秘密の…

「ちょっと出張が入ったから、今週末はいない」



 連絡はしておいた。だけど案の定、出発の日の朝は素直にお別れなんてできやしない。


「えーえーえー、真尋さんのいない週末とか太陽昇らない!」

「それは超常現象」

「何を楽しみに過ごしたら……」

「たった数日だから」

「世界から希望が消える数日」

「消滅させないでくれる?」


 午後から会議を経ての移動と、スケジュール的に余裕のある真尋よりも、そろそろ家を出ないと講義に間に合わないだろう敬也の方がずっと時間的余裕がないはずだ。

 なのにぎゅうぎゅうと纏わりついて動こうとしない敬也に、真尋はいつものように溜息を吐いていた。


「もう行かないとでしょ」


 後ろから回された腕をペシペシと叩いてみても、のっそりと肩に乗った顔の重みは消えない。


「行きたくない行ったら来週まで会えない……」

「サボる口実にするなら来ないで」

「あーあーあー厳しい!そんな所も最高に好き!」

「うるさい」


 毎度の茶番だ。

 真尋が寂しいとすら思えないくらいに、不安を感じる暇すらないくらいに、当たり前に全身で表現される好意を疑いようがない。


「だって、俺の知らない所で真尋さんの天上の魅力が披露されてるとか、ファンクラブ引き連れて帰ってくるかもしれない」

「馬鹿」


 いったいこの男には、自分はどんな風に見えているのだろう。真尋は時々ちょっと疑問に思う。


「最初から俺は酒井くんのいないところで普通に働いてるし、ファンの一人もいません」

「会員番号0番から500番まで全部俺!」

「自作自演?」


 素っ気なく応えながら、真尋は少しだけ想像した。

 自分の周りで自分に好意を向けてくる人間が敬也だけという環境は悪くない。だけどむしろ、それは自分も同じようなもので。

 敬也のファンの地位を独り占めできたらなんて。この問答を終わらせる為には、決して口にしてはならない。


「取り敢えず月曜までには帰ってくるんだから。早く行って」


 しぶしぶ自分を抱きしめたまま後をついてくる敬也を玄関から送り出し、真尋は自分の準備の最終チェックに取り掛かった。



 普段秘書課の雑用を主としている真尋にも、時折こんな風に出張命令が出ることがある。だいたいは他部署の手伝いで、事務要員として臨時的にチームに組み込まれるのだ。

 今回も隣県で行われる展示会へ参加するプロジェクトチームへの同行命令である。

 メインは開発と営業のスタッフであるが、そのフォローアップ役をすることとなった。初めて顔を合わすメンバーばかりで、今までに同じ仕事に携わったことはない。言わばチーム内でもアウェーで、人数合わせの配置だ。正直他のスタッフからは心象が良くないだろう。


 気が重い。

 だが、これが仕事だ。


 真尋はさっきまでとは比べ物にならない重い溜息を吐きながら、詰め込んだ荷物を再度点検する。


 服装はスーツで良いので悩む必要はない。小物も部屋着も無難なものを選んだ。

 スキンケア、ボディケア用品はどこまで持って行こう……。たった二泊だけど、されど二泊だ。他人の目に留まるのは面倒だから、厳選して最小限にしたい。


 数日前に出張が言い渡されてから、頭に叩き込んだ情報に、新たに作った資料。参加するのだから、百二十パーセント理解していないなんて事は真尋の性格的に許せない。

 完璧主義を拗らせたような性格だからこそ、何度も見直して準備は万端だった。それでももう一度見直さずにはいられない。


 …………窮屈だな。


 これから出向くのは二泊三日の戦いで、その間に気を抜ける時間なんてない。

 ほんのさっきまでみたいに。

 拗れて、捻くれて、人としての可愛げなんてない自分がそのまま受け入れられることなんてないのだ。

 真尋はもう既に寂しくなっていた。あんな風に素っ気なく敬也に言った事のほとんどがただの強がりだと自覚して、素直ではない自分に更に落ち込んだ。


 だから、本当に出来心だったのだ。

 自分でも我に返った後に恥ずかしくて埋まってしまいたくなってしまったとしても、仕方がない。



 既に顔合わせだけは済んでいたメンバーと合流した後、真尋は出発前にプロジェクトリーダーの吉岡への報告と打ち合わせのために声をかけた。

 人当たりの良いリーダータイプである吉岡は、何となく真尋にとってやりにくいタイプだった。

 こういう洞察力が鋭い明るいリーダーは、チームをまとめようと隅々まで気を配る。だが、気に掛けられたり、意味もなく話しかけられるのは真尋にとって面倒でしかない。仕事においては効率と実績だけが残れば良い。それが真尋のやり方だ。

