第13話 13、学会発表
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マリア・ダルチンケービッヒは研究生になって半年後に最初の論文を投稿した。
加速度系におけるデジタル時計の不一致に関する簡単な論文だった。
ボールペンの軸に入れるような市販の安価なデジタル時計を透明な樹脂で固めて分離用超遠心機のバーティカルローターに入れて回転させ、取り出してから回転させなかった時計の時刻を比較するという簡単な実験だった。
マリアは4個のデジタル時計を1単位として使い、反論ができないような組み合わせで実験した。
時刻の正確な比較には高速度カメラを使って4個の表示数字の変化を計測した。
マリアは論文で「1、用意された4個の時計は同じ時間間隔で時を刻んだ。2、遠心加速度に晒(さら)された時計は遅れた。3、遅れた時計は遠心後は他の時計と同じように時を刻んだ。」とした。
そして最後には「デジタル時計は遠心加速度状態では装置の進行が遅れる」と述べた。
決して「遠心加速度状態では時間進行は遅れる」とは書かなかった。
マリアの論法はレフリーが付け入る隙間がなかったので論文は(しぶしぶ)アクセプトされた。
マリアはその半年後、2報目の論文を書いた。
やはり超遠心機を使った実験だった。
化学科にある固体物性研究室に出向き大昔にイスマイル・イルマズが作ったリチウム包摂カーボンナノチューブの単結晶を作らせてもらい、小さな単結晶を実験の試料として使った。
単結晶を遠心処理してから薄切し、試料内の元素量を分析電子顕微鏡で測った。
分析電子顕微鏡とは透過電子顕微鏡の電子ビームが試料に当たる時に出る特性X線を測定して試料内の元素の分布を表示する装置が付いている電子顕微鏡だ。
論文では「リチウム総量はわずかに減少し、6リチウムが増加し、ヘリウムの痕跡を観測した」と述べた。
この実験はもともとそうなることが分かっていた実験だった。
大昔にイスマイル・イルマズが重力遮断パネルを作る前に造船所で実験したものだった。
イスマイルは結果を論文で発表していなかったのでマリアが何十年後に発表することにしたのだ。
マリアはこの実験で7リチウムの割合は減少し、6リチウムとヘリウムが生じたと事実だけを述べた。
マリアは論文の投稿前にイスマイルに投稿の許可を求めて静岡の川本研究室に行った。
イスマイルはマリアに笑顔で言った。
「マリア・ダルチンケービッヒだったね。てっきり正義の味方を続けているのかと思っていたよ。君が研究を始めていたとは驚いたね。正義の味方は続けているのかね。」
「はい、イスマイル様。正義の味方は午後11時から午前5時まで毎日続けております。日中に悪漢を見つけるのは少し難しいと気がつきました。私はロボットでも研究活動ができるかどうかを知りたくて研究生になりました。研究生になれた機会は偶然でした。」
「そうか。面白い展開になったね。確かに。考えてみたらロボットだって研究できるはずだ。今の僕にはそれができない理由が見つからない。・・・論文は投稿していい。マリアは今後も研究を続けて論文を出し続けてもいい。」
「ありがとうございます、イスマイル様。論文は投稿します。研究は行き詰まるまで続けます。」
「そうしなさい。だがマリア、あまり目立たないほうがいい。人間は僻(ひが)みやすい。血が通(かよ)わないロボットの方が人間より優秀だとは認めたくないと思う。生理的に排除の対象となる異端の子になる。敵も増える。だが論文を出し続ければ人間はマリアの存在を認めざるを得なくなるようになる。研究成果は偉大だ。だれも反証以外は否定できない。」
マリアの2報目もアクセプトされた。
上坂大地は2年目の春になると国家公務員総合職試験を受験して合格した。
これで修士課程を無事に卒業できれば国家公務員のキャリア組にもぐりこむことができる。
試験は4月だったが、上坂は6月の合格が発表されてから初めてマリアに合格を伝えた。
「まあっ、おめでとう。総合職試験って難しいんでしょ。」
「まあね。受験数は多くて合格数は少ないんだ。」
「上坂さんはどこに行きたいの。」
「まだ決まっていない。でも確実なのは外務省には行かないし行けないってことだ。」
「どうして。」
「川本五郎の伝記を読んだよ。僕は川本五郎のように何十カ国語も話せないし、外務省に入れるほどの成績は取っていないような気がする。」
