第4話 4、マリア探偵事務連絡所
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マリアとシークレットが東京に来てから1ヶ月余、「マリア探偵事務連絡所」という個人商店がひっそりと開店された。
正義の味方と探偵は昔から関係が深い。
正義の味方はお金儲けにはならないから職業にはならず趣味の領域に入る。
趣味の正義の味方を開始するには探偵業を開業するのが便利だった。
探偵業はお金儲けができるかもしれない立派な職業だ。
日本国では探偵会社を作ることは容易だ。
数千円の手数料を添えて探偵業開始届出書と添付書類を警察に提出するだけいい。
書類は警察署に用意されている。
「探偵業開始届出書を提出してある」という証明書を事務所に貼っておけば探偵業を始めることができる。
だれでも簡単に探偵になることができるのだが、その反面、日本の探偵には権限がほとんどない。
拳銃も持てないし、逮捕権もない。
しかしながら探偵業には大きな利点もある。
業務上、ストーカー行為は認められている。
一カ所にじっと潜んでいるなどの不審な行動をとっても言いわけができる。
人を尾行したり、赤の他人の写真を盗撮したりしても罪にならない。
他人のプライバシーを犯しても罪にならない。
そういう仕事だからだ。
まあ時には訴えられることもあるかもしれない。
「マリア探偵事務連絡所」はマリアが住んでいるタワーマンションの低層階と接した方形の建物の中にあった。
方形の建物もマンションなのだが、タワー部分と比べると賃貸料は安くなっている。
それらの建物は100年以上も前のものなので小さな部屋の賃貸料は驚くほど安かった。
マンションの運営会社としては住民がいることがマンションの価値を高めていると考えているようだった。
マリア探偵事務所はエレベーターに最も近い、人間が住むことができないほど小さな部屋にあった。
元々はマンション管理人用の部屋か掃除用具の物置部屋だったのかもしれない。
しかしながら、そんな小さな部屋ではあったが地下の駐車場はタワーマンションと共通だった。
マリアはタワーマンションからエレベーターで地下駐車場に行き、方形建物のエレベーターに乗り換えれば人目に付きにくいように探偵事務連絡所に行くことができる。
そんな意味で、地下駐車場は探偵事務連絡所とマリアの自宅との接点だった。
探偵事務所にとって、大きな建物の中に事務所を構えることは地の利を得ている。
探偵事務所を訪問する顧客の多くは他人に見られないように訪問することを希望する。
多くの住民が住んでいるマンションの一室、それもエレベーターに最も近い小さな部屋が探偵事務所になっていれば顧客は探偵事務所を訪問しやすい。
マリア探偵事務連絡所の賃貸に関しての保証人はアクアサンク海底国のイスマイル・イルマズだった。
今後、マリアが自分の正義感に基づいて『正義活動』を実行した場合、マリアが言うところの『悪者』からの妨害や仕返しが予想される。
法を守らなければならない警察からも目をつけられるかもしれなかった。
早晩、正義の味方、マリア・ダルチンケービッヒの正体は露見し、マリア探偵事務連絡所の所在も明らかになることが予想される。
そんな時、マリア探偵事務連絡所の保証人がアクアサンク海底国のイスマイル・イルマズであることは相手の仕返しを躊躇(ちゅうちょ)させるのには十分な要素だ。
ヤクザであろうがマフィアであろうが政治結社であろうが、マリアや探偵事務連絡所を襲えばイスマイル・イルマズは自国民が襲撃されたという理屈をつけて躊躇(ためら)いもなく遺憾砲で襲撃者を攻撃するだろう。襲撃者に命令した組織のトップの屋敷の上から大型爆弾を落とすかもしれないし、屋敷を埋め尽くすような多数の重装甲ロボット降下兵を使って「隠密裏に」殴り込みをかけるかもしれない。
アメリカ大統領が爆殺されてもアメリカ合衆国はアクアサンク海底国に反撃することもできなかった。
日本の警察は日本国と安全保障条約を結んでいる一国の全権大使であるイスマイル・イルマズを日本国の法に基づいて逮捕することはできない。
日本の警察は建前論を展開しつつも日本国の法律に守られていた『悪者』が討たれるのを黙って眺めているだろう。
マリアは探偵業を始めようとは考えていなかった。
マリアにとって探偵業は正義の味方業の隠れ蓑(みの)であり、正義の味方業の方が面白そうだった。
それでもマリア探偵事務連絡所のドアにはいかにも目立たないように1枚の名刺の上3分の1がセロテープで覆うように貼られていた。
