第2話「体育館裏にて」

「失礼しました……」


 担任の説教は案外、短時間で終了した。ただし、精神的疲弊は結構なものがあり、俺は数分間で異常に疲労困憊していた。

 職員室の戸を閉め、重い足を引きずって廊下を歩き出す。 


 担任の教師は遅刻に対してはもちろん、俺の日頃の行いについても、ねちねちと小言を言い放ってきた。

 いわく、積極性がなく協調性がないのは如何なものだとか、取り立てて特出したものもないくせに、授業に遅刻して学生の本分である勉学にも真面目に取り組まないのは学業を馬鹿にしているだとか。

 反駁したい気持ちはあったが、ここで俺が担任に歯向かっても説教が長くなるだけで、いっそう疲れることは目に見えていたので自重した。

 しおらしく頭を下げて謝意を示せば、担任も一応は納得したようで解放と相成った。


 こんなところで休み時間を浪費しているわけにはいかないのだ。何て言ったって、俺には使命があるのだ。机の引き出しに届いたラブレターを熟読するという命が。

 今すぐにでもラブレターの封を開けたい衝動に駆られるが、職員室の前で狂喜乱舞するだなんて、再び説教の刑を食らうのが目に見えている。


 俺は手身近なトイレを探し、男子トイレの個室へと飛び込んだ。

 ズボンのポケットに仕舞っていたラブレターをそろそろと取り出し、ハートのシールを慎重に剥がす。

 そして、封筒の中に指を差し入れ、愛の告白が綴られているであろう便箋を引っ張り出そうとした。


「……は?」


 だが、目に飛び込んできたのは、やけに墨痕淋漓な「果たし状」の文字。可愛い封筒の中から無骨な果たし状が出てきて、俺は大いに困惑した。

 戸惑いながらも、果たし状の封を切り、今度こそ白い便箋が中にあった。三枚折りにされた紙を開ければ、無駄に達筆な毛筆の文字が並んでいた。


「放課後、体育館裏で待つ……?」


 書かれていたのはそれだけ。愛の告白はおろか、差出人の名前もなかった。

 ここまでくれば、俺も騙されたことぐらいは理解した。

 だが、どこの誰が俺をからかったのかは皆目見当がつかない。そもそも、恨みを買われるほど、俺は学校内で存在感のある人間ではない。


 それに、この悪戯は失敗したのではなかろうか。

 きっと、仕掛けた相手は俺が教室で封筒を開け、露骨にがっかりする様を遠くから眺めて嘲笑したかったに違いない。

 しかし、俺は教室から離れたトイレの個室でこれを見ている。


 いや、真の目的は放課後の体育館裏にあるのかもしれない。

 馬鹿みたいに浮かれた俺がノコノコと体育館裏に現れ、差出人の女の子をソワソワと待ちくたびれる様を遠目に、腹を抱えて笑い転げる算段だったのやもしれぬ。

 俺もそこまでアホじゃない。馬鹿正直に指定された場所に行くはずがないだろうが。

 トイレを出て、教室まで戻る。幸いにもまだ休み時間は終わっておらず、俺は気落ちしながら椅子を引いて、どっかりと座り込んで大いに嘆息した。


「新留くん、どうしたの?」


 すると、俺の溜め息を耳にしたのか、隣の席から遠慮がちな声がかかる。伏せた顔のまま横目で見やれば、佐藤さんが気遣わしげに俺を窺っていた。

 きっと、職員室での説教で俺がダメージを食らったとでも思っているのだろう。だが、俺の傷心の理由はそれだけじゃない。


「……どうもしない」

「そう? 顔色が悪いようだけど、大丈夫?」


 今は彼女の心配が胸に痛かった。つい先ほど、誰とも知らぬ女子から受けた仕打ちで、女の怖さが身に沁みており、全ての女子に恐ろしさを抱いてさえいた。

 いや、果たし状の差出人が女子とは限らないのだが。もっとも、封筒に書かれた俺の名は、女の子らしい丸く小さな文字で書かれていたけれども。


「大丈夫だから」

「……ほんと?」


 こくりと頷き、俺はもう会話はお終いだとばかりに机に突っ伏した。

