第14話 14、マリアの仕込刀
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マリアの夜のお仕事である「正義の味方活動」はそれほど成果を上げていなかった。
真夜中に街をオートバイで徘徊しても路上で悪漢と出会う機会は多くなかった。
それでもマリアは最初の1年間で4件のカツアゲ現場に遭遇し、悪者を追い払った。
正確に言えば悪者はその場にうずくまり被害者はその場から逃げることができた。
マリアはシースルーケープを被って空中に浮遊し、悪者の背後から200㎏の体で体当たりかますのだ。
体当たりされた悪漢は3mほど飛ばされ路上に顔面を打ちあてて血を流す。
むち打ち症も起こしていたかもしれなかった。
悪漢が3人いれば3人。
5人いれば5人が顔を血だらけにして数十秒後に起き上がる。
その間に被害者はその場から逃れたのだった。
マリアに疑問が生じたのは5件目の事件の時だった。
以前痛めつけたことのある男たちが同じようにアベックを脅していた。
悪者は痛めつけても傷が治れば再び悪いことをするものらしい。
彼らは悪い種なのだ。
マリアは悩んだ。
悪い種を殺して社会から除去することが最も容易だが、イスマイル様からは例え悪人であっても人を殺すことはダメだと禁じられている。
川本五郎様やイスマイル様のように悪人の両眼を潰すことは容易だ。
マリアのスピードがあれば相手がマリアを見る前に相手の両眼を抉(えぐ)り出すことができる。
しかしながら大人になって視力を失った人間はこの社会ではまともに生きてゆくことができない。
一生、だれかの保護のもとに生きていかねばならない。
それは社会の負担になるし、全盲は少しかわいそうな気がした。
マリアは悪者には悪者の印が付いていないことが問題だと思った。
悪いことをした人間はその後の人生において代償を払わされても文句は言えないだろう。
どの程度の代償かは時代と国の制度に依る。
日本国の江戸時代には犯罪を起こした者の額に「悪」とか「犬」の文字を刺青(いれずみ)することが行われていた。
大昔の中国大陸でも軽い刑罰の一つとして額に刺青をする仕置きがあった。
マリアは悪者には誰にでも分かる印を付けることにした。
死なず、人間の機能を損なわず、社会の負担にもならない、誰にでも分かる印だ。
額の刺青は良く判る目印だが、瞬時に刺青することはできないし、刺青は消すことができるし化粧で隠すことができる。
マリアは悪人の鼻を切り取ることを選んだ。
耳を切り取ることも考えたが耳がなければ眼鏡をかけることができないし、髪の毛で傷を隠すことができる。
外鼻が無くなっても臭いの機能は残るし、加湿することや空気中のゴミを防ぐことはマスクを掛けることで対応できる。
顔の見栄えはかなり落ちるが生活にはほとんど支障がない。
しかも一目で悪人だとわかる。
マスクをしたままでは食事ができない。
マリアは悪人の鼻を切り落とすため、正義の味方の装束(コスチューム)に刀と幅広の帯を加えた。
移動時には昔の忍者のように刀を紐で背負うのだ。
マリアが購入した刀はほとんど反りのない、鍔(つば)のない脇差(わきざし)で、長さが59㎝、反りが3㎜、柄(つか)の中の茎(なかご)の銘文には「津田越前守助廣、寛文十年八月日」と彫られていた。
マリアは刀を背負い紐をつけた市販の60x900㎜のワニ皮柄の紙筒に入れておいた。
オートバイライダーが長い紙筒を紐で背負って街中を走ることはそれほど奇異なことではない。
ましてや外交官ナンバーを着けたオートバイならなおさらだ。
大事な極秘図面を急送する必要がある場合かもしれない。
それに外交官は持ち物を検査されない。
マリアは瞬時に鼻を切り落とすためタワーマンションの居間で剣術の練習を始めた。
普通の人間にとって刀は重い。
重い刀を釣竿のように素早く振り回すことはできない。
マリアにはそれができた。
マリアの最初の一振りは空気を切り裂きパンと言う音がした。
鞭の先端が音速を越えた時に出す衝撃波音と似ていた。
マリアは脇差を背中で帯に柄(つか)を下に向けて差し込んだ。
鼻を切るには柄を右手か左手で逆手に握る、いわゆる「逆手斬り」が合理的だと思った。
マリアは抜刀と同時に納刀も練習した。
それは参考にした時代劇の映画を見たからだった。
「座頭市」というタイトルのその映画の中で、剣の達人である主人公は一瞬で抜く手も見せずに抜刀し、分厚い将棋盤を半切し、納刀していた。
