29.ルーカス・ザイフリートの苛立ち
結局のところ、直接的な衝突はエルマからレイフォードの平手打ちだけで、普通ならば学院内の子供同士の喧嘩ということになるのだが、ルーカスはそれで済ますつもりはなかった。
もともと在学中からヴィクトール・クレヴィングとはそりが合わなかった。
苦も無く学年トップの成績をとり続けていたクレイグ・バランドも気にくわなかったが、ヴィクトールの、ずば抜けて成績がいいわけでもないのになぜか常に人の中心にいて、誰からも好かれているようなところが堪らなく嫌いだった。
ヴィクトールの妹が王太子アドリアンの婚約者に選ばれたと知った時は本当に悔しかった。
ルーカスの妹のカタリーナも婚約者候補に名乗りを挙げたが、当時九歳のアドリアンは連れて来られた貴族の令嬢たちの中から、ほとんど迷いなくアマーリア・クレヴィングを選んだ。
おとなしく容姿も平凡なカタリーナは見向きもされなかったという。
(どうして。何故、あいつばっかり……)
周囲から、未来の王妃の兄、宰相の地位は決定だと言われても、ヴィクトールは肩をすくめて、
「俺はそんな柄じゃないよ。クレイグの方がよっぽど適任だ」
とかわしていた。
そして、その言葉を証明するように卒業と同時に宮廷官僚としての道ではなく、騎騎士団に入ることを選んだ。
そうなったらなったで、周りは、
「クレイグが宰相閣下で、ヴィクトールが騎士団長か。国の将来は安泰だな」
などと持ち上げていた。
その陰でルーカスはずっと歯噛みするほど悔しい思いをしてきた。
だが、それももう終わりだ。
アドリアン王子は、アマーリアとの婚約を解消し王太子の地位を失った。
かわりに王太子の座につく第二王子のエルリックの婚約者には妹のカタリーナが選ばれた。
ついにやった。自分はヴィクトールが手にしていた未来をそっくり奪ってやったのだ。
快哉を叫ぶ思いのルーカスの前で、ヴィクトールはこれまでと何ら変わらない様子で騎士団での勤めを果たしていた。その周りには相変わらず多くの人間がいて、楽しそうに彼を取り巻いていた。
自分なら悔しさのあまりおかしくなりそうな事態に見舞われているのに、まったく変わらないヴィクトールのことがますます嫌いになった。
その矢先に今回の事件である。
アマーリアはヴィクトールにそっくりだ。淡い金色の髪と藍色の瞳。
自分が信じている真実の前では、相手が誰であれ怯まずに果敢に立ち向かっていくところ。
虫も殺さない無邪気な顔をして、こちらの痛いところを的確にグサグサついてくるところなども兄そっくりだ。
本当に気に入らない。
これを機に徹底的に叩いて、今の宮廷ではどっちが上なのかを思い知らせてやる。
そう思ったルーカスは、子供同士の喧嘩に過ぎないこの件を、クレヴィング家からのエルリック殿下に対する不敬、ザイフリート公爵家に対する侮辱と言い立てて、ことを出来るだけ大ごとにしてやろうとした。
最初のうち、
「そんな馬鹿な。くだらない」
と抗議していたヴィクトールだったが、途中から何を思ったのか急に、
「ルーカスの言うことももっともだ。これは確かに妹とエルマが悪かった。正式にザイフリート公爵家にお詫びに伺いたい。公爵閣下のご都合の良い日にお邸に伺わせて貰えないだろうか」
としおらしいことを言いだした。
拍子抜けしながらも、これはそれだけ次期国王であるエルリック殿下を押さえたザイフリート家の権勢が強まったということだ、それがヴィクトールのような単細胞にも分かっているのだと思うと、たまらなくいい気分だった。
それで家に帰るなり、父公爵の書斎を訪れ得意満面で報告したのだが──。
「この馬鹿者がっ!!」
返ってきたのは激しい罵声だった。
「おまえは一体、何を考えておる! こんな時期によりにもよってクレヴィング家と揉め事を起こすとは。何のためにおまえをエリルック殿下に付き添わせたと思っておるのだ!」
「そ、それは変な女が殿下に寄り付かないように……」
「殿下はそれほど間抜けではないわ。おまえやアドリアン殿下とは違う。というよりも浮気をするほどの活気があって下されば今頃カタリーナとももう少しなんとかなっておるだろうに」
確かに父の言う通り、第二王子エルリックは大人しく控えめな性格なのは良いのだが、社交的だった兄のアドリアンに比べていささか内向的過ぎ、婚約者のカタリーナとお茶をしたり出かけたりするよりも、一人で本を読んでいる方が楽しいといった有様でカタリーナとの仲は依然、よそよそしいままだった。
「そんなことより、この立太子の儀を間近に控えた微妙な時期の殿下の周辺の反応や、今までアドリアン殿下についていた者たちの動きを見てくるためにおまえを学院に行かせたのだ。それがおまえ自ら揉め事の種に火をつけてくるとは……」
ザイフリート公爵はいまいましげに言った。
ルーカスは慌てて首を振った。
「お待ち下さい、父上。先に喧嘩をふっかけてきたのはあちらの方ですよ。クレヴィング家の生意気なアマーリア嬢が難癖をつけてきたんですよ。そのうえ、レイフォードに対して暴力まで。信じられませんよ」
