32.腹を割って話そう

「こちらにも非があることと黙って聞いておりましたが、今のは聞き捨てなりませぬぞ、クソババア」


 全員が氷の彫像と化したような部屋のなかで、フランツの声の重厚な声だけが響き渡った。


「私も人の親です。クソババアがそこの小デブを可愛く思われる気持ちは痛いほどよく分かる。ですが、だからと言って人を貶めて良いということは断じてない。ましてやラルフ殿の亡き母君をこの場で引き合いに出されるとは言語道断。決して許されないことですぞ!」


「な、な、な……」

 エリザベートが目をいっぱいに見開いて、震える指をフランツに突き付ける。


「もともとこれは我が家のエルマがそこの小デブをぶったことが発端です。ウォルトブルク伯爵家としてはその責任を負うつもりです。クソババアが小デブの治療費に加え慰謝料を払えと仰せならそのご相談に応じましょう。ただ、物事を必要以上に大ごとにするのは止めに致しませんか。そのようなことはクソババアの兄君のザイフリート公爵とてお望みではないでしょう」


 そう言って、ふっと笑ったフランツの顔はやはりクレヴィング公爵の弟に相応しい不敵な迫力に満ちていた。


「ウォ、ウォルトブルク伯爵……」

 ラルフが恐る恐る声をかけると、フランツは

「いや。何も申されるな。ラルフ殿」

とラルフに向かって手のひらを突き出した。


「差し出がましいことを申したのは分かっておる。だがここは言わせてくれ。ヴィクトールたちとは、今日は何を言われても適当に聞き流してその場をとりあえず収めてこようと申し合わせておったのだが」


「んなっ!?」

 エリザベートが声を上げるが、フランツは構わずに続けた。


「しかし先ほどのクソババアの言葉をわしはどうしても聞き流すことが出来なんだ。実はわしは妻を……エルマの母を亡くしておってな。亡き母上を大切に想うそなたの気持ちはよく分かるつもりだ。その気持ちが、うちのエルマがしたことを理由にクソババアに踏み躙られるようなことを言われて、黙って見逃すことはわしにはどうしても出来なかった」

「ウォルトブルク伯……」


「本来ならばそこのもやし親父がクソババアを諫めるべきところであろうが、何も言われぬようなので出過ぎたことをしてしまった。許されよ」


(もやし親父……)

 それはもしかしなくても、父クルーガー伯爵のことであろうか。ラルフは父の方を見る勇気がなかった。


「わしも良くなかった。いくらクソババアが人の話に聞く耳を持たぬ根性悪だと聞いていたとはいえ、最初から対話を諦めて適当に話を聞き流すなど……どちらの為にも良いはずはなかった。

 やはり、一時は揉め事になろうと言った側、言われた側双方にとって傷をのこそうと言うべきことは言わねばならぬ。


 今のまま、悪戯にラルフ殿を憎み悪態をつくような生き方ではラルフ殿ももやしもクソババアも皆不幸になるだけだ。もちろん、そこに座っておる小デブもだ。

 やはり言うべきことはきちんと言わねば」


 そこでフランツは言葉を切り、まっすぐにエリザベートをみつめた。


「あなたにもつらい思いが色々とおありなのでしょう。ですが、それを罪もない継子のラルフ殿にぶつけるのは絶対に間違っておる。それだけはお分かりいただきたい」


 そう言ってフランツは、ふうっと息をつき目の前に置かれた冷めきった紅茶に口をつけた。


「叔父さま」

 

 恐ろしいまでの静寂を破ったのはアマーリアの遠慮がちな声だった。


「アマーリア。そなたにも悪いことをしたな。結婚前の一番楽しいはずの時にこのような騒ぎを引き起こしてしまって」


「いえ。叔父さま。それはよろしいのです。ただ、その……」


 アマーリアがちらりと見るとクルーガー伯爵とレイフォードは石像のように微動だにせず、エリザベート夫人はいまにも憤死しかねない形相で、何かを言おうとしては言葉にならず、真っ赤な顔で口をぱくぱくさせている。


「すまぬな。若いそなたたちを抑えねばならぬ立場のわしがつい熱くなってしまった。しかし、わしは訂正するつもりはないぞ。謝罪ならばいくらでもしよう。だが、わしが言ったことは決して間違ってはおらぬはずだ」


「え、ええ。勿論ですわ。叔父さまのお言葉心に沁み通りました。ただ、その……」

「ん? どうした」


「あの……ひょっとして気づいておられませんか。叔父さま」

「だから何がだ」


 きょとんとした叔父の顔を見て、アマーリアは覚悟を決めて口を開いた。


「大変素晴らしいお話だったのですけれど、叔父さまは先ほどからずっと伯爵夫人のことをクソババアと呼んでいらっしゃいますわ」


「何!?」

 フランツが目をみはって叫んだ。


「ちなみにレイフォード殿のことを小デブ。クルーガー伯爵のことはもやし親父と」


「それはまことか、アマーリア!」

「ええ。まことにございます」


「何という事だ!!」

 フランツは頭を抱えて天を仰いだ。

「心のなかだけで言っているつもりがまさか口に出してしまっていたとは……」


(心の中では呼んでいたのかよ)