 佐藤さんには悪いが、授業が始まるまではこのままで居させてほしい。というか、授業中も眠っていたかった。


「具合悪かったら、一緒に保健室へ行こうね? あ……差し出がましくて、ごめん」


 労しげな佐藤さんの声が耳に入ってくるけれど、俺は反応を返せなかった。

 担任の人格批判とも取れる説教に続いて、悪戯目的のラブレターとくれば、俺だってさすがに堪える。

 今朝方、おばあさんを助けたことは善意とか親切心とかの前に、半ば反射的に助けなければと動いただけで、特に見返りは期待していない。


 だけど、今日の俺に返ってきたのは、災いみたいなものだった。

 少しぐらいは、良い気分に浸れる思いをしても罰は当たらないだろうに。いや、こんな期待を抱いているからこそ、ろくでもない目に遭ったのかもしれないが。

 はあ、と大袈裟な溜息を吐いていれば、始業開始のチャイムが鳴った。


 憂鬱に脳内を支配され、嘆息した回数がゆうに五十を超えた頃、気付けば放課後になっていた。今日は部活の日でもないので、さっさと帰るに限る。

 ゲームショップに立ち寄ろうと云う友人からの誘いを断り、着々と帰り支度を済ませた俺は、脇目も振らずに教室の出入り口を目指した。

 放課後特有の喧騒で溢れる廊下を足早に進み、あっという間に昇降口に辿り着く。人波を縫って下駄箱の前に立ち、上履きからスニーカーへと靴を履き替え、勢いそのまま学校を後にしようとしたときだ。


「新留くん、待って!」


 思わぬ声で名前を呼ばれ、怪訝な面持ちのまま振り返ると、息を切らした佐藤さんがいた。

 どうやら見たところ、荷物も持たず教室から走ってきたようだ。俺を追いかけてきたのだろうか。

 昇降口に並ぶすのこの上を駆け抜け、上履きのまま俺の目前まで走り寄って、佐藤さんはようやく停止した。


「えっと……何か用?」

「あ、そのね、用ってわけでもないけれど……新留くん!」

「は、はい……?」


 佐藤さんは急に言い淀み、視線を宙に彷徨わせて、胸の前で手を組んだり解いたりを繰り返し始めた。

 何やら躊躇しているらしく、唇をパクパクと開閉して思い悩んだ表情でいたかと思えば、ふっつりと押し黙る。


「あの、用がないなら俺はもう帰るから、その」

「あっ、待って! 今日は……このまま帰っちゃうの?」

「そうだけど」

「そう、なんだ。放課後の予定はないの、かな……?」


 伏し目がちに問う佐藤さんに再度「そうだけど」と返せば、彼女は分かりやすく眉根を下げた。

 俺を呼び止めた佐藤さんは一体何をしたいのか、依然として分からない。


「何だか、その……らしくないね」


 通常の佐藤さんであれば、明朗快活に発言するし、奥歯にものが詰まったような違和感のある話し振りはしない。

 あまり関わり合いはないが、数少ない会話のやり取りでも、言葉はきっちり伝えてくる人だと知っていた。

 だから、今の佐藤さんは不可解そのものだった。俺なんかに何を躊躇うことがあるのだろう。


「……慣れないことをしようとしているから、緊張しているのかも」

「慣れないこと?」

「うーん……慣れないというより、初めてというか……」


 えへへ、と佐藤さんははにかみ、じわりと頬を染めた。その表情には照れや恥じらいが感じられ、妙に心が浮ついて動揺した。

 鼓動が速くなると同時に、俺の頭脳が加速的に冴え渡る錯覚を起こした。

 佐藤さんのおかしな言動と、机に突っ込まれていたラブレター……いや、果たし状のふたつが結びつく。


 そうして俺は、脳内で生まれた発想を何度も否定した。もしかして、いや、違うに決まっている。

 しかし、佐藤さんの挙動不審ともいえる様子を鑑みるに……だけど、これは想像の飛躍が過ぎるだろう。

 もしも、の仮定が間違っていたら、また意気消沈するのだから、馬鹿げた期待は抱くなと自分自身へ忠告してみるのだが、期待は膨らむばかりで、胸に溢れ出るのは言い知れぬ高揚感。