「アマーリア嬢がおまえに抗議してきたのは、アドリアン殿下に対する発言を聞き咎めて、というのは本当か」
「え? ええ。はい。なんだかひどくムキになっていましたね。あの様子だとやはりレイフォードの兄との婚約は隠れ蓑で、アマーリア嬢はまだアドリアン殿下に未練があるのではないかと思ってしまいましたよ」
得意げに言う息子を見て公爵は苛々と机を指で叩いた。
「まさか、ここまで愚かであったとは」
「父上?」
「おまえがそう感じたのと同じように、その場にいた多くの者もそう思ったことであろう。『アマーリア・クレヴィング嬢は、アドリアン殿下が悪しざまに言われるのを聞いて激怒した。もしやまだ殿下を愛しているのでは?』と。
そして、その話を息子や娘から聞いた貴族たちはこう考えたであろうな。
『クレヴィング家はまだアドリアン殿下の味方をしている。アマーリア嬢との婚約が復活し、アドリアンさまが再び王太子に返り咲くかもしれぬ。これはまだエルリック殿下の方にばかり擦り寄るのは得策ではないかもしれないぞ』とな」
「そんなことは……」
青ざめるルーカスを公爵は冷ややかに睨みつけた。
「しかもヴィクトール・クレヴィングを謝罪に来させるだと? すぐに断れ。いや丁重に辞退しろ」
「何故ですか? 今回のことはあちらに非があったとヴィクトールも認めて、それで謝罪に来ると」
「どこまで馬鹿なのだ。おまえは! あのクレヴィングの小倅がそんな殊勝な性格だと思うのか。謝罪にかこつけて当家を直接訪問し、探りを入れるつもりに決まっておる」
「と申されますと……」
「近頃、当家とマール辺境伯家の周辺を嗅ぎまわっている者がおるらしい。あのセオドールとかいう吟遊詩人のまわりにも調査の手が及んだと聞く。まあ捕まる前に当人は逃げさせたが」
「それがクレヴィングの手の者だというのですか?」
「確証はない。だがその可能性は高い。王太子が廃され、かわりにその座につくことになった第二王子の婚約者は政敵の娘となったら、わしがクレヴィングの立場でも疑って行動を起こさずにはおらぬだろうからな」
ザイフリート公爵はそこまで言って深々と溜息をついた。
「ヴィクトールは騎士団などに入って単純な武人を装っておるが、あれでなかなか油断がならぬ。父譲りの曲者だ。このような時に屋敷に近づけたくはない。謝罪の件はこちらから丁重に辞退しておく。おまえにまかせておいたら、また何をしでかすか分からぬからな」
ルーカスは焦って懸命に言った。
「父上。お待ちください。しかし今回の件はエルリック殿下の御前で、平然と暴力行為が行われたという間違いなく不敬で……」
「まだ分からぬのか。立太子前の大切な時期にエルリック殿下をくだらぬ醜聞に巻き込むな。お名前に傷がつく。もう良いからおまえはしばらくじっとしておれ。学院にも行かんで良い。殿下のお側には別のものをつかせる」
厳しい声で退室するように命じられ、ルーカスは悄然と父の部屋をあとにした。
納得が出来ない部分が多かったが、父がああいう言い方をしたときは今は何を訴えても逆効果だろう。
一番許せなかったのは、会話の端々から父がルーカスよりもヴィクトールの方を認めていることがにじみ出ていたことだ。
ルーカスは、帰宅したときの高揚感とはうってかわった惨めな苛立ちを抱えて公爵家の敷地内にある自分の棟へと戻った。
妻のグリアは、先日出産した従姉の出産祝いを渡しに行っていて、戻りは数日後になる予定だったので建物のなかは人気も少なく静まり返っていた。
入り口を入ると執事のサイラスが困惑した様子で出迎えた。
「お客人がいらしております」
「客人?」
ルーカスは顔ををしかめた。
「誰だ。こんな時に。何も約束はなかったはずだが」
「は、はあ。そう伺っておりますのでお断りしたのですが、若様からはいつ訪ねてきてもいいとお許しをいただいているとの一点張りで……。追い返すのなら今から主屋へ行って直接旦那さまのお部屋を訪ねるなどと言われますので、とりあえず客間にお通ししたのですが」
「いつ訪ねてきてもいいだと?」
胸騒ぎを覚えて、ルーカスは客間へと向かった。
サイラスには、
「茶などは何もいらん。誰も部屋に近づけさせるな」
と命じておく。
一階の奥まった、普段あまり使われていない客間のドアをノックすると、中から
「どうぞ」
と若い女の声がした。
ドアを開けると、三人掛けの革張りのソファにゆったりと一人の女が座っていた。
「お久しぶりね、ルーカスさま。お会いしたかったわ」
少し舌足らずの愛らしい声が名前を呼ぶ。
柔らかそうな栗色の髪を、結い上げずに肩に垂らし、濡れたような黒い瞳でこちらを見て微笑んでいるその姿を見てルーカスは呻くように呟いた。
「リゼット……」
それを聞いた女が弾けるように笑い出した。
「いやあね。今の私はマリエッタ。イルス男爵令嬢のマリエッタ・イルスよ。お忘れになった?」
アドリアンの前では決してつけたことのない、鮮やかな紅を塗った唇を綻ばせてリゼットと呼ばれた女はにっこりとルーカスに微笑みかけた。
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