 仕事だから、好き嫌いを言っている訳にはいかないけれど。


 真尋はかっちりと固めたオールバックに野暮ったい程の黒縁眼鏡のいつもの装いで、無表情に磨きをかけて平坦な声で語りかける。


「吉岡さん。二点ほど確認して頂きたいものがあるのですがよろしいでしょうか。

 まず、こちらは機器の手配についての一覧です。不足がないか最終確認をお願いします。

 そしてもう一点。こちらは既存の資料で比較されていなかったデータを別表記でまとめたものです。

 お役に立てるかはわかりませんが、以前の同様のイベントで受けた質問を参照にまとめてみました」


 任されたからには、ベスト以上を尽くさない選択肢は真尋にはない。


「ああ……ありがとうございます。いや、すごいな。お気遣い感謝します」


 吉岡は驚いたように渡された資料に目を通して、人好きするようなさわやかな笑みを浮かべた。真尋より少し年上である吉岡の笑みの向こうには、観察しつつの計算がある。若くしてチームを動かせるリーダーらしい人物だ。


 しかし、移動時間は有効活用できる時間だ。この隙間に情報をすり合わせしておけば、より広い想定ができて、入念な準備もできる。

 ことに、プレゼンはどこまで想定が出来るかで結果を左右する。もちろん売り込むものありきではあるけれど、どう見せるかが勝率に関わるという事をこれまで体感してきた。

 真尋の頭の中にあるのは、データだけだ。実際にプロジェクトに関わっていた訳ではないから、データから読んだことを現実とすり合わせる必要がある。

 それには現場の意見が必要不可欠で、適任なのが吉岡だというのは間違いがない。

 本当は関わり合いたくない部類の相手だが、仕方がないのだ。



 初日は簡単な打ち合わせと会場設営だけで、解散となった。皆で食事でも、と誘われたもののいつのように断って、真尋はビジネスホテルの一室に閉じこもった。

 必要なものだけ荷ほどきし、見られたら面倒なスキンケアグッズなどはスーツケースの中に入れたまま。誰かが訪れても完全な姿で対応できる念の入れようだ。そうしないと、落ち着かない。


