33.実家との訣別

幸い、ポットの中の紅茶は冷めきっていて火傷をするようなことはなかった。

 が、その無残にも染みの飛んだドレスを見た瞬間、ラルフのなかで何かが弾け飛んだ。


「……謝れ」

「え、何ですって」


「謝れ! アマーリアに謝れ!!」

 大声で怒鳴ったその顔には、はっきりと怒りが表れていた。


「な、な、何です。あなたまで……仮にも母親に向かって……」


「あんたこそ俺のことを息子だなんて一度も思ったことなどないだろう! そもそも俺とあんたのことにアマーリアは関係ない! さっきから散々、何の罪もない彼女を貶め、今またドレスを汚したことを謝れ!!」


 エリザベートは思わず手にしていたポットを取り落とした。

 これまでどんなに悪しざまに罵っても、黙ってそれを聞いているか、小賢しい理屈で冷静に返答をしてきた義理の息子が別人のように感情をあらわにして怒っている。


 エリザベートは一瞬怯み、次の瞬間その怯んだことによってさらに激しい怒りをおぼえた。


「それがあなたの本音なのね」

 エリザベートは憎々しげに言った。


「これまでおとなしい優等生を装っていたけれど、その胸の底ではずっと私のことを憎み、恨み続けてきたのよ。おまえなんかが亡き母親のかわりになれるわけがない、って。そう思ってずっと蔑んできたんでしょう!」


 ラルフはアマーリアを少し下がらせるとまっすぐにエリザベートに向き直った。


「俺はそんなつもりはなかった。けれど俺がどんなつもりだろうとあなたには関係ないのだろう。あなたはいつも、物事を自分が見たいようにしか見ない人だから」


「何ですって!」


「俺はあなたがやって来てしばらくの間、なんとかしてあなたに好かれたいと願っていた。俺とあなたが仲良く暮らしていくことが亡き母上の望みだと父上が言われたからだ。でも、それはどうしても叶わないことだった。


 あなたは最初から俺を無視した。レイフォードが生まれてからははっきりと敵視して、ことあるごとに俺をこの家から排除しようとした。


 俺は分かっていながらこれまで争うことを避けてきた。

 俺があなたと争えば父上が困るから。間に立った使用人たちが苦しむから。

 それを見るのが嫌なばかりに、争いを避けて家を出て騎士団の寄宿舎に入った。そうすればあなたの思うつぼだと知りながら、それでもいいと思ってきた。

 でも、それは間違っていた!」


 ラルフは正面からエリザベートを見据えて言った。


「これまでは俺が我慢して、見て見ぬふりをすることですべてをやり過ごしてきた。今もそうしようとした。だが、俺のそんな弱さのせいでアマーリアを傷つけてしまった。守れなかった」


 ラルフはアマーリアを振り返った。


「許してくれ。アマーリア。さっき俺は義母の手からポットを叩き落そうと思えば出来たんだ。だがしなかった。これまでずっと争っても無駄だと思ってきたからだ。でもそれは違った」


 アマーリアは身を挺して自分を庇ってくれた。

 フランツもやり方はどうあれ、自分を守ろうとしてくれて、自分と亡き母のために怒ってくれた。


 フランツがそう言ってくれた時、「クソババア」に動揺しながらもラルフは嬉しかった。とても嬉しかったのだ。


 ヴィクトールだってそうだ。


 あの婚約破棄騒動の日から今日まで、ラルフが大きなトラブルに巻き込まれることなく無事に過ごせてきたのは間違いなくヴィクトールと、その友人のクレイグが手をまわして彼のことを守ってくれたからだ。


 ヴィクトールは少しも恩に着せず、冗談に紛らわせながらラルフを前王太子アドリアンの一派や、その他の野心家の貴族たちとの軋轢から守り続けてくれた。


「ラルフさま。私なら平気です。何ともありません」

 アマーリアが気遣わしげにラルフの腕に手をかけた。

 ラルフはその小さな手に自分の手を重ねた。


 この小さな手でアマーリアは精一杯ラルフを守ろうとしてくれた。


 アマーリアをはじめ、エルマ、ヴィクトール。そしてフランツ。

 クレヴィング家の人々は迷わない。


 自分の大切なものを傷つけるものを絶対に許さないし、そのために戦うことを迷わない。その強さが自分にも欲しいと思った。


 ラルフは顔をまっすぐに上げて、今度は異母弟を見た。


「今回のことも、もとはといえばルーカス卿とレイフォードが公の場でアドリアン殿下を愚弄するようなことを口にし、止めようとしたアマーリアを酷い言葉で侮辱したのが始まりだ。謝るのはレイフォード、おまえの方じゃないのか。反論があるなら義母上の後ろに隠れてばかりいないで、自分の口で言え」


 レイフォードは口のなかでもごもご言いながら、怪我しているはずの足で立ち上がって部屋から逃げ出そうとした。


 エリザベートはソファで魂が抜けたようにへたりこんでいるクルーガー伯爵にすがりついて揺さぶった。


「あなた! 聞いたでしょう。あのラルフさまの言い草を。酷いじゃありませんか! もともとこちらはレイフォードを傷つけられた被害者ですのよ。それなのに、謝罪にくるといっておきながら謝るどころか罵詈雑言。挙句の果てにラルフさままで私とレイフォードに謝れだなんて。ねえ、何とか言って下さいな、あなた」


