28.医務室のバトル 第2ラウンド
ヴィクトールは、アマーリアの肩を掴んでいるルーカスを見るとちょっと眉を上げた。
「その手を離せ。ゆっくりと後ろに下がれ。さもないと十数えるうちにおまえの顎は砕けるぞ」
「どんな脅しだよ」
「いや事実だ」
「はあ?」
言い返しかけたルーカスは次の瞬間、うなじの毛が逆立つような悪寒を覚えて飛びすさった。次の瞬間、彼がつい今まで立っていた場所をアマーリアのアッパーカットが空を切るスピードで通過していった。
「な、何するんだ。この暴力女!」
「淑女の身体に許可なく触れるような痴れ者には容赦するなというのが我が家の教えですの」
アマーリアはつんと澄まして言った。
「よしよし。エルマ。もう泣くな。怖かったな」
ヴィクトールに頭を撫でられると、エルマはほっとしたように彼に抱きついて泣き出した。アンジェリカがこれまでの経緯を手短にヴィクトールに説明する。
「ごめんなさい。私が悪いの。リア姉さまは何も悪くないの。ヴィクトール兄さま。ごめんなさい」
「そいつじゃなくてレイフォードに謝るのが先じゃないのか。こんな怪我まで負わせておいて。聞いていると先ほどからレイフォードに対する謝罪は一度も口にしていないようだが」
ルーカスが冷ややかに言う。
ヴィクトールの登場に驚いて固まっていたレイフォードも、それを聞くと急いで、
「そうだそうだ。ちゃんと謝れよ!」
と喚いた。
アマーリアはエルマを庇うように一歩前に出た。
「エルマがやらなかったら私がやってたわ。そうしたら今頃顔に風穴が開いてたわよ。平手打ちで済ませてくれたエルマに感謝することね!」
指をびしっと突き付けられたレイフォードは「ひいっ」と悲鳴をあげて後ずさった。
「風、風穴って……」
たった今、見たアッパーカットのスピードと切れを見た直後だけに大袈裟だと笑い飛ばす気にはなれない。
「私がもたもたしてたばっかりに、エルマにこんな想いをさせてしまって本当に悪かったわ。ごめんなさい」
長い睫毛を伏せて悔しそうにいうアマーリアの肩をヴィクトールが優しく抱き寄せた。
「いや。おまえは悪くない。そんなことより俺さえその場にいたらぶっ飛ばしてやったのに悪かったな。学院に戻ればザイフリートの派閥のやつらといざこざが起きるかもしれないことくらいは予想できたはずなのに」
ヴィクトールにエルマがまた抱きつく。
「ううん。ヴィクトール兄さまは悪くないわ。エルマが悪いの!」
「いいえ。私よ。私がラルフさまの弟君だと思って変に躊躇ってしまったからいけないのよ」
(どのルートでもレイフォードがぶん殴られるのは確定してるっていうことか)
三人のやりとりを見ながらラルフは、こそこそとルーカスの後ろに隠れた異母弟を見た。
一応兄として、
「怪我の具合は大丈夫なのか、レイフ」
と尋ねる。
レイフォードは真っ赤になってラルフを睨みつけた。
そこで初めてラルフの存在に気付いたらしいアマーリアが、
「えっ、ラルフさま?」
と真っ赤になって頬を両手で押さえた。
「やだ。私ったら」
恥ずかしそうにアンジェリカに駆け寄ってその背中に隠れる姿はどこから見ても可憐な少女で、とてもたった今、男相手に「顔に風穴を開けてやる」と凄んでみせたのと同一人物とは思えない。
「あの、どうしてここに?」
「バランド公爵令嬢からあなたがここにいて、その、揉め事に巻き込まれていると聞いて……」
「それでわざわざお仕事中に来て下さったのですか?」
どちらかというとアマーリア本人よりもヴィクトールのただならぬ形相の方が心配でついてきたのだが、それはここでは言わなくてもいいだろう。
「はい。お怪我はありませんか?」
「私はどこも……」
「そうか。良かった」
そういってお互いに口ごもって見つめあう二人を見て、アンジェリカがため息をついた。
「はいはい。人を挟んで見つめ合わないでくれます?」
自分の背に隠れていたアマーリアをラルフの方に押し出す。
「その女が怪我なんかするわけないだろう! 殴られたのは僕なんだからな!!」
レイフォードがまた勢いを取り戻してラルフにくってかかった。
その態度からは、日頃から異母兄であるラルフに対してどのように接しているのかがよく分かった。
「そもそもエルマが手を出したのは、君がアマーリアの婚約者であるラルフを侮辱するようなことを口にしたからだと聞いたが」
ヴィクトールが言うとレイフォードはあからさまに怯んで目をそらした。
それでも小声でぼそぼそと、
「侮辱なんて何も。本当のことを言っただけです」