 ベッドに腰かけて、サイドテーブルに置いたノートパソコンのキーを叩く。

 今日得た情報から、あれば役に立つと思えた資料を形にしてゆく。

 雑務要員として同行となったとはいえ、真尋の本分は秘書だ。チームが動きやすいように先取して環境を整えることこそ、真尋が普段息をするかのようにしている仕事なのだ。


 だけど。


 そわそわと、ベッドの上を振り返る。

 直視はできない。でも気になって仕方ない。

 どうしてこんな事したんだろう、と羞恥心で頭を抱えたくなる。

 だからといって、捨てたり隠したりすることもできない。だって、ここにあるだけで、なんだかホッとした気持ちになるのも確かだから。


 使用感のある大きなTシャツが、真尋の後ろにぽつんと置かれていた。

 本当に出来心だった。ベッドの上に脱ぎ捨ててあった敬也のシャツを、荷物に入れてきてしまったことは。



 真尋はいつも、息苦しかった。

 人に裏切られたくないから、絶対に信じない。

 面倒ごとになるのが嫌だから、出来るだけ関わり合いたくない。

 心を許して裏切られたのならきっと耐えられない。

 面倒な噂に巻き込まれて、ありもしない捏造をされるのは辟易する。

 誰にも頼れずに、ただ一人、自分のプライドを守るために躍起になって。

 そんな自分は馬鹿げていて。

 一人で家にいる時にすら、肩の力を抜く術を知らなかった。


 だから、女装して別人になりきった。顔だけの癖に、自分の為に世界を回そうとする傲慢な女性。他人のことなんて考えない自己愛の塊。最低で馬鹿げた存在。


 どちらの自分も馬鹿げていた。

 大嫌いだった。自分という人間が。


 だけど、敬也がそんな自分を「全部好き」だというから。

 嘘なんてつけない不器用でまっすぐなままで、全身で好きだというから。

 敬也のいる所でだけは、馬鹿げた自分でもいいような気がしてしまう。

 それがたったシャツの一枚だけで、こんな状況でも心を落ち着けられるほどだなんて、真尋自身も初めて知ったのだけど。


 想い人の持ち物を手元に置いて……なんて、小学生みたいな事をして。純粋さの欠片も持ち合わせていないくせに、ピュアな乙女でもあるまいし………。

 真尋の頭の中には目前の仕事へのプレッシャーなんて皆無で、惰性で仕事を続けながらもぐるぐると自分の行いを恥じらっていた。

 恥ずかしいけれど。

 嬉しいし、心強いし、手放したくはない。だなんて、事実から目を逸らそうとしながら。



 そんな風に妙に落ち着かない空間で、テーブルの上のスマホが震えた。

 いつも通り。いや、いつもよりずっと早い。それはきっと今日が金曜日で、本当ならば一緒に過ごしている時間だから。

 普段ならば決して止めない手を休めて、真尋は画面を覗き込んだ。

 バレるわけではないから、いいんだ。何の問題もないんだし。

 そう言い訳をしながらも、本当は待ちわびていたなんてことは認めたくない。


『ただいまー 帰ってきた』


 いつも通り、何の意味も持たない内容。


『仕方ないから大人しく課題します!』

『あああああ真尋さんに会いたい』

『でも大人しく課題やっつけとくから』

『真尋さんもお仕事頑張ってね!』


 画面から聴こえてくるかのような、いつも通りの言葉。

 本当は毎日積もっていくそんなメッセージだって、定期的にこっそりバックアップを取ってしまうほど、真尋にとって大事な宝物で。

 嬉しい、だなんて素直には言えないけれど。胸の奥がうずうずとこそばゆくなる。


「真尋さん?!」

「うん」


 今日くらい、優先させたっていい。だって本当ならば、今頃は一緒に過ごしていたはずなのだから。

 そんなことを自分に言い聞かせて、真尋は通話ボタンを押した。


 すぐに繋がった声の主は嬉しそうな様子を隠そうともしてなくて、それだけでじりじりと喜びがくすぶった。


「もう仕事落ち着いた?」

「まあ」

「そっか、声が聴けて嬉しい」


 自分も、と答えられたなら、それだけで敬也はきっとすごく喜んでくれるだろう。

 だけど、それは少し真尋にはハードルが高い。そんな面倒な自分にほんの少し落ち込みながら、平然とした声を綴る。


「予定、反古にしたし」


 別に毎週一緒に過ごそうなんて約束はしてないけど、確かに一緒に過ごしていたはずだから『予定』。なんて、真尋の頭の中は言い訳でいっぱいだ。


「仕事だから仕方ないのに。でも、気にしてくれてありがとう」


 屈託がない弾んだ声は、何の非難も向けずにいつでもそのままの真尋を求めてくれる。

 その度に、真尋は嬉しさに溺れそうになる。

 決して口には出せない。出せないのが、もどかしい。


「別に毎日会ってる訳じゃないのにさー、すぐに会えない所にいるって思うと寂しいんだなって思ってた」


 穏やかな声が、電話の向こうから聴こえてくる。

 ………会えないだとか、言わないで欲しい。そんな事、知りたくない。


「それに、真尋さんの綺麗で可愛くて全方位から色気のダダもれてる空気に、俺の知らない世界の神になってたらと思うと」

「それはない」

「えええーーー、だって、こんな美人で可愛くて可愛くて可愛くてズキュンな人なんて他にいないしそこだけ光ってるし」

「うるさい」

「だって!気づいたら大人なダンディに夜空の乾杯とかされてたり!」

「ないから」


 敬也にとって自分がどう見えているのかは、相変わらず真尋にはわからないけれど。

 例え、誰かに言い寄られるようなことがあっても、真尋の心はとうに決まり切っている。


「だから、明日も電話するし」


 会えなくて寂しいだとか、本当はずっと自分の方が強くそう思ってるに決まってる。


「ほ、ほんと?!俺、すっごい楽しみにしてる!」


 相変わらず可愛げのない物言いでしか言葉が出てこない真尋に、敬也はその様子が目に浮かぶような嬉しそうな声で答えた。



 翌日。朝からの打ち合わせに、会場の最終準備に取り掛かり、人がぽつぽつと増えたと思ったまで……余裕があったのは束の間。そこそこ大規模と言えるイベント会場に人が溢れかえるようになると、チーム内の各人は慌ただしく動き回っていた。


