のヤツが消えちゃった? Blu-rayかDVDに焼けってあれほど言ったじゃない」
「その節はご迷惑をおかけしましたって……掘り返さなくてもいいだろうが」
「あのときも結構しょげてて、面倒くさかったから。思い出しただけ」
あの日の失態には涙を呑んだ。何度も観返していた話が消えてしまい、数日は塞ぎ込んでいたと思う。
のちにお小遣いをはたき、DVDボックスを買ったのも今や良い思い出だ。
「じゃあ、何に参っているの? あたしも力になれる?」
真実は表面上、ドライでクールな振る舞いを見せるが、本当は兄思いの優しい妹なのだ。
直接言えば、確実に「キモい。自意識過剰も大概にして」とかなんとか、速攻でえげつない反撃を食らうので、黙って感謝しておくに限る。
「……デートに着ていく服がない」
「でーと?」
「で、で、デート!?」
きょとんと俺を不思議そうに見上げる永遠、そして驚愕のあまり目を見張って絶句する真実。対する俺は、妹にする相談じゃないなと今更後悔の念に駆られていた。
「……誰とデートするの? 小野田さん? それとも堤さん?」
「は? どうしてアイツらの名前が出てくるんだよ。普通に女子とだ」
「はい、ウソ。お兄ちゃんが女の子とデートなんて想像つかない。あ、妄想でしょ」
「あのなあ……俺にだって、浮いた話のひとつやふたつあるんだよ」
「独り身拗らせて、とうとうおかしくなっちゃったか。お兄ちゃん、可哀想。ゴールデンウィーク、暇ならあたし、付き合うよ? 気晴らしに遊びに行こう? メンタル、ケアしよう?」
真実は俺が女子とデートだなんて、まるきり信じちゃいないらしい。
まあ、生まれて今までずっと俺に女の影がなかったことを、一歳違いの妹である真実は近くで見てきたからよく熟知している。むしろ、信じる方が難しいかもしれない。
「デートって、永遠知っているよ。こいびと同士でするんでしょ? おにーちゃん、彼女できたの? おめでとー」
ぱちぱちぱち、と小さな手で気の抜けた拍手をしてくれる永遠は、真実と違って純粋無垢だった。ずっとこのまま素直に成長してほしい。
俺は「そうだよー……」と半ば捨て鉢になりつつ、永遠の頭を撫でながら乾いた笑いを上げた。
お兄ちゃん、恋人ができたんだよ。でも、いまいち本当かどうか、信じていいか分からないんだよ。今も嘘でしたーってバラされる恐怖に怯えているんだよ。
「画面の向こうにいる平面の恋人は、現実世界に出てきてはくれないからね、お兄ちゃん」
やけに深刻な声音で忠告する真実をここいらで黙らせるため、俺はフローリングに放りっぱなしのスマホを拾い上げ、アプリをひとつタップした。
それはカメラで撮った写真が保存されているフォトギャラリーで、直近の写真をひとつ画面に表示させ、真実へとご印籠よろしく自信一杯に見せつけた。
「俺の隣にいる人が、か、か、彼女だ」
「……何でそこで言い淀む」
「慣れない単語だから。舌が回らないんだ、放っておけ」
真実は真剣な顔つきで、じっとスマホ画面を注視する。隣で「永遠にも見せて見せて」と跳ねる永遠にも画面が見えるように、ソファに座り直しながらも、真実の視線はスマホから離れない。
「……盗撮?」
「人聞きの悪い。そもそも盗撮で撮れるアングルじゃないだろ」
画面に映るのは、俺と佐藤さんが隣り合っている構図だった。佐藤さんが撮ろうとけしかけ、自撮りの要領で撮ってくれたのだった。
密着しないと画面に収まらないとかで、やけに至近距離で並び立ったことだけを覚えている。
いや、佐藤さんから香る甘い匂いとか、佐藤さんの艶やかな髪の毛が首筋に触れて感じたくすぐったさなんて、別に何にも覚えていませんからね!
