30.リゼットとマリエッタ

その姿を見るなりルーカスの脳裏に忌まわしい思い出が甦ってきた。

「おまえ! こんなところで何をしているんだ」

 リゼットと呼ばれた女は艶然とほほ笑んだ。


「随分な言い方ね。以前は私に会えるとあんなに喜んでくれたのに」

 軽やかな足取りで近づいてきたリゼットは、ためらうことなくルーカスに抱きついた。

 馴染みのある甘い香りが鼻をくすぐり、ルーカスは思わず抱き寄せたくなる衝動をこらえて彼女を突き放した。


「馴れ馴れしく触るな! この尻軽女め」

「ひどーい。お父さまみたいなことを仰るのね」


 ひどいと抗議したわりには腹を立てた様子もなくリゼットはくすくす笑って言った。


「おまえはアドリアン殿下のもとにいるんじゃなかったのか?」

 リゼットは唇を尖らせた。


「そのつもりだったわよ。だけどあの王妃さまがおっかないんだもの。もの凄い目で睨みつけてきて、もう殿下の側に近寄らせてもくれないの。私、ここ何日か反省のためにって言われて神殿の掃除ばかりさせられてるのよ」

「それで抜け出してきたのか」


「そう。宮殿の警備についてる衛兵たちに『病気の妹のお見舞いに行きたいの』って目をウルウルさせて頼んだら一発だったわよ。ちょろいったらないわ」


 得意げにいうリゼットを見て、ルーカスは苦虫を噛み潰したような顔になった。

 この娘にとっては自分もそういった「ちょろい」男の一人だったのかと思うと堪らない気持ちになる。


 リゼットはザイフリート家が昨年の夏、郊外の別荘に滞在していた時に屋敷に出入りしていたその地方の領主の娘だった。

 

 彼女はその愛くるしい容姿と健気な仕草でたちまちルーカスの心をとらえた。

 ルーカスにはその時すでに侯爵家の出身である妻のグリアがいたが、それでもリゼットに惹かれていく気持ちは止められなかった。


 幸い、リゼットの身分ならば側室として迎えるのは難しくない。

「君を離したくない。正妻にすることは出来ないが、僕の最愛の人として一緒に王都に来てくれるかい?」

 というルーカスの申し出に、リゼットは黒い瞳を潤ませて言った。


「嬉しい。でも無理はしないでね。私、あなたの側にいられるのなら身分なんていらない。妻の一人になれなくてもいいの。ただ、あなたの側にいられれば」

 リゼットのいじらしい言葉を聞いて、ルーカスは彼女を得るためならば何を犠牲にしてもいいと思った。


 人目を憚らない二人の逢瀬はたちまち周囲の知るところとなった。

 ショックを受けたグリアは一人、先に王都に戻るとそのまま実家に帰ってしまった。

 父のザイフリート公爵は激怒し、二人を別れさせようとした。


 その時、リゼットが涙ながらに言ったのだ。

「ルーカスさまの子を身ごもっています。引き離されるのなら子供と一緒に死にます。あの人がいなければ生きていけません」

 と。


 父も子供がいるならばと渋々、リゼットの存在を認めると言った。

 ルーカスは天にも昇る気持ちで早速、王都にリゼットを迎える小さな屋敷を用意しようとした。


 しかし、慎重な父はその後も調査をすすめていてリゼットの懐妊が真っ赤な嘘であったことを突き止めた。


 ルーカスの目の前で父に糾弾されたリゼットはあっさりと罪を認め、

「だって公爵家の息子の愛人となればいい暮らしが出来ると思ったんだもの」

 と悪びれずに言った。


 ショックを受け、

「二度と顔も見たくない。金輪際、我が家に近づくな!」

 というルーカスを制したのは父だった。


「この容姿にこの性格。使えるかもしれぬな」

 そう言うと父は不敵な笑みを浮かべた。


 その頃、父は宮廷で大きな力を持っているクレヴィング、バランドの両家に対抗するためにマール辺境伯に接近しようと、第二王子エルリックの婚約者に妹のカタリーナを推していた。