切り取られた名刺には「マリア探偵事務連絡所」とだけ印刷された部分が残っていた。
本来ならその名刺には「探偵、マリア・ダルチンケービッヒ」と電話番号が載っていた。
電話は探偵業開始届出書に記載した以外はどこにも掲載していないので依頼人は来ないはずだった。
それでもお客は来た。
そのお客はたまたまマリア探偵事務連絡所の前を通りかかった時に名刺の表札を見つけ、衝動的に引き返してインターホンを鳴らしたらしい。
お客は中年の男性だった。
「ドアは開いております。入って中でお待ちください」とインターホンは優しそうな女性の声で答えた。
男は指示に従ってドアを開けて中に入り、部屋の奥にテーブルと椅子を見つけると怖そうに奥に進んでから椅子に座った。
部屋には窓がなく、人気(ひとけ)もなく照明は男が入った時に自動的に点灯したようだった。
部屋に入った男性の不安が頂点に達して帰ろうと思った時、入り口のドアが開いてマリアが入って来た。
マリアは赤いベルベットのハンチング帽を斜めに冠り、白いブラウスとベージュのパンタロンにパンタロンと同色のハイヒールという格好をしていた。
男性はマリアを見るとホッとした。
小柄でスタイルの恐ろしく良い若い娘だ。
しかも美形だ。
若さで補っている魅力ではなく姿形(すがたかたち)の調和からくる美しさを持っている。
それに自分より小さくずっと弱そうだった。
「いらっしゃいませ。お待たせしました。どのようなご用でしょうか。ご用件を伺った後(のち)に自己紹介しようと思います。」
マリアは立ったまま言った。
「浮気の調査をお願いしようと思います。」
「分かりました。お客様ですね。当社の探偵のマリア・ダルチンケービッヒと申します。どの程度の深度とどの程度の対価をご予定ですか。」
「私は池端照明と申します。私はこれまで探偵を頼んだことがありません。調査の深度とその対価とはどのようになっておりますか。」
「はい、色々な設定がございます。テーブルの上に置いてあるファイル集は東京都内にある色々な探偵会社のパンフレットが綴(つづ)られております。浮気の調査でしたら時間単価のプランもあれば成功報酬だけのプランもあります。最低料金を設定している探偵社もあれば調査にかかった日数を計算の根拠としている探偵社もあります。」
「あのー、この探偵社の料金をお聞きしているのですが。」
「私は探偵ですが、マリア探偵事務連絡所は実際に探偵活動を行ってはおりません。当社はお客様がお求めの調査に最適の探偵社を紹介するのが業務でございます。ですから会社名も『事務連絡所』となっております。」
「驚いた。この会社の業務は客引きなのですか。」
「そうです。お客様のお望みをどの探偵社に依頼したとしても当該探偵社が公示している料金の5%引きでお受けいたします。お客様が直接その探偵社にご依頼しても公示されている料金の割引はなされないと思います。」
「なるほど。そうでしょうね。でもそんなに割り引いて相手の探偵社の商売は成り立つのですか。」
「成り立ちます。しかも関係者全員が得をする『三方得々システム』です。まず我が社の人件費はほとんど必要ありませんし、探偵機材も不要です。お客様を紹介するだけで支払金の1%の利益が確保できます。一方、実動する探偵社としては実績が重要なのです。依頼者に信用されない探偵社はいずれ消えていきます。探偵社の料金設定はそんな状況ですから探偵会社には色々な料金プランを設定できる余地が生ずるのです。もちろん6%割り引いても利益がでます。最後に、お客様は5%の割引が受けられるので得をします。」
「御社は1%のマージンで経営が成り立つのでしょうか。ここの家賃もそんなに安くはありません。」
「まあ、そのうちなんとかなると思います。5%の割引で本物のプロに調査してもらえるのです。当社が依頼する探偵社は1社ではありません。最適と思われる探偵社に依頼します。お客様としても信頼できる探偵社を選ぶ手間が省けると思います。」
「マリアさんとしてはどのようなメリットがあるのでしょうか。今のお話を伺った限りではマリアさんが探偵である必要はないと思います。」
「私は探偵業を知りません。私は私が依頼した仕事を見学することによって探偵業を学ぼうと考えております。まあ、先輩の探偵員は私の教師になるのです。一石二鳥です。」
「分かりました。この会社が紹介できる探偵社はこのパンフレット集にある会社に限定されているのでしょうか。」