「だったら、合成だ」
「おい」
「かわいーこだね、おにーちゃん。彼女の名前はなんて言うの?」
ひねくれた思考の真実とは異なり、永遠は好奇心のまま、てらいのない質問を繰り出してきた。
顔まで開示し、名前を告げないのも変なので佐藤千晴さんだよと教えれば、続いてどんな字を書くのかと、テーブルに置かれたブロックメモとペンを永遠が俺にぐいぐい押しつけてきた。
「佐藤、千晴……千晴おねーちゃんだね。永遠、覚えたよ。おにーちゃんのおよめさんになったら、新留千晴になるんだね。こっちの方がいいカンジ!」
わあ、発想の飛躍が凄まじい。さすが小学生女児。将来なりたい職業はお姫様、もしくはプリキュアと夢見る永遠らしい考えに俺はもう、ただただ閉口するしかできなかった。
「……それで、デートに着ていく服がないってどういうこと? お兄ちゃん」
真実が脱線した話題を戻すように、俺が頭を悩ませている目下の困りごとについて、改めて尋ねてくれた。
「俺の今現在、持っている服はどれもこれも、デートに着て行けそうな戦闘力を持ち合わせていない」
「なにそれ……」
クローゼットを開け、タンスを引っかき回し、持っている服をあらかた探して見てみたが、初デートに着ていくような洋服はついぞ発見できなかった。
そもそも、色の比率が黒に偏りすぎていた。無難だからと、ついつい黒を選択しがちなオタク特有の服選びの弊害がここにきて、大いに影響を及ぼしている。
「助けてくれ、真実。お兄ちゃんは恥を掻きたくない」
「えぇ……助けてって言っても……あたしに何ができるわけ?」
「ほら、真実はファッション好きだろ?」
真実の趣味は手芸に裁縫、工作やお絵描きであり、将来は服飾関係の仕事に就きたいらしく、自分で服を縫ったり既製品を手直しして見栄えを良くしたりと、大層手先が器用なのだった。
そういうわけで、ファッションに対しては造詣が深いと踏み、妹に恥を忍んで打診してみたわけなのだが、真実は俺の頼みを受けて渋い顔をしている。
「男の人の服はそんなに分からないよ?」
「でも、俺より何倍もファッションセンスはあるだろ?」
「そりゃあるよ。見くびらないで」
真実はふん、とそっぽを向いた。プライドを傷つけてしまったらしい。気難しい奴なのだ。
しかしまあ、助けてくれと言葉だけの懇願ばかりをするのは無礼だろう。ここは餌で釣るのが得策か。
「何も無償で手伝いを頼むわけじゃない。真実、アイス食べたくないか?」
「……トリプル?」
「えっ、ダブルじゃ駄目か?」
「三段重ね、コーンはワッフルコーンで手を打つ」
何と贅沢な。だが、アイスクリームを奢るだけで妹の助力を受けられるのだ。安いものだと思っておこう。真実の要求に重々しく頷いた。
「一度、お兄ちゃんのクローゼット見せてね。それで、使えそうなヤツを選別して、それから必要なものを買い足そう。買い物にはあたしも付き合うし。デートの日取りはまだ余裕ある?」
「……大丈夫だ。悪いな、付き合ってもらって」
「別に、お兄ちゃんの頼みだもの。優しい妹ですからね、喜んで引き受けるのはとーぜん」
にしては、アイスの要求がえらく豪華だった気もするが。
しかし、真実には常日頃から色々と手伝ってもらっているので、お礼の意味も込めてアイスなり何なり献上すべきだったのだ。
服は真実に助けてもらうとして、初デートに関する懸念事項は山ほどあった。当日までに、少しでも悩みの種を取り除いておきたいが、そう猶予があるわけでもない。ゴールデンウィークは目の前だ。
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