「決まったら教えてね。」
「もちろんだ。」
3月と4月の間には色々な学問団体の年会が開かれる。
マリアたちの属する化学会の年次総会もこの時期に開催される。
大学は春休みなので講義もなく出張がし易いのだ。
その年の年次総会は東京で開催されることになっていた。
馬場先生は上坂とマリアに学会発表するように言い渡した。
二人に学会発表を経験させるためだった。
上坂はこれまでの実験を適当にまとめて発表することにし、マリアは2報目の論文の内容を発表することにした。
マリアの論文はアクセプトされていたがまだ一般公開されていないので発表に問題はなかった。
二人とも口頭発表で発表時間は10分間だった。
二人は10枚ほどのスライドを準備して教室で発表の練習をした。
馬場教授は満足そうだった。
「いいねえ。ようやくミーティングルームで発表練習をするようになった。一人前の教室になったってわけだ。二人とも気楽にな。口頭発表なんてあっという間に終わってしまうから。」
上坂大地が言った。
「映像で見たことがあります。質問されたらどうしたらいいのでしょう。」
「どおって、答えてやればいいのさ。あまり上手に答える必要もない。君たちがまだ初心者だということは皆んな分かるからね。知ったかぶりしたり横柄な態度でなければ皆んな優しく対応してくれるよ。君たちは初心者だから初心者のように振る舞えばいい。まあ会場から質問が出るとは思わんがね。座長が役目として質問するだけだ。分からなければ『まだ分からない』って素直に言えばいい。」
「分かりました。経験を積んで参ります。」
「それでいい。」
発表当日、上坂大地は紺のスーツを着、ネクタイをして発表し、マリアは紺のタイトスカートに白のブラウスと黒エナメルの低めのハイヒールで発表した。
上坂の発表では予想通り会場からの質問はなく、座長はおざなりの質問をしてその場を取り繕った。
マリアの発表に対しては会場内から質問があった。
それほど若くない男だった。
「東大の大島です。7リチウムが減って6リチウムとヘリウムの痕跡が検出されたと言うことは7リチウムが核変化したと言うことでしょうか。遠心しただけで核変化が起こるなんてとても考えられません。」
マリアはそれに対して答えた。
「試料を変えて何度実験しても結果は同じでした。ご質問についての答えは『そうかもしれません』です。『核変化は考えられない』とのことですが、私も同感です。これが新知見であれば幸いです。この発表の論文は既にアクセプトされておりますからいずれ公表されると思われます。」
質問者は追加の質問をしなかった。
本当に聞きたければ後で個人的に発表者に聞けばいいことだ。
質問者はマリアの発表に対して興味を持ったと言うことを聴衆に示したかったことになる。
それ以上の質問を続けることは分刻みで詰まっている時間スケジュールが組まれている口頭発表では嫌われる。
多くの聴衆のいる会場で長々と討論するのは控えた方がいい。
マリアが自分の発表を終えて馬場先生と上坂大地の隣の席に戻ってくると馬場先生がマリアに言った。
「マリア君、疲れていないと思うがこの部屋を出て前のロビーで暫く休んで来るといい。」
「どうしてですか、先生。」
「うむ、会場から質問があったろ。あの青年はもっとマリア君に質問したいはずだ。でも口頭発表の場で長々とやり取りを続けるのは周りが迷惑をする。それで次の質問は止めたのだと思う。マリア君の受け答えではもっと質問したいと思うだろうしな。マリア君がロビーで休んでいれば彼はマリア君に個人的に質問できるわけだ。もっとも、マリア君が質問を受けたくないと思えばここに居ればいい。そのうち相手は諦(あきら)めるから。」
「私、ロビーで暫く休んでおります。」
「それがいい。」
馬場教授の予想通り、マリアが会場の出入り口近くのソファに掛けているとマリアに質問した青年が近づいてきてマリアに行った。
「失礼ですがマリア・ダルチンケービッヒ先生でしょうか。私は東京大学工学部理工学科核応用教室の大島巌(おおしまいわお)と申します。先ほど質問した者です。」
「マリア・ダルチンケービッヒです。先ほどは私の発表に興味を持っていただきありがとうございました。」
「少し質問の続きをしてよろしいでしょか。」
「どうぞ。・・・あっ、どうぞお掛けください。」
その男はマリアに対面するソファに浅くかけて言った。