「いいえ、そんなことはございません。大手で有名な探偵社であれば料金の5%割引をさせることができます。お客様はご自分で探偵会社を選び、調査方法を決めていただいてから当社に話を持ち込むことができます。当社がお客様に代わって探偵調査を依頼します。料金は5%引きです。」
「要するにどの探偵社を使ってもこの会社を通せば5%引きということですね。」
「左様にございます。」
「それは便利ですね。パンフレット集から選んだ場合との違いは何ですか。」
「パンフレット集から選んだ場合、お客様は当社の紹介状を持って探偵社に行き調査を依頼することができます。結果も当該探偵社からお客様が直接受けます。料金はもちろん5%引きです。要するに当社は完全な紹介業だけになります。お客様がパンフレット集にない探偵社を選んで調査を依頼した場合には当該探偵社に調査を依頼するのは我が社です。調査の結果は私がお客様に報告いたします。」
「どうしてそんな違いが出るのですか。」
「パンフレット集に載っている探偵社は信用できる探偵社です。問題はほとんど生じません。お客様が持ち込む探偵社は要するにまだ信用できない探偵社です。探偵業は人の秘密を暴くことを含みます。悪者が人の秘密を握ればそれをネタに脅しをかけるかもしれません。そんな場合、当社が間に入っていれば適正に対処することが可能だと存じます。」
「この探偵社は人を脅迫する人間や組織にも対抗できるのですか。」
「何とかなると思います。」
「あのー、パンフレット集に載っている探偵社でこの会社が依頼してもらうわけにはいかないでしょうか。」
「もちろん可能です。それが本来の我が社の主要な仕事です。通常、調査を依頼する一般のお客様はどの探偵社が当該調査に適当なのかを知りません。それをお手伝いするのが当社の主要な役目です。」
「分かりました。お話を伺う限りでは信頼できそうな会社だと思います。この会社に調査をお願いしようと思います。仕事は最初に言ったように浮気の有無の調査です。調査対象はこの会社のあるマンションの同一階に住んでいる女性です。名前は川端蛍といいます。今日はその部屋からエレベーターに向かう途中でたまたま御社の小さな看板を見つけて訪問することにした次第です。」
「お客様の心に一抹の不安が生じていたわけですね。そんな時にたまたま見つけた目立たない探偵社。神様のお導きだと思われたのは当然です。・・・依頼をお引き受けするかどうかを決定する前にお聞きしたいと思います。失礼ですが、対象の女性は独身の方ですか。」
「そうです。」
「貴方は結婚されているのですね。」
「そうです。」
「分かりました。詳細な事情は個々様々な状況がありますが、よくあるケースだと思います。お引き受けいたしましょう。貴方のお名前と連絡先、調査対象の方のお名前と連絡先をここに記入して下さい。」
マリアはそう言ってパンフレット集の最後のページのクリアファイルの中に入っていた調査申込書を取り出して机の広げ、テーブルの中央に置かれたペン立ての中からボールペンを取り出して申込書に添えた。
男性は調査申込書を書き上げマリアに差し出した。
マリアは申込書を一瞥して男性に言った。
「申込書に書かれたことが正しいものであることを確認してから探偵社に依頼いたします。何か問題点がありましたら申込書に記された連絡先に連絡いたします。私の名刺を差し上げます。以後の連絡は名刺に記された電話でお願いいたします。名刺に記載された電話はこの事務所の電話であり、留守録電話になっております。連絡を受けてから24時間以内に送信して来た電話に返信いたします。それでよろしいですか。」
「それでOKです。」
「これで受付は終了です。一言意見を申してよろしいですか。」
「何でしょう。」
「浮気の定義に関してです。貴方の奥様が異性と深い仲になるのは浮気であり不倫です。貴方が異性と深い仲になるのも浮気であり不倫です。独身の女性が異性と深い仲になるのは正常です。たとえ現在の状況が貴方の援助を受けていたとしてもです。」
「そうでした。『浮気』という言葉を使うべきではありませんでした。独身の女性にとって自由恋愛は正当な行動です。単に私の魅力が足りなかっただけでした。私に魅力があれば都内に5万人の妾(めかけ)を作ることも可能ですね。」
「そうですね。5万人の妾に子供ができて貴方がその子供たちの面倒を見ることができれば日本国は安泰です。」
「日本国ですか。大きな話ですね。」
「5万人も大きな話でしたから。」
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