それは普通の人間には難しいだろうが、練習すればマリアにとってできないことではなかったし、マリアは抜き身を持った姿を人目に晒したくはなかった。
川本五郎様やイスマイル様が相手の眼球を抉り出す時も周囲の人はその動作が見えなかったそうだ。
川本五郎様に至っては右手でコインをトスして右手でそれを受け取る間に脇の拳銃を取り出し、17体のマンターゲットの額に全弾をフルオートで命中させてから拳銃を収められたそうだ。
普通の人間には0.1秒の動きは見えない。
脳が形を認識するには0.1秒が必要だからだ。
フィンガースナップの指の動きが見えないことから明らかだ。
マリアは天井から釣り糸を垂らし、釣り糸の先端に1㎝毎に印を付けた割り箸をT字形に結んだ。
マリアは体幹を動かさないで抜刀し、脇差の先端で割り箸の先端を1㎝だけ切り落としてから納刀するという動作が0.1秒以内でできるように練習した。
最初は難しかった。
刀を鞘に直接入れる納刀がうまくいかなかった。
左手で鞘の先端の鐺(こじり)を握ることで鯉口(こいぐち)の位置が固定され、納刀できるようになった。
疲れを知らぬ一夜の練習でマリアは割り箸を0.1秒以内で印の位置で切り落とすことができるようになった。
2夜目になるとマリアは左右に振れている割り箸を切断できるようになった。
釣り糸を捻って割り箸を回転させている状態でも切断できるようにもなった。
マリアのこれらの練習は重要だった。
刀を使う以上、失敗すれば相手の顔をそぎ落としてしまうからだ。
それでは相手は死んでしまう。
3夜目になるとマリアは練習に動きを加えた。
もともとマリアたち兵士は人間と対峙する時には、地面を蹴って前進し、相手の直前で左右に方向転換し、再び反対方向に跳んで相手の背後に位置する戦法を取る。
そうすれば相手は目の前から敵が突然消えてしまったように見える。
相手の直前で横に飛ぶことが重要で、遠くで左右に飛んでも体は方向変換の一瞬だけ止まるので人間は見ることができるのだ。
マリアは素早く横に移動しながら天井から吊るされた動く割り箸を切断できるようになった。
マリアの脇差が切った最初の鼻は中学生の鼻だった。
その日、マリアはいつもより早めの夜の8時頃にマンションが林立する街をオートバイで走っていた。
マリアは近くのマンションの踊り場で奇妙な動きをしている人間を見つけた。
その人間は踊り場から身を乗り出したり引っ込めたりしていた。
何か躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)している様子に見えた。
マリアはオートバイを止めてヘルメットを外し、その人間の様子を観測した。
その人間はやがて意を決めたように踊り場のコンクリート仕切りに足を掛けて乗り越えようとした。
マリアはオートバイの自立ボタンを押してから全速力でマンションの方に向かって駆けた。
自立ボタンを押されたオートバイはスタンドなしで自動的に二輪起立していた。
マリアがそのマンションの踊り場の下に到着した時、その人間は無言で落下している最中だった。
マリアは少し空中に浮いてからその人間を抱き止めた。
その人間は中学生くらいの男性だった。
その中学生は自分が助けられたことに驚いた様子だった。
それも美女の胸の中に抱かれている。
不思議なことに自殺を実行したという精神状態でもマリアの暖かい乳房が感じられた。
マリアは言った。
「君、自殺したら死ぬのよ。人生は楽しいこともあるの。それを楽しんでからにしたら。」
「・・・。」
「どお、自殺は怖かったでしょう。もう家に一人で戻れる。」
そう言ってマリアは中学生を地面に下ろした。
「・・・。」
中学生は腰が抜けて立つことができなかった。
「分かったわ。家にまで送ってあげる。お家は飛び降りた8階なの。」
中学生は黙って頷(うなず)いた。
マリアはしゃがみこんで中学生の片腕を肩に掛けさせてその腕を掴み、もう片方の腕を中学生の腰に回して立ち上がった。
中学生の足は浮き上がっていた。
マリアはそんな状態で8階まで階段を上った。
8階の踊り場に近づいた時中学生が言った。
「お姉さん、ありがとう。僕、もう一人で歩けると思う。」
「どういたしまして。踊り場で降ろすわ。」
「すみません。」
8階の踊り場で中学生を下ろしてからマリアは言った。
「どう、自殺って怖かったでしょ。」
「うん。」
「学校でいじめられたの。」
「うん。」
「しばらく学校に行くのを止めてもいいのよ。この時代は家でも勉強できるわ。」
「少し、考えてみる。」
「もう自殺しようなんて考えてはだめよ。」