「先生は結晶を遠心操作することによって結晶の原子組成が変わったと言う事実についてどのようにお考えですか。」
「あのう、私はまだこの分野に入って1年にもならない初心者です。今の私は実験した結果を発表しただけの状況です。もし実験結果が正しいとしたら大島先生ならどのような機構でそうなるだろうとお考えですか。教えてください。」
「それが分からないのでここに来ました。私はたまたま化学会年会の予稿集を見る機会があり、先生の予稿を読むことができましたので自分には場違いなこの学会に参加しました。」
「ありがとうございます。大島先生は7リチウムの最外殻電子が核と合体したらどのような核変化が起こると思われますか。」
「そんなことは通常では絶対に起こりません。でもそうなったとしたらか・・・とりあえず電子は核の陽子と合わさって中性子になるだろうから最初は原子量が7の7ヘリウムですか。でも7ヘリウムは核が重すぎて非常に不安定だから直ちに中性子を放出して6ヘリウムになるはずです。6ヘリウムの半減期は一秒くらいでしたか。観測できないことはありません。でもそれでも重すぎるからからベータ崩壊で電子を放出して結局貴重な6リチウムイオンになります。先生が発表された実験結果と同じになりますね。」
「リチウムイオンだったら最外殻電子はないですね。」
「そうです。」
「先生のお話をお聞きして一つの仮説が立てられそうです。『超遠心処理は7リチウムの最外殻電子を核に合体させた』という作業仮説です。」
「あの、質問でも言いましたが、超遠心処理でなぜ最外殻電子が核と合致するのでしょう。考えられません。」
「私が実験で使った試料は重力遮断ができる結晶です。結晶の重力遮断能力は過負荷をかけると突然消えてしまうという事実があります。ですから重力遮断をしていた7リチウムの外殻電子が無くなったから重力遮断能力はなくなったのだと考えられます。今回の実験は超遠心で加速度の過負荷を作り出した実験です。7リチウムが6リチウムイオンになって電子が無くなったなら重力遮断能力が無くなっても当然です。」
「あのう、先生がお使いになった試料は重力遮断ができるのですか。」
「実際に試してはおりませんが同じ構造です。化学科の固体物性講座で作らせてもらいました。」
「驚いた。・・・7リチウムの最外殻電子が重力遮断をしているのですか。」
「そうだと思います。」
「どうして電子が重力遮断できるのですか。」
「電子自体は重力遮断しないと思います。核の周りを回っている電子の状態がするのだと思います。」
「すみません。ますます分からなくなりました。先生は過負荷の重力遮断をすれば7リチウムの最外殻電子が核に合わさるとおっしゃるのですか。」
「あくまで作業仮説です。超遠心処理で過負荷の遠心加速度に晒(さら)された7リチウムの電子は核と出会い、結果として6ヘリウムと加速度遮断の外殻電子を失った6リチウムイオンになったのです。」
「また同じ質問ですが、遠心操作だけで原子構造が変わるのでしょうか。」
「分かりません。・・・私の説明はそう考えると結果を説明するのが便利な作業仮説にすぎません。先ほどからの大島先生のご質問は結局遠心操作が核変化を起こすはずがいないという信念に基づかれてなさっていると思います。確かに遠心操作は馴染みの操作です。でも大島先生の質問は結局、重力遮断が原子構造を変えるのかという質問と同じです。重力遮断では原子構造が変わっているのかもしれません。変わっているという仮説も論文として発表されていると思います。」
「本当ですか。」
「定かではありませんが数十年前の論文だと思います。重力遮断をしている原子では電子の時間進行が早まっているはずだと述べていると思います。そんな原子は原子構造も変わっているかもしれません。」
「電子の時間が早まるとどうなるのですか。」
「マイナスの電子はプラスの核と合わさりますね。」
「・・・それで7ヘリウムになるわけか。分かりました、ダルチンケービッヒ先生。私はまだまだ無知だと認識しました。もっと勉強します。分からなくなったら先生のところに伺ってもよろしいでしょうか。」
「いつでもどうぞ。同じ大学内ですから。」
「ありがとうございます。今日はこれで失礼したいと思います。本当にありがとうございました。」
そう言って大島巌は去って行った。
マリアは会場に戻った。
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