 父はその野心のために、したたかなリゼットを利用することを思いついたのだ。


「ルーカスをあっという間に骨抜きにしたそのお手並みを拝見しようではないか」


 戸惑っているルーカスをよそに、父はさっさとリゼットをイルス男爵家の養女マリエッタに仕立ててしまった。


 父から、

「うまくやれば公爵家子息の側室どころか、この国の王子の寵姫になれるやもしれぬぞ」

 とそそのかされたマリエッタはあっさりとその気になり、言われるままに王立学院に潜入し、まんまと王太子アドリアンの心を捉えることに成功した。


 アドリアンの心をアマーリアから離し、クレヴィング家とアドリアンとの間に亀裂を生じさせるのが狙いだった。

 予想外だったのは、アドリアンが思いのほかマリエッタに夢中になり婚約を解消するとまで言い出したことだ。


 本来ならば、無理矢理にでも王太子の一時の気の迷いで処理されるはずが、婚約破棄を言い渡されたアマーリアがその場で他の男への想いを告白したために、とんとん拍子に婚約破棄が成立してしまった。


 国王シュトラウス二世は、クレヴィング家の後ろ盾を失ったアドリアンが王位についても維持することは難しいと判断し、廃位を決め、かわりにマール辺境伯を後ろ盾に持つ第二王子エルリックを王太子とすることを決めた。


 ザイフリート公爵家にとっては嬉しい誤算だった。


 エルリックが王太子となり、ゆくゆくは国王として即位すれば王妃はカタリーナ。

 父ニコラスは国王の舅となり、ルーカス自身は国王の義兄となる。


 さらに、いずれカタリーナが王子を産めば父と自分はそれぞれ次期国王の祖父であり、伯父となるのだ。

 ザイフリート家は押しも押されもせぬ筆頭貴族となるだろう。


 そうなればクレイグもヴィクトールも問題ではない。

 エルリックは温厚で控えめだと言えば聞こえはいいが、悪くいえば自我を押し通す強さがない。

 即位したのちは恐らく宰相の地位につくはずの父と、自分の言うままになるだろう。

 そうなったら自分の気に入らないやつらは片っ端から冷遇して左遷してやる。


 そんな輝かしい未来を思い描いて、悦に入っていたのにここにきて、何故、思い出したくもない過去そのものの女がここにいるんだ。

 

 ルーカスに睨まれてもリゼットは平然とした様子で部屋のなかをうろつき、勝手に戸棚を開けたりしている。


「ねえ。ルーカスさま。公爵家ともあろうお家がお客にお茶も出してくれないの? 私、お腹すいちゃった」

「誰が客だ。茶など出すか。いったい何だってここに来たんだ。もう我が家へは金輪際近づかない約束だろう」


「約束が違うのはそっちでしょ」

 リゼットがルーカスを睨みつけた。

 そうすると、蕩けるような笑顔の仮面の下から、生来の気の強さが覗く。


「私をアドリアン殿下のお妃さまにしてくれるはずでしょう? そう聞いたから私、あなたのお父さまの頼みを引き受けてあげたのに、肝心のアドリアン殿下は王太子の地位をとりあげられちゃうし、しかも宮殿に幽閉みたいにされて好き勝手に出歩けないし、どうなってるのよ。話が違うじゃないの」


「それはこっちの知ったことじゃない」

 ルーカスは冷たく言った。


「殿下の廃位を決めたのは国王陛下だ。俺たちにはどうしようもない」


「とぼけないでよ! 殿下に聞いたわ。あんたたちのせいで殿下は下手をしたら王子ですらなくなって、普通の貴族の身分にされて、しかも王都で見張り付きで暮らさせられるっていうじゃないの。