 とはいえ、真尋に出来る事は直接的な接客ではない。

 裏でノートパソコンを弄って必要な資料の追加制作をしたり、質疑や意見のとりまとめや、集客数とその分析なんかを入力しながら、他のスタッフが接客するブースに品出しをしたり、待ち時間の生じた客へとカタログを渡したり。頃合いを見て休憩を回したり、弁当や飲み物の手配をしたり。

 まぁ、つまりは雑用だ。


「しばらく客足は途絶えないでしょうので、交代で昼食にどうぞ」


 賑わったままのブースで、ちょうど手が空くタイミングで一人ずつ声をかける。


「えっ、お弁当とか出張費で落ちるの?」

「事前申請していれば。こういう場所は周囲の飲食店も込み合うし、人が多いと移動にも時間がかかるので」

「この弁当の店、聞いたことある名前だ……」

「予算内です。ああ、佐藤さんはアレルギー除去で頼んだので印があるやつで。休憩スペースは全部で三か所ありますが、建物の奥が一番空いているそうです」


 効率的に。滞りなく。完璧に。

 それは真尋にとっては当たり前のことだった。


「結野くんって、実はスゴイ?」

「こんなにスムーズにイベント回せるのって、なかなかないんだぞ」

「業務内です」


 好感触を得られる辺り、仕事に不足はなさそうでほっとする。……微塵も表面には現れないのだが。


 役に立たないと、ここにいる意味はない。期待される以上の成果を出す事が当然だから。そうでなければ、そんな自分を許せない。

 仕事をするからには、成果が必要だ。サポートをすることに関して、真尋は専門職なのだ。そびえ立つプライドをへし折られる訳にはいかない。



 慌ただしい時間は過ぎて、人波が遠ざかる頃には不必要なものから片付けに入る。最後の客が去った時には、まだボチボチと人の姿の残る大会場に閉館のアナウンスが流れていた。


「あー、疲れたー」

「お疲れ様」

「怒涛だよな」


 ようやく一息ついているチームメンバーの声をよそに、真尋はブース内の最終点検をしていた。明日もすぐに再開できるように、どうせなら今のうちに設備を整えておきたい。幸いなことに器材にも不具合はなく、資料も不足はない。今日の集客数も予想の範疇であるし、大きなトラブルもなかったように思う。


「お疲れ様、結野くん」


 ぽん、と肩を叩かれて、真尋は思い切り眉を顰めて身を引いた。ここ数日で耳慣れた声も、存在感も、決して警戒に値するものではない。だが、触れられる事に関しては不快でしかない。

 振り返り、抗議の意図を隠さずに吉岡を見つめる。吉岡は苦笑いを浮かべて頬を掻いた。


「ああ、ゴメン」

「いいえ」


 その位の事で揉めようとは思わない。ただ不用意に近づくのは止めて欲しいだけだ。

 真尋が深く息を吐いて首を横に振れば、吉岡は人好きのするような快活な笑みへと表情を変えた。

 感情的というよりも、自分の表情を正しく選んでいる。理知的な印象だった。


「結野くんが待ちでお客さんに聞いて書いてくれたメモ、すごく助かった。ありがとう」

「お役に立てましたなら」

「いや、さすがに引き抜かれるだけの事はあるね」


 吉岡がさらりと返してきた言葉は、明らかに故意だと思った。


 真尋が入社して二年目で、某上役に引き抜かれて一般事務より臨時秘書となったこと。そして専属秘書を断って、今まで前例のない秘書室庶務として配属されたこと。それからもう随分と年月が経ったというのに、某上役の愛人だという噂は未だに残っている。一度そういった噂の対象になってしまったからだろう、その他の臨時秘書を務めた相手の愛人になったとかも。


 規模の大きい企業であれば、実際に面識のない人間のほうが多い。だから、どれだけ努力しようと、成果を出そうと、未だに顔や身体で給料を貰っているのだと面白おかしく言われている事に、真尋はうんざりとしていた。