「あのさ、変なことをひとつ、お願いしてもいい?」


 俺は肩にかけた鞄を開け、適当な授業用ノートを取り出すとページを開いて、一緒に手にしたペン諸共佐藤さんへと渡した。


「俺の名前、書いてくれないかな」

「え……? 新留くんの名前? フルネーム?」


 戸惑う佐藤さんに頷きで返事をし、俺はお願いすべく頭を軽く下げた。

 佐藤さんは困惑を隠し切れていなかったが、俺の差し出すノートとペンを受け取る。そして、少し書きにくそうにノートへとペンを走らせた。


「あの、これでいいかな?」


 白いノートのやや上部に書かれた漢字四文字を確認し、俺は殊勝に首肯した。

 女の子らしい丸く小さな文字。ラブレターの封筒に記載されていた俺の名と瓜二つの筆跡だった。

 心臓の早打ちは更に速さを増している。検証を行い、確信を抱いたのだから宜なるかな。しかし、佐藤さんを前にして、狂喜乱舞するのは早計という他ない。


「えっと……あのさ、佐藤さんは放課後の予定、あるの?」

「……うん、ある」


 唇を引き結び、神妙に頷く佐藤さんと対峙し、今すぐここで謎極まるラブレター……果たし状の真意を尋ねたかった。

 だが、ここは昇降口。差出人より指定されたのは、放課後の体育館裏だった。


「俺、用事をひとつ思い出した」

「え?」


 目を見開いて暫し固まる佐藤さんに、俺は余裕ぶって、実のところきっとぎこちない限りだったろうが、ヒラヒラと手を振って玄関口へと歩いて行く。


「じゃあ……また」


 明日ではなく、すぐにだろう。


 そのまま体育館裏に直行しそうになったが、ひとりでずんずんと歩いているうちに、舞い上がった思考もいくらか平常時に戻る。

 俺は散々ラブレターと称しているが、もらったのは果たし状だ。好きの言葉は手紙のどこにもなかった。ただ単に放課後、体育館裏で待つと書かれていただけなのだ。


 体育館裏でなされるのが、果たして告白だろうか? 

 果たし状であるならば、行われるのは決闘ではないか。だが、俺と何で決闘するのか分かりやしない。いや、告白だってどだい可笑しな話ではあるけれども。

 それに、俺はまだ疑ってかかっているのだから。愛の告白だと信じ切った俺がのこのこやってくる様を、陰からあざ笑うイタズラではないのかと。


 彼女はそこまで底意地が悪い人種には見えないが、ごく浅い付き合いしかしていない身で何が分かるというものか。隠している本性なんて、そう簡単に見えるはずがないではないか。

 けれど、期待は膨らむばかりで萎まない。ぬか喜びが一番辛いだろうにと、緩む頬を元に戻すべく一度立ち止まる。

 締まりのないだらしない表情を引き締め、俺は体育館裏へと歩みを進めた。


 体育館からは部活に勤しむ生徒たちの声がかすかに聞こえてくるが、物置や掃除用具入れに、今はすでに利用されていない焼却炉が佇む体育館裏は人気もなく、ひっそりとしていた。

 果たし状の主はもちろん到着していない。先に着いてよかったのだろうかと、俺は周囲に落ち着きのない視線をそわそわと巡らせた。

 誰かが潜んでいる気配は感じない。ドッキリでしたーと、お仲間さんたちが雪崩れ込む最悪の想定はしないで済みそうだ。


 高鳴る心臓を押さえつけながら、俺ははたと思い至る。仮に愛の告白だったとして、俺は「はい」と承諾するつもりなのか。

 今からやってくる相手を想像し、一瞬で冷静さを取り戻した。彼女と俺が交際する、不相応にもあまりあった。万が一にも、相手が問題ないと言ってもだ。周りの反応を想定し、たちどころに血の気が引いた。


