クリストファー・ヴァン・ストーカーの日記 五日目(1)
5月7日 曇り 午前中小雨。
今日は午前中に雨が降ったせいか、なんだか朝から気が重い。
いや、この気の重さは天気のせいばかりではなかろう。
そうだ。昨夜も俺は前代未聞な予想外の事態のために、あのクソ忌々しいヴァンパイア退治に失敗したのだ。
神よ、あなたが創りたもうたこの世界に、果たしてこんなことがあってもいいものなのか?
もう、完全に常識を逸している!
思い起こすにどうにも感情が高ぶってしまうが、この日記は後々のための記録なので、気を静めて、なるべくちゃんと順を追って書こう。
もしかしたらこの日記が、偉大なるヴァンパイア・ハンターとして歴史に名を残すことになるであろうこの俺様の生の記録として、後年、ベストセラーの一大伝記を書く際の一級資料となるかもしれない。
そして、19世紀を代表する偉人クリストファー・ヴァン・ストーカー直筆の貴重な史料として、幾千年後までも大英博物館の付属図書館で保管されることとなるに違いない。
さて、話を戻すが、一昨日の晩も常識を無視した敵の思わぬ体質のために、香や薔薇、教会で祈祷してもらった聖水でさえ、ヤツを倒すことのできなかった俺は、昨夜の退治により一層、神の御力の宿りし物を…否、まさに神の象徴そのものといえる物で戦いに挑むことにした。
即ち、十字架である。
それも、そんじゃそこらのものじゃなく、何かこう、ものすごくありがた味を感じるような、威厳のある、大きくて立派なものでだ。
そこで俺が目を付けたのが、昨日、聖水を祈祷してもらった街の教会にある十字架だ。
その十字架は人の顔ほどもある大きさで、全体が金で塗られ、所々輝く宝石が散りばめられた、それはたいそう立派なものである。
これならば申し分ないだろう。
最早、けして負けるわけにはいかない三度目の決戦に、この十字架を我が相棒にしようと心に決めた俺は、ほんのちょっとの間、その十字架を教会から拝借することにした。
貸してくれるよう頼んでもダメそうだったので、まあ、致し方がない。
ただ、後で返しに行った時、借りただけだとういうのに泥棒と間違われていろいろと大変な騒動になったのだが、この品行方正な俺様を泥棒に思うとは、まったくもってけしからん話だ。
あの教会の坊主ども、人を見る目をもっと養った方がいいぞ?
にしても、危うくもう少しで豚箱に放り込まれるところだった。
いやあ危ない。危ない。なんとか誤魔化せたことを神に感謝する。
ま、そうして武器を手に入れた俺は、昨夜もノスフェル卿の待つ城へと気合充分に向かったというわけだ。
城への侵入はできず、相手が城から出てくるのを待つしかないことはもうわかっているので、昨日のようには急がず、早い夕食を宿屋ですませてから(ほんとは〝デアルグ・デュ〟のうまい飯が食いたかったが、あそこへは近寄りがたい……)、日が暮れるくらいに城へは到着した。
なんといっても、腹が空いては戦ができねえからな。
そして、日が沈み、闇が世界を覆った頃、ノスフェル伯爵は前夜と同じように城正面の大門を開けて、のこのこと俺様の前に姿を現したのだった。
城から出てきたヤツは、俺の姿を見るや開口一番、「今度は、どんな手段で退治にきたのか?」と、こう訊いてきた。
やはりヤツも優秀なヴァンパイア・ハンターたる俺様が次に何をしかけてくるのか、内心、かなり怖れているに違いない。
だが、俺は厳しく非情な世界に生きるヴァンパイア・ハンター……相手がヴァンパイアとなれば容赦はしない。
しかも、敵は杭も聖水も効かない、ヴァンパイアの中でもずば抜けて恐ろしい化け物だ。
俺はマントの下に隠し持っていた十字架をおもむろに取り出すと、天高く、高々とヤツに向かってそれをかざした。
すると、ノスフェル伯爵は月明かりに輝く十字架から目を背けたのである。
やはり、特異であるとはいえヴァンパイア。神の威光は恐ろしいらしい……。
たじろぐ伯爵の様子に俺は一瞬そう思い、さらにヤツへと十字架を手に詰め寄ったのだったが、次の瞬間、またしても……またしても予想外のできごとが起こったのである!
なんと、ヤツは自ら十字架の方へ近付いて来るや、俺の持つ十字架に祈りを捧げたのだ!
これにはさすがの俺も唖然としてしまった。
もう、完全にポカン顔だ。
一方、このこれまで以上に予測不可能な展開に呆然と立ち尽くす俺を置きざりにして、ノスフェル伯爵は街へと下りる道を悠然と歩いて行こうとする。
ここで、そこいらの凡庸なヴァンパイア・ハンターならば戦意を喪失し、ただ敵を見送るだけで、もう何もできないところであろう。
だが、俺は違う。
こんな不測の事態が起きた時でも戦えるよう、もしもの時の次なる一手もちゃんと用意してあるのだ!
そこが、スペシャルな俺様と普通のヴァンパイア・ハンターとの違うところである。
俺は気を取り戻すと、さっさと立ち去ろうとするノスフェル卿を呼び止め、隠し持っていた秘密兵器をヤツへと突きつけた。
万が一に備えて用意していた秘密兵器――それは、十字架と同じ教会でもらってきた聖餅である。
もちろん、もらったのは十字架を拝借する前だ。後だったら、とてもそんなことは頼めなかっただろう。
実は昨日の朝、城の前で意識を取り戻して街の宿へと帰る途中、通りかかった教会でミサ…いや、ここいらの教会は
こうして何かの折が実際にあったし、さすが俺様だ。
俺は白い聖餅を片手に握り、よくヤツに見えるように突きつける。
カトリックの無発酵のものと違って、こちらのものは発酵させて作るらしく、一見、普通の白いパンのように見える。
最初、先方は俺が何を持っているのかわからない様子だったので、ご丁寧にも「これは、教会でもらってきた聖餅だ」と説明までしてやった。
聖餅とはワインとともにキリストの血肉とされるもの。さすがにこれには、ヤツも恐れ慄くに違いない。
そう……俺は確信を持って、その時、そのように思っていたのだ。
常識的に考えれば、そうに決まっている……。
だが、しかしだ。さらにヤツはとんでもない行動に出る。
ヤツは、食いやがったのだ。
踵を返し、不意に俺の方へ近付いて来たかと思うと、俺の手から聖餅を取り上げ、それを食いやがったのだ。
ヴァンパイアのくせに神の肉体たる聖餅を、パクっと、その鋭い牙の生えた口で食いやがったのである!
これはもう、ヴァンパイアの弱点とされるものに耐性が強いとか、そんなレベルではない。
ヤツは、ノスフェル伯爵はそんなことをして平気なのか?
いや、聖餅を食った後、そのまま歩いて行ってしまったから平気は平気なのだろう。というか、なんだかおいしそうに聖餅を食べていたぞ?
セイヨウサンザシの杭も、香も、薔薇も、聖水も、十字架も、そして聖餅ですらものともしない。
なんなんだ? この非常識極まりないヴァンパイアは!?
俺の理解を遥かに凌駕したこのふざけた展開に、その夜はそのままヤツを取り逃してしまったが、ここで、俺はある結論にようやく辿り着いた。
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