と反論する。
「なるほど。よく分かったよ。この卑怯者」
「なっ!?」
レイフォードが目を剥いた。
「つまり君は優秀な異母兄のラルフが公爵家の令嬢と晴れて婚約したことが妬ましくて、エルリック殿下とそこのルーカスの威を借りて公の場で彼の名誉を汚すようなことを言ったわけだ。卑怯で卑劣で最低だな。クルーガー伯爵家の名を汚すのもたいがいにしておけよ」
「な、な、な……! いくら公爵家の息子だからって言っていいことと悪いことがあるだろう! 侮辱罪で訴えてやるからな!」
「おや。本当のことを言えば侮辱には当たらないんじゃなかったのかな。たった今君が言ったんだが」
顔を真っ赤にし、目を白黒させて絶句しているレイフォードを見てルーカスがいまいましげにため息をついた。
「引っ込んでいろ。レイフォード。そいつをまともに相手にするな」
「よう。ルーカス、久しぶりだな」
ヴィクトールが改めて声をかけると、ルーカスは憎々しげに顔を歪ませた。
「ふん。相変わらず粗雑な男だな。騎士団なんかに入ってますます酷くなったんじゃないか?」
「そういうおまえは全然変わらないな。公爵家の息子だっていう肩書を振り回してそっくりかえってるところなんかほんと変わってない」
ヴィクトールはからっとした声で言ってラルフを振り返り、ひらひらと手を振って見せた。
「ラルフ。アマーリアたちを連れてここを出ろ。あとは俺とルーカスで話すから」
「話す? その場にもいなかったやつが何をどう話すっていうんだ。引っ込んでいて貰いたいな」
「そういうおまえこそ、学院なんかで何してるんだよ。俺と同学年だったから確か今年で二十七だよな? まさか今まで留年してたとは知らなかったわ」
「そんなわけないだろう! 俺は次期王太子殿下であるエルリック殿下の身辺に危険がないようにと父に言われて、特別に警護についていたんだ」
「へえ。エルリック殿下の身辺警護ね。普通に護衛の騎士をつけた方がいいんじゃないのか。おまえの腕がもしもの時に役に立つとは思えないが」
「ふん。危険といえば暴漢か刺客に襲われることしか想定出来ないのか。さすがは武術だけが取り柄の脳筋だけのことはあるな」
ルーカスが馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「俺がここにいるのは、エルリック殿下に悪い虫が寄ってこないようにする為にだよ。変な女を近づけてアドリアン殿下の二の舞みたいなことになったら妹が可哀想だからな」
「成程。虫よけか。嫌われ者のおまえがぴったりついていれば確かにエルリック殿下の側には誰も寄ってこないだろうな。これ以上ない適任だ」
バチバチッと火花を散らして睨み合う二人を気にしながらもラルフはアマーリアたちを外へ連れ出した。
さすがにこれ以上暴力沙汰になることはないだろうし、泣いて怯えているエルマを争いの現場から離してやりたかった。
アマーリアは不服げに兄を見たが、
「あとで話すから、今日はおまえもうエルマと一緒に家に戻ってろ」
とヴィクトールに言われて不承不承頷いた。
「どうでもいいからドアは直して下さいね」
マチルダ先生がうんざりしたように言う。
「そうだぞ。器物破損に不法侵入。いったい幾つ法を犯してるんだ。近衛騎士の隊長が聞いて呆れる」
「おまえこそ婦女に対する暴言、侮辱、名誉棄損。さあて、ただドアを一枚壊しただけの俺とどっちの罪が重いのかな。おまえの自慢の父上に泣きついて司法院に持ち込んで貰うか?」
「いいからドアを直して。ほら、とりあえず片付けて下さいな」
「おまえこそ、その何かっていうと力に訴える暴力的なところは昔のままだな。まるで山猿だ。おまえの妹も同じだな。この山猿兄妹」
「うちが山猿兄弟ならおまえのところはゴマすり狐の腰巾着だろ。エルリック殿下にくっついてるのはいいが、あんまりオマケが外れだと殿下ご自身もまわりから見限られるぞ」
「だからドアを……」
「殿下を侮辱したな。それこそ王室侮辱罪だ」
「アドリアン殿下を女狂いの色情狂のバカ、アホ、大マヌケで頭空っぽ、脳みそのかわりに木屑が詰まってるとまで言ったおまえに言われたくないな」
「そこまでは言ってない」
「ドア直して」
ヴィクトールとルーカス、そしてマチルダ先生の言い合う声が交錯するのを背中に聞きながら、アマーリアはラルフに連れられて医務室をあとにした。
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