あのころ
夢を見た。懐かしくも寂しい夢だった。
狭い六畳の黄ばんだ畳の上で、母が寝崩れている。
テーブルの上に置いてあった夜食は少しだけ残っていて、皿が傾いている。
青白い顔の頬についたケチャップ。
綺麗にしてやりたい気持ちもあるけど、このわずかな間だけが母が安息できる時間で。
そっと食器を下げて、テーブルの上におにぎりを置く。
俺がいなければきっと、この人はもっと幸せになれた。
ごめん。本当に、ごめん。
そう思いながら、眩しい朝日を前に洗濯物を干した。
ああ、誰かこの人を。
救い出して幸せにしてあげてください。
そればかり願っていた。
願った甲斐があったのか、母は俺が15歳の時に再婚した。
母を俺から開放してあげられることが、心から嬉しかった。
だから、家を出た。
それを許してくれた義父には感謝している。
何一つ不幸なんかではなかった、あの頃の夢。
母の事について、余り知っている訳ではなかった。
直接聞いたことは数えるくらいで。
ほとんどは周囲から聞こえてきた好奇心旺盛な噂話だった。
高校を卒業する時には、既に身籠っていたこと。
両親を振り切って男の元に駆けこんで、一年余りで逃げられたこと。
それから、子どもの面倒を見てくれる夜の店で働いて。俺が小学校に上がる前には、溜めたお金で夜職を辞めた。
昼と夜の仕事を掛け持ちして、毎日くたくたになって遅くに帰ってくる。
同じ年ごろの女性は、きっと自分自身の為に生きていただろうに。
母はただ俺を養うためだけに人生の全てを捧げていた。
学校では風俗の子、と言われないように目立たないよう努めた。
揶揄されることはあったけれど、波風は立てさせなかった。
母と違って時間はたくさんあるのだから、家事だってこなした。
難癖をつけられないように成績も上位をキープしていた。
手をかけさせないように。これ以上、奪わないように。少しでも。……少しでも。
あの人が楽になれるようにと。
だから、母に自分の世界を取り戻させてくれた義父には、本当に感謝している。
仲が悪いから会わないのではない。水を差したくないから会わないだけで。
あそこに自分がいるのは、マイナスにしかならないと思うだけで。
恨みも悪意もない。他人には理解してもらえないのだろうけど。
ちゃんと大切に思ってる。
夢が残した余韻が陰鬱だったのは、いまだにどこかで引け目を感じているのかもしれない。
『普通じゃない』と言われないように励んできて、その『普通じゃない』が今では取るに足らない事になったのに、どこか勝手に縛られたままでいる。
この年になれば、親と自分のことは切り離して考えられるし、母は今では幸せな家庭を築いている。
あの頃は必死で見えなかった周りには、他にも『普通じゃない』に爪弾きされた人だって少なくはない。
『普通じゃない』誰かを貶めなければ、自分が恵まれていると思えない人間が一定いるというだけの話だ。
だけどあのころの焦燥や無力感は、多分どこかに眠り続けている。そして時々、哀愁を連れてくるのだ。
遠くから聴こえる蝉の声が、朝からやかましい。
でもあのころ狭い部屋に一人、汗だくで耐えながら聴いていた蝉の声は、バケモノみたいにもっと凶悪だった。
開け放した窓から温い風が入って、一緒に攻め込んで来るみたいな大音量。もうだめかもって思ったのは、きっと暑さのせいだった。
今は防音と冷房が効いた部屋のなかで、聴こえるかどうかのBGMに過ぎない。
温かい。
どれだけ汗だくでもどこか薄ら寒さをたたえていた時間が嘘みたいに、今は温かい。
目を開けたくなくて寝ぐずるように首を傾けると、心地よく心臓の音が響いた。
ああ、とっても温かくて。なんて幸せなんだろうと緩みきる。
勝ってきた自分の鼓動をカウントダウンして、観念して目を開けたら、緩みきった顔で寝てる酒井くんがいて、なんだかふわふわする。
年齢以上に幼い寝顔が可愛い。
俺には、当たり前のように誰かの隣で眠っていた記憶なんかない。だからこんなにここが心地いいんだろうか。すっかり満ち足りるんだろうか。
自分は一人でなんだって出来ると思ってたけど、酒井くんが甘やかすから、最近は随分ポンコツでダメな人間になった気がする。
それは、頭を抱えたいくらい恥ずかしいけど、嬉しい。嬉しくて、もっとどうしようもなくなる。
それが許されてる幸せなんて、あってもいいんだろうか?
誰かが側にいる生活なんて知らなかったし、それが潔癖な自分にできるとも思っていなかった。ましてやそれが心地いいなんて、想像すらしたことがなかった。
そんな自分を甘受できるなんてことも。
見つめ続けた瞼が震えて、ぼんやりと焦点が甘い瞳と視線が合った。
「………天使?眼福、むしろまだ夢の中…」
「本当にその頭の中どうなってんの?」
勢いのない言葉が連なって、笑み崩れた口元から紡がれる。そんな所も可愛いと思ってる。
思わず笑いが零れて、委ねたままの頬が擦れた。
あのころの母の笑顔が、ぼんやりと頭の片隅で花咲いた。
母とよく似たこの顔で母と同じように笑っている。
母の笑顔が眩いほどに美しかったのは、きっとこんな気持ちだったから。
「……まぶしい……掌に太陽?」
「燃えてない?」
「萌えが大炎上してる」
「それはよくわからん」
「くぅ……大好きすぎる」
「それは……」
俯いて、ぺたりと全体重を預ける。寂しいと感じる暇もないくらいに、騒がしい鼓動が胸を擽る。
「……うれしい」
「………?!?!?!!!!!一瞬で目が覚めた!!破壊力!!!」
「うるさい」
気付けば『あのころ』は遠く昔。
この『今』が、ずっと続いて行けばいい。
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