「怖かった。・・・もう絶対にしない。」
「了解。それじゃあね。」
マリアが階段をゆっくり下りて地上に着くと3人の大柄の中学生が階段近くの茂みの前に立っていた。
「なんだ、自殺していないじゃあないか。あの野郎ビビりやがったな。」
「せっかく第一通報者になってやろうと来てやったのにな。」
「明日学校に来たらお仕置きをかけないとだめだな。」
「そういうことだ。」
マリアは3人の会話を聞いて3人の中学生に言った。
「君たちは8階の男の子と同級生なの。」
「なんだよ、お前は。呼んじゃあいないよ。女だと思って安心してるんじゃないぜ。俺たちは未成年だからな。お前を痛めつけてもたいした罪にはならないんだ。」
「それは怖いわね。ごめんなさい。君たちが自殺って言っていたので気になったの。あなたたち、あの子に自殺を強要したのね。」
「それがどうした。冗談で言っただけさ。あいつは気が小さい弱虫なんで言っただけだ。自殺の一つもできんで。」
「君は冗談って言ってるけど、自殺を確認しに来て、第一通報者になるつもりだったのね。」
「あいつとは友達だからな。たまたま遊びに来て自殺を発見したって不思議じゃない。」
「ごめん。君たちはどうも悪い種みたいね。お姉さん、怖くなったのでこれで失礼するわ。天罰には気をつけてね。『悪い種』は雷に打たれるらしいわよ。昔の映画にあった。」
マリアは片手を挙げて振りながら少年達から足早に離れて行った。
後ろから少年たちの悪口が聞こえた。
マリアはオートバイに戻るとオートバイ自立ボタンを押して自立を解除し、スタンドをかけてからヘルメットをオートバイに残して茂みの方に歩いて行った。
女性でも茂みをトイレに見立てる場合がある。
茂みに入るとマリアは背負っていた紙筒から脇差を取り出し、帯に挟んでからシースルーケープを広げて身を隠し、浮遊してからマンションの方に飛行した。
マリアは少し怒っていた。
あんな中学生は成長しても確実に悪人になる。
善人面をした悪人になる。
日本国の法律ではなにもできない悪い種だ。
少年たちは徒歩でマンションから離れていく途中だった。
通常、少年達は自転車を使うのだが流石(さすが)に自転車は目立つと思ったのであろう。
マリアは少年たちの少し後ろの道路ぎわに着地し、シースルーケープを格納してから早足で少年たちの背後に近づいた。
マリアは背後に着くと同時に左前に跳び、少年たちの前を横切るように右に飛びながら脇差で3人の少年たちの鼻を切断し、そのまま道路柵を飛び越えて茂みに入り、シースルーケープを広げて身を隠した。
マリアはその後、空中を移動して出発点の茂みに戻り、脇差を紙筒に戻し、オートバイまでゆっくり歩いて戻った。
マリアは何事もなかったかの様にヘルメット冠り、オートバイをUターンさせてから逆の方向に向かった。
3人の中学生は最初、何が起こったか分からなかった。
目の前で何かが通り過ぎて風が起こり、しばらく経つと血が唇を濡らし、小さな痛みが鼻あたりから生じた。
小さな痛みはあっという間に強烈な痛みになり、口の周りの血は道路に滴(したた)り落ちた。
少年たちは鼻がなくなっているのを自分の手で知り、互いの顔を眺めて3人が鼻から血を吹き出しているのを互いに確認した。
「鼻がねえ」が少年たちの最初の言葉だった。
3人は賢明にもすばやく片手の袖で傷口を覆って出血を止め、足早に自宅に戻って行った。
3人は愚かにも切られた自分の鼻を拾って行かなかったし救急車を呼ぶこともしなかった。
救急車を呼んでいたら救急隊員は必ず落ちていた鼻を拾っていただろうし、適切な処置を素早くしていただろう。
鼻を拾ってさえいれば鼻を着けることは容易だった。
少年達に降りかかった突然の不幸はニュースにならなかった。
ニュースに載れば少年たちがなぜそんな傷を負ったのかが注目される。
少年3人が弱い同級生をいじめていることは中学校内では有名だった。
3人の少年は次の日から学校に来ることはなかった。
突然の不幸な事故にあって入院したのだった。
傷が治っても同じ中学校へは通いづらいかもしれない。
マリアは悪者を痛めつけてもニュースにならないことを既に知っていた。
過去の悪漢への暴行はどれもニュースにならなかった。
悪人は悪いことをしている最中に受けた被害は警察には通報しないらしい。
マリアは脇差の先端5㎝に着いた僅かな血糊をマンションの居間で丁寧に拭い取った。
刃こぼれは見えなかった。
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