 大公か何かにして地方の領地を与えようっていう国王陛下のお考えに、あなたの父上とマール辺境伯が反対してるって。ちゃんと聞いたんだから!」


「殿下がご自身でそう仰ってたのか?」


「ええ。そうよ。王妃さまからそう言ってこっぴどく叱られたんだそうよ。あれ以来、殿下ったら落ち込んじゃって私が見張りの目を誤魔化して会いにいってあげても、『一人にしてくれ……』なんて言っちゃってどうしようもないのよ。少し前までは、殿下が庇ってくれるから神殿の掃除や雑用なんかもサボれてたのに、おかげで今はこき使われてクタクタ。全部あんたたちのせいよ」


 リゼットはいまいましげに言って、どさりとソファに身を投げ出すようにして座った。


 その粗暴な仕草や物言いからは、かつてルーカスが焦がれた可憐な少女の面影はまるで感じられない。

 改めてこんな女に引っかかった過去の自分が腹立たしかった。


 一刻も早く叩き出そうと思っていたルーカスは、リゼットの言った一言がふと引っかかった。。


「アドリアン殿下がおまえを遠ざけてるって? 片時もおまえを離したくないとまで言われていたあの方が」


「そうよ。少し前までは王妃さまの目を盗んで何度も会いにきてくれたのに、王妃さまに『貴族の身分に落とされるかも』って言われて以来もうさっぱり。一人で部屋に閉じこもってグチグチ言ってるわ。鬱陶しいったら」


(まずいな)

 ルーカスは内心、眉をひそめた。


 リゼットの魅力はその分かりやすい愛くるしさと、心を蕩かすような甘い言葉でとにかくこちらをいい気分にさせてくれるところだ。


 彼女が褒め讃えてくれる言葉を聞いていると、自分がもの凄く特別で偉大で、魅力的な男になったような気持ちにさせてくれる。


 しかし、その魅力は神経を一時的に痺れさせる麻薬のようなものだ。

 しばらく離れていれば我に返る。

 そうして、なぜ、あんな女にそこまでのぼせ上がっていたのかと自己嫌悪に陥るのだ。自分自身がそうだったからよく分かる。


 だとしたら今の状況は望ましくない。一人の時間を多く過ごすうち、アドリアンは我に返るかもしれない。


 もし、アドリアンが

「自分は間違っていた。自分が愛しているのはやはりアマーリアだ」

 などと言い出したらすべてはぶち壊しになる。


 ここは何としてももうしばらく、リゼットにはアドリアンの心を惹きつけて、彼女さえいれば何もいらないと思いこませておいて貰わなければ困る。


 そう考えると、ルーカスはリゼットに向かって微笑みかけた。


「そうカリカリ怒るなよ。可愛い顔が台無しだぞ」

 言いながらリゼットの華奢な肩を抱き寄せる。


「王妃陛下のいうことなんか気にするなよ。あの人はアドリアン殿下にもう一度、アマーリア嬢とよりを戻して王太子位に戻って欲しいんだ。その為なら少し大袈裟に脅したりもするさ」


「え? それじゃあ貴族の身分に落とすととかいうのは王妃さまの脅しってこと?」


「少なくとも俺は父からそんな話は何も聞いてないよ。そもそも、現国王陛下の第一王子──それも、王妃さまの産んだ第一王子を王族の身分を剥奪して、貴族に落とすなんてそんなことあるわけないじゃないか。本当に君は世間知らずだな」


 そう言って顔を覗き込むと、リゼットは疑わしそうにルーカスを見て、次の瞬間、にっこりと笑った。


「そう言われてみたらそうよね。王妃さまったら、私と殿下を引き裂くためなら何でもするのね」


「そりゃあそうさ。王妃さまにとってはおまえは息子を堕落させた元凶だからな。でも、もうしばらく我慢して王子の心をしっかりと繋ぎとめてさえおけば、ゆくゆくは大公妃殿下として、地方の領地で気楽に贅沢に暮らせるぞ」


 ルーカスの言葉にリゼットは満足げに頷いた。

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