 吉岡はそれを暗にほのめかしたのだ。


 不機嫌な視線で軽く睨みつけると、吉岡はにんまりと目を細めた。


「これだけ優秀なら、当然なのにな」

「お褒め頂いて光栄です」

「本気で褒めてるよ」

「そうですか」


 ははっ、と吉岡の爽やかな笑い声が響く。明らかに、面白がっている。

 不愉快だ。この男が向ける興味が。醸す余裕が。探る視線が。

 そこに含まれる駆け引きじみたある種の好意が、真尋には受け入れがたい。


 真尋はくるりと吉岡に背を向けて、深く息を吐いた。

 関わるべきではない。そう肌で感じていた。

 だが、吉岡は真尋がそう思うだけある人間だった。


 もし自分が今も人を心から信じる事ができないままだったなら、絆されただろうか。それとも、逆に今以上に近寄らせなかっただろうか。

 そんな風に思うほど、吉岡は真尋に向ける言葉や態度の加減が上手い。きっと慣れているのだ。

 そして、人を懐柔する自信がある。どんなつもりで近づこうとしているのかはわからないが、真尋の好意を得る自信があるのだろう。

 それが、………心底気に入らない。



「真尋さん、おつかれさまー」


 電話を鳴らせば、コール音を認識してすぐに明るい声が返ってきた。その声を聞いて、真尋の中に溜まった疲労は一気に溶け出して行った気がした。


「うん。時間、大丈夫だった?」

「真尋さんが電話してくれるって言ってくれたから、めちゃくちゃ張り切ってレポートしてた」

「忙しいんじゃない」

「えええええ、ご褒美くださいぃー」


 いつもと変わらないテンションに、しみじみと癒される。


「この際、出来るところまでやってやろうかと思ってさ。そうしたら真尋さんに会いに行ける時間増えるかもしれないし。これでもすげー頑張ってます」


 笑いながらふぅ、と溜息を吐く敬也に、真尋は急に心配になった。

 目で見ることが出来ないということは不安だ。離れているという事は、確認も難しいという事で。

 自分の都合で敬也を振り回したのではないかと思うと、気が気ではない。


「それ、ちゃんと休んでるの」

「俺、真尋さんほど無理したことないよ」

「いいからきちんと休んで」

「心配してくれるんだ?」

「しないわけないでしょ」

「俺、今世界一元気になった!!!」

「馬鹿」

「本当に、無理はしてないから」


 普段通りの受け答えに、少しだけ安心する。だけどきゅうっと胸の内側を引っ掻くような嫌な感覚は、全ては消えない。


「真尋さんの方が忙しいでしょ」

「そうでもない。できる仕事が限られてるから」

「それなら良かったけど」

「…………」


 もどかしい。見ることも触れることもできないことが。

 いつの間にこんなにも、当たり前のように染み込んでしまったのだろう。


 水滴の流れ落ちるファンタグレープのペットボトルを揺らして、真尋は寂しさを紛らわした。

 一口だけ飲んだそれは、いつも敬也が好んで飲むから家に置いているけれど、真尋には甘すぎる。それがわかっているのに、側に置きたくて買ってきてしまった。


「あー、真尋さんに会いたいな」

「うん」

「本当に?ちょっと今から本気の本気でマジで真面目に頑張る!!」

「だからちゃんと休んで」

「だって真尋さんの可愛いのボルテージが上限突破二週半してる!!!!!」

「意味わからんし」

「あーもう可愛いが過ぎますほんと大好き」

「………」

「今、真尋さんの可愛いが見れないのが残念でもあり命拾いでもあるような!見れなくても可愛いくて可愛くてそこはかとなく色気!もー好き!好きすぎる!!!」

「うるさい」

「えー会いたい」

「……………俺だって、……好きだし」


 ぽつり、と呟いてから、真尋は急激に鼓動が早まるのを感じた。


 そんなことを言うつもりはなかったのに、『好き』も『会いたい』も負けてないのに、なんて思いがついつい口から滑り出してしまっていた。

 全身を巡る血が沸騰したかのように体温を上げて、バクバクと心音が耳の奥で鳴っていた。叫びだしたいくらい身悶えて、ぎゅっと胸元を握りしめる。


 だ、大丈夫。知らない。何も言ってない。何もなかった。