「あ、ああ。ラルフ。おまえ、どうしたんだ。いくら公爵家の婿になったからって急に母上にそんな言い方を……」


「父上までそんなことを言われるのですか」

 そう言ったラルフの声には静かな悲しみがこめられていた。


「父上は私が公爵家の婿になったからといって、その権威をカサに着て居丈高に振舞うような人間だとお思いなのですね」


「いや、それは……」


「私はこれまで父上を悲しませ困らせたくない一心で義母上やレイフォードとの衝突を避けてきました。父上にもそれは分かって貰えると思っていました。しかしそれは勘違いに過ぎなかったようです」


「ラルフ。それは……」


「これで決断がつきました。俺が変わったのだとしたらそれは公爵家との縁が出来たからじゃない。大切な人が出来たからだ」

 そう言ってラルフはアマーリアの手を握りしめた。


「これから俺は自分の大切な人たちのために生きます。それを傷つけるものはたとえ誰であっても許さない。全力で戦います」


 ラルフはアマーリアをまっすぐに見つめた。


「アマーリア。……俺のことを好きになってくれてありがとう」


 アマーリアの白い頬がぱっと染まった。


「い、いえ」

「俺も君が好きだ。この先、何があっても、髪一筋でも君を傷つけさせない」


 アマーリアの藍色の瞳に涙が溢れた。

ラルフの口から、自分に対する気持ちを聞いたのはそれが初めてだった。


それまでは、どうしてもラルフは自分が仕出かしたことに優しさから付き合ってくれているだけなのでは、という疑問がどこかでずっとつきまとっていたのだ。


アマーリアは、あれからずっと身につけている珊瑚の腕輪をぎゅっと握りしめた。


 その時、パンパンパンという大きな拍手が鳴り響いた。


「素晴らしいぞ。ラルフ殿。それこそが本音をぶつけ合うというものだ!!」


 フランツが大声で言って拍手をし、

「叔父上。空気を読んで下さい。台無しじゃないですか」

 ヴィクトールの声がそれに続く。


「ラルフ殿の魂の叫びをこのフランツ・クレヴィング、しかと聞いたぞ。さあ、次はそちらの番だ。クソババアも、もやしも小デブも遠慮なく本音をぶつけてくるが良い!!」

「本当に、しかと聞いてましたか。叔父上」


 エリザベートがふらりと立ち上がった。


「お。次はクソババアの番か? よし。思いきり本音をぶつけてみよ。そこから見えてくるものが必ずあるぞ!!」

「叔父上、だからクソババアは……」


「しかし、わしはあのご婦人の名前を知らぬのでな。こう呼ぶより他に仕方がない」

「クルーガー伯爵夫人ですよ。伯、爵、夫、人!」


「……って」

 エリザベートが低く呟いた。


「ん? どうした。クソババア。もっと腹の底から声を出すのだ」


「帰って!!」

「よしその調子だ。いいぞ、クソババア!」


「帰れって言っているでしょう! 出て行って! 二度とこの屋敷に姿を見せないで! ラルフ! あなたもよ! 今日を限りにあなたとクルーガー伯爵家は何の関係もないわ! あなたが選んだのよ! 金輪際、私にもレイフォードにも近寄らないで頂戴!!」


「よし。素晴らしいぞ、クソバ……がっ」

「うるさいっ!! 出ていけ!!」


 エリザベートが投げつけた花器が思いきりフランツの顔面の真ん中にヒットした。


「叔父さま!」

 アマーリアが慌てて駆け寄る。

「おい。クソババア。ぶつけ合うといっても本当に物をぶつけるのは反則だぞ」


 フランツが顔を押さえながら言った。


「うるさいっ! 出てけ! 二度と顔を見せるな、このクソジジイ! 出ていけ!出てけーーー!!!」


 半狂乱になって手あたり次第にものを投げつけてくるエリザベートをクルーガー伯爵が慌てて止めようとする。


 飛んでくるものを片っ端から叩き落しながら、

「怪我はないかい。アマーリア?」

 顔を覗き込むラルフに、

「ええ。ラルフさまが守ってくださるから大丈夫です」

 頬を染めて応えるアマーリア。


「だから皆、空気読もう。頼むから」

 ヴィクトールがそんな三人を急き立てて部屋から出て扉を閉める。

 その途端に、ガチャンと何か特大のものが扉にぶつかって割れる音がした。


「ううむ。少々盛り上がり過ぎたがこれにて一件落着といったところかな」

 花器が当たって赤くなった額を撫でながら、うんうんと頷くフランツ。


「そんなわけないでしょう」


 ヴィクトールが溜息をつきながら言った。


クルーガー伯爵家との和解、今後の付き合いはこれで絶望的になった。

ラルフが伯爵家を継ぐことは、これまで以上に可能性が低くなるだろう。


「悪かったな、ラルフ」


申し訳ない気持ちで声をかけたヴィクトールに、ラルフは、


「いえ。ありがとうございました」

と笑って言った。


その顔は、ヴィクトールが今までに見たなかで一番晴れやかなスッキリした表情をしていた。



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