 ありえない。ありえない。誰も納得しない。誰も祝福しない。まるでジョークのような光景だ。

 あまりの顛末に、思わず頭を抱えそうになった。身の程知らずにはなりたくない。俺は現状維持で十分だし、高望みは望んじゃいない。自分の地位ぐらい自覚している。教室の隅っこにて、仲間同士で陰々滅々と暗く盛り上がっている人間なのだ。

 だから、俺がクラスのヒエラルキー上位者たる女子と、釣り合いが取れないことぐらい重々知っている。

 今なら、逃げ出せるだろうかと、慌てて踵を返すべく、スニーカーで地面を蹴ろうとした間際。


「新留くん。良かった、来てくれた。ありがとう……」


 視界のど真ん中に佐藤千晴を捉えてしまう。ああ、逃げられない!

 青い顔をして小刻みに震える俺とは対照的に、ほんのりと頬を朱に染めて恥じらう佐藤さんは小さな歩幅で駆け寄ってくると、少し芝居がかった調子で目の前に立ち止まる。

 足先をきちんと揃え、すっと胸に手を当て、ゆっくりと深呼吸をする姿は決意の表れが見て取れた。今更遁走できるはずもなかった。


「今日は朝、いつもよりずっと早起きだったの」


 目と鼻の先に佇む佐藤さんは、柔らかな微笑を唇に湛え、決して俺から視線を外さない。

 対する俺は、まともに彼女の目が見ていられず俯いて地面を見たり、夕焼けの橙色がじわじわと青空を浸食していく空を仰いだりと、動揺のせいで視線の動きが忙しないことこの上なかった。


「新留くんが登校するより前に、君の机に手紙を投函したかったから。ね、驚いた?」


 笑み混じりの声音を聞き、ちらりと佐藤さんの顔を窺えば、いたずらっぽい笑顔を浮かべていた。

 そのどこか誇らしげな笑みを直視し続けるのは心臓の鼓動の速度的に難しく、慌てて目を逸らそうとしたが、改めて佐藤さんの顔を見やって気付いたことがあった。


 彼女の顔へと抱く印象に違和感が生じていた。どこか普段と違うようなと首を捻って、すぐにヘアスタイルが異なっているのだと勘付いた。

 前下がりボブというのか、前方の髪が襟足より長めで、ふんわりと内側に毛先がカールしてる佐藤さんの髪型はいつも通りに映る。

 ただ、真っ直ぐに切り揃えられた前髪は、普段であればそのまま下ろしているのに、今日は右に流してヘアピンで留めてあった。

 髪に挿している黄色いヘアピンの付け根には、玩具っぽくデフォルメされた赤いイチゴが飾られている。古いものなのかイチゴの表面の塗装が所々剥がれかかっていた。


 そのヘアピン、女子高生である佐藤さんにしては、いささか子どもっぽいデザインでチグハグな感じがある。ただ、お洒落に俺は大層疎いので、流行のファッションであれば、似合っていないという感想は見当違いも甚だしいので特段指摘はしない。

 そもそも、この状況下でヘアピン云々の話を持ち出すのはお門違いに思われた。


「ラブレター兼果たし状。昨日の夜、書いたの。久し振りに毛筆使ったなぁ。小学生の頃は習字を習っていたんだけれどね」

「……イタズラかと思ったよ。果たし状なんて」

「ごめんね。でも、新留くんならそっちの方が喜んでくれそうだと思って」

「……佐藤さんは俺を何だと思っているの?」

「……それは今から言うね」

「え、あ、ちょっ……」

「私、いま、すごくドキドキしている」


 彼女はこほん、とわざとらしく咳をして、俺へと一歩近づいた。

 急に間合いを詰められ、反射的に後ろに引き下がろうとしたが、どういうわけか足が竦んで動かない。

 佐藤さんの滲ませる緊張感に、あてられたとでもいうのだろうか。蛇に睨まれた蛙状態だ。

 佐藤さんの揺るぎない眼差しは俺を一直線に貫いて、彼女の口が息を吸う音は確かに俺の耳朶を打つ。


「新留くん。私、君が好き」

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