 素知らぬ顔で貫き通そうと思いなおした時に、耳元で敬也の絶叫が響いた。


「あああああああ!!!!!何で今会えないのぉぉぉぉーーーーー!!!!!!」


 それが何だか楽しくて、真尋は恥のかき捨てとばかりに重ねて言った。


「うるさい。馬鹿。大好き」


 心に畳みかけてきた羞恥心のダメージは、これまたなかったことにした。


「き、清く正しく生きよう……何に感謝すれば……取り敢えずレポートやっつける。絶対やっつける。一分でも一秒でも長く真尋さんに会いに行く」

「だからちゃんと休めって」

「もう三年くらい眠れない」

「寝ないと心配します」

「ええええーーーーだって眠れると思う?フル充電超えたよ?もう過充電でバッテリーパンパンだよ?」

「………下ネタ?」

「えっ?やっ、そういう意味ではないけどある?」

「あはは」

「えっ、笑ってる真尋さんめちゃくちゃ見たいけど笑えない撃ち抜かれた胸が痛い」

「取り敢えず、ほどほど休んで」

「うん。心配してくれてありがとう」


 ああ、好きだなぁって思う。一分一秒、想いが募る。

 もう少しすれば会えるから。だから、もう少しだけ。



 深く息を吐きだして、真尋が高鳴り過ぎた胸を落ち着けていると、パソコンと並べて置いていた社用のスマホの着信が鳴り響いた。

 無機質な電子音に幸せな空気がかき消されて、急激に現実が戻ってくる。


「あ、電話?ごめん、長々と。真尋さんもちゃんと休んでね」

「………うん」


 名残惜しさを抱いたまま接続を切る。鳴り響く電話が憎らしい。


 だが仕事なら仕方ない。

 幸福な気持ちと寂しさをない交ぜにしたまま通話を終わらせ、溜息を堪えて社用のスマホを取る。


「はい。結野です」


 そんな気はしていた通りの相手に、少しばかり声に棘が出てしまったかもしれない。


「あ、大丈夫だったかな。遅い時間にゴメン。少し話せるかな」


 スマホ越しに、相変わらず闊達で爽やかな吉岡の声が響いた。



「今回はすごく助かってる。ありがとう、結野くん」


 部屋の扉の外。待ち構えていた吉岡は、不機嫌の残る無表情の真尋に構う様子なく、人好きのする笑みを向けた。


「それはどうも」


 あからさまに眉間に皺を寄せて真尋はおざなりに答える。それを見て吉岡は、ははっと面白そうに笑いを零した。


「実は今日作ってくれた補足資料でね。この部分とこれ、それと旧式のデータを一枚にまとめて作って貰えたらありがたいんだけど」


 そう言って数枚の紙を差し出す。だが、真尋がそれに手を伸ばすと、吉岡はひょいとそれを持ち上げた。


「ついでに一緒に飲みにでも?」


 にやり、と吉岡は口の端を上げて笑った。


「業務外です」


 真尋は冷淡な声で応えて、恨めし気に資料を睨む。内容がわかれば十分そこらで終わる仕事を先延ばしにされ、うんざりとした気持ちが強かった。

 吉岡と関わる気はない。だけど、仕事は完璧にこなしたい。非難染みた視線を吉岡へと向ける。


「結野くんは覚えていないだろうけどさ。俺、結野くんが総務にいる時に一緒の仕事に関わったことあってさ。本当に優秀だなって思ってた」


 非難をかわすように軽やかな笑みを返し、吉岡は遠ざけた紙束を一度手元でまとめなおしてから真尋に差し出した。


「ずいぶん昔だけど、デカイ無茶振りが降ってきてさ。指名された先輩たちも責任負いたくなくて逃げてて。俺もまだぺーぺーで何もできなくってさ。でも誰かがどうにかするしかないよなって、無理だと思いながらやれるだけやっつけてたの。

 そしたら、気づいたらめちゃめちゃ仕事片付いてて。先輩たちも勝機が見えてきたからか、やる気だしてさ。

 腹が立ったのはあるんだけど、それよりも誰がこんなにやってくれたのかって気になって」


 吉岡は真尋を真っすぐに見つめて、ふっと頬を緩めた。それは、普段の吉岡とは少し異なる、幼げな、無邪気さを覗かせた笑顔だった。


「入社してまだ一年の一般事務職が、毎日夜な夜な難しい顔しながら書類とパソコンと睨み合ってるの見て、ああ、いいなって。俺、偉くなったら絶対に結野くんを引き抜いてやろうって思ってた。