 内心でツッコむラルフをよそに、フランツは呻いた。


「なんということだ。このフランツ・クレヴィング、一生の不覚……っ!」


「お兄さまがいけないのよ。役割演習ロールプレイの時に面白がってそんな呼び方するから叔父さまにもうつってしまって」


「いや、だってさ。おまえが伯爵夫人の役をあんまり見事に憎々しく演じてくるから、それくらい言わせて貰わないとこっちもストレスがすごくてさ」

 ヴィクトールが弁解する。


役割演習ロールプレイ中からずっとクソババア呼ばわりだったのかよ……)

 アマーリアの演じたという、見事に憎々しい継母の役を見て見たかったと少し思いながらラルフは遠い目になった。


 ふいに、うおおおお! という獣のような叫び声をあげてフランツが立ち上がった。

 ぎょっとする一同の前で、がばりと床に体を投げだすような勢いで平伏する。


「申し訳なかった! とんでもない失礼を致した。お許し下され!!」


 それを見たエリザベート夫人がわなわなと震える声で言った。


「も、申し訳なかった、で済むとお思いなのですか。貴方は……何、何という……」


「まことに申し訳ない。なんと罵られても弁明のしようがない。どう言い繕ったところでわしとヴィクトールがあなたを心の底からクソババアと思っておることに変わりはないのだから」

「ちょっと叔父上。それ全然謝罪になってないですよ」

 ヴィクトールが慌てて割って入った。


「何だ。ヴィクトール。最初に夫人のことをクソババアと言い出したのはそなただろう。ここで言い逃れをしようとするのは男らしくないぞ!」

「いや。言い逃れとかそういうことじゃなくて、ここでそれを言い出したらまとまる話もまとまらないというか」


「もう良い。ことがここに至ってはもう口先だけでお詫びして表面上を取り繕ったところで何の意味もない。ここは腹を割って本音で話そうではないか」


「いや。この状況で腹を割る意味が分からないですから。腹を割って本音で話すっていうのは、もうちょっと信頼関係というか友好関係のある相手に対してするからこそ意味のあることであって……」


「それは違うぞ、ヴィクトール!!」

 フランツが雷鳴のような大声を出したので、ソファにいるクルーガー伯爵とレイフォードが石化した姿勢のまま、びくっと飛び上がった。


「本音でぶつかってこそ、真の意味の信頼関係が築けるのだ。ラルフ殿とアマーリアが結婚する以上、両家は姻戚ということになる。ここは思い切って本音でぶつかろうではないか!」


「言ってることが一見正しそうに聞こえるところがかえって怖いんだよなー」

 ぼやくヴィクトールの肩を、フランツは強く揺さぶった。


「さあ、ヴィクトールもこちらのクソババアはアマーリアにとっては姑殿になるのだ。小手先の理屈で護摩化そうとはせず、本音をぶつけてみろ」

「またクソババアって言ってるし……本音って言われても俺は別に」


「難しく考えるな。おまえだってここへ来る前、さんざん『こっちは全然悪いと思ってないけど、まあ一応謝っておこう。めんどくさいから』と申しておったではないか。そういう本音をそのままぶつけたらよいのだ」

「いや、いいわけないでしょう」


 フランツとヴィクトールの延々と続くツッコミどころ満載の会話を聞きながら、ラルフはこの場を収集するのは自分以外にないと悟った。


「すみません。今日のところはこれでお開きということにしませんか。とりあえず、その、ヴォルトブルク伯爵からはお詫びして頂けたということで……そうでしょう。父上?」


 一応はこの屋敷の主人である父に声をかけると、石像化していた父は悪夢から覚めた人のように、

「ああ……うん」

 と力なく呻いた。


 その途端、憤怒のあまり今にも息絶えそうな様子だったエリザベート夫人が息を吹き返してラルフに詰め寄った。

 

「何がお詫びして頂けた、ですか!! さんざん愚弄されただけではありませんか! あの人たちはお詫びどころか私やレイフォードをさらに侮辱し、打ちのめすために来たのです! そしてそれを企んだのはあなたよっ!!」


 金切り声でわめきたてると、手近にあったティーポットをつかみ中身をラルフに向かってぶちまけようとした。

 ラルフはあえて避けなかったが、次の瞬間それを後悔した。


 ラルフの前に両手を広げたアマーリアが飛び出してきたのだ。


「やめて下さい!」

 エリザベートは明らかに怯んだ顔になったが、勢いが止められずそのまま中の紅茶を思いきりアマーリアにむかってぶちまけた。

 幸い中身は冷めきっていたので熱くはなかったが、淡いブルーのドレスのスカートに無残な染みが広がった。


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