 ま、すぐに専務に持って行かれたんだけど」


 吉岡が向けた視線は、ただありのままの真尋を映していた。


 真尋はじんわりと胸が温まってゆくのを感じた。


 最初から自分をありのままに見て、評価してくれていた人がいた。ただそれだけの事が、固く凝り固まった嫌悪感を溶かしてゆく。


 評価が欲しかった訳ではない。ただ、どれだけ努力しても姿形のせいにされ、それでも頑張り続けるためには意地を張るしかなかった。


「専務の愛人って話は、きっとありもしないんだろうなって。見てたらわかるよ。

 それに、色々な噂があったけど。結野くんの仕事ぶりなら気に入られるのは当たり前だと思うし。

 逆に本当に愛人だなんだならさ、きっと引退してタワマンの最上階で一歩も外に出ずとも不自由ないような生活できるでしょ、結野くんなら」


 悪戯っぽい視線を受けて、真尋の口端が緩む。


 自分の能力を、仕事ぶりを信頼されている。

 周囲には敵しかいないと思っていた時期もあった。その時にすら本当は、こんな風に信頼を受けていた。

 もう過ぎ去ったことなのに、今更何も変わらないのに、ただそれだけのことがこんなにも嬉しいだなんて。真尋は想像をしたこともなかった。


「それならば」


 勝気な瞳を吉岡へと返す。目を瞬かせた吉岡へ不敵な笑みを返しながら、真尋は忖度なく傲慢に言葉を紡いだ。


「偉くなって叶えて貰うしかないですね」


「手厳しいなぁ」


 オーバーリアクションに肩を竦めながら、吉岡はへらりと笑った。


「折角一緒に仕事したいって夢が叶ったんだから、飲みにくらい行ってくれない?もちろん、下心はあるんだけど」


 その笑みに心が緩んで、真尋は頬に柔らかな笑みを乗せた。


 吉岡を好ましく思った。真っすぐに信頼を寄せてくれて、真尋の事を理解してくれて、押しつけがましくなく好意をストレートに伝えてくる。


「お断りします」


 そういう所は敬也に似ているかもしれない。そう思ってしまうほどなのだから、好意など返せる訳がない。


「世界で一番格好良くて、頼りがいがあって、可愛くて、最高の恋人がいますから。他の誰にも超えられませんよ」


 自然と頬を蕩けさせ、真尋は自信気に吉岡へと伝えた。

 この男は計算高くて自信家で要領のいいタイプで。でもきっと危険ではないことがわかってしまった。

 吉岡は敬也に少しだけ似ているから。



 翌日、吉岡は以前と変わらない態度を装いながら不自然にならない程度に真尋に接触してきた。

 だけど、真尋はやすやすとアプローチをかわすことには慣れている。


「結野くん、帰ったら打ち上げいかない?」

「拘束時間が長い出張の後に不就労の強制をするのはいかがかと」

「鉄壁だねー」


 二人きりになるたびにちょっかいをかけてくる吉岡に、忖度なく言葉を返す。気を遣わなくて済むやりとりは少し楽しい。

 吉岡は、それが打ち解けた証と受け取っているようで、大げさに肩を竦めながら笑っていた。油断はならないが、害意はなく無理強いもしてはこない。真尋を懐柔するためには、それが得策だと悟っているのだろう。

 実際少しだけ、そういう所は好ましいと思った。



 そうして、最終日は真尋にとって心持ち気楽に過ぎ去った。

 一旦帰社してから、意見やデータをまとめて報告書を作って……場合によっては深夜に及ぶこともある事後処理であるが、真尋は常々即時的にできる限りのものをまとめていたため、小一時間ほどで終了した。


 早く帰ってくつろぎたい。

 昼夜繕い続けた自分の仮面に、疲労を感じていた。いつどこで誰に接触するかわからない緊張感を保って、素の自分を隠し続けることはそれなりに疲れることだった。


 食事でも、と引き留めるチームメンバーたちをさらりとかわして、帰路につく。


 ようやく解放された。

 今日は帰らないかもしれないと敬也には伝えてあった。だから、会えるのは明日になるけど。

 家に帰って、楽な格好に着替えて、それから電話をしよう。今日は誰にも、何にも邪魔されずに、何の気兼ねもなくたくさん話ができる。

 そう思うと、自然に足が早まった。誰も見ていないからセーフだ。



 まだ宵闇に染まり切らない空の色。暗い室内へ電気をつけながら、真尋は一旦寝室に向かった。スーツケースを開いて、洗顔やスキンケア類の入った袋だけ持って洗面所へと移動する。


 とにかく、整髪料を流したい。

 真尋は仕事の時には近寄りがたいほどの生真面目なオールバックに髪を固めていたが、実は整髪料の類があまり好きではない。何日も長時間保ち続けたこの髪型を、さっさと洗い流してさっぱりとしたかった。


 風呂にはゆっくりとつかりたい。でも整髪料はすぐに流したい。少し手間ではあるが、風呂の湯を溜めながら洗面所で軽く頭と顔だけ洗った。

 首にかけたタオルで濡れた髪を拭きながら、スーツのジャケットはその場で洗濯ネットに入れて、着替えまでするかしばし迷う。スーツも早く脱いでしまいたいけれど。



 その時、ふいにガチャリと玄関の鍵が開く音がして、真尋の頭から全ての思考が抜けて行った。


 今日は帰らないかもしれないから、明日会う約束をしていた。

 でも、この部屋の鍵を持つのは自分の他には敬也しかいない。

 不審者だったら、なんてこともほんの少しだけ頭の端っこに過ったけれど。ドキドキと逸った胸は、そんな可能性を全く信じてはいない。


 気が付けば、真尋の足は小走りに玄関へと向かっていた。

 早く。早く。早く。

 急いた心を隠し切れずに。


「あれ?お帰り真尋さん!」


 靴を脱いでようやく廊下へ踏み入れたばかりの敬也が、目を見開いて、それから顔中で嬉しそうに笑った。


「早かったね。真尋さんは帰らないかもって言ったけど、待ってたら少しでも早く会えるかなって。俺ちょっとフライングで来ちゃったんだけど、来てよかった」


 心から嬉しそうに弾む声で語ってにこにこしている敬也の、全身から溢れるような好意に、胸が苦しい。


 嬉しい。嬉しい。嬉しい。


 だけど、それが妙に恥ずかしい。恥ずかしくて、身動きが取れなくなる。平静なフリで息をするのもやっとだった。


「真尋さん、おつかれさま。でも、会えてすごく嬉しい。真尋さんの綺麗可愛さに世界に光が取り戻された」


 少しずつ歩み寄ってきた敬也は、真尋の目の前まで辿りついてキラキラと語る。


 喜びと、切なさと、安心と、色々なもので胸が詰まって言葉が出てこない。

 だから、伸ばされた腕に素直に収まった。

 温かくて大好きな胸にぎゅうっと抱かれて、ほんの少し縋るように抱き返す。


「真尋さん、大好き」


 耳に届いた言葉が、幸せで仕方なくて。


「うん………俺も」


 聴こえるかどうかのささやかな声で返した。


「あーーーーー真尋さんの可愛いが過ぎて滅びそう!!!尊すぎて、す、砂になってしまうッ!!!!!」


 結果は大声で家の中に響き渡った。


「………馬鹿。いなくなったら、だめだろ」


 ちょっとだけ可笑しくなって、それから愛おしくて仕方なくて、真尋はぎゅっと目をつぶって伸びあがり、騒がしい唇に口づけた。



 気が付けば、寝室に辿り着いていた。


 離れがたくて、離しがたくて、ぎゅうっと抱きしめあったまま唇を啄み、深く重ねて。

 このまま何の準備もなく最後までするなんてできないけれど。

 もう少し。もうちょっとだけ。

 目の前に欲しくて仕方ないものがあるのだから、止まることは容易ではない。


 ガタン、と足元に置きっぱなしのスーツケースが当たって、ようやく少しだけ顔が離れた。乱れた息を整えながら視線を下へと向けた敬也が、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 それにつられるように真尋も敬也の視線の先を追う。そして、辿り着いた先に、あの自分でもどうかしていたと思う、でも持っていてよかったと思わなくもないアレを見つけて、全身の血が沸騰したかのように真っ赤にゆだった。


 頭の中にも、ドドドドドド……と、激しい心音が鳴り響く。叫びたい気持ちを押さえて息を飲み、ばっと屈んで敬也のシャツを拾い上げて腕に抱いて隠した。


「真尋さん……それ、」

「な、何もない。何もなかった」

「手に持ってる」

「……もってない。なにも」


 じりじりと後ずさり、辿り着いたベッドに腰かけて、真尋は後ろ手にシャツを布団に突っ込んだ。


「真尋さん……」


 敬也がじりじりと追ってきて、真尋の前で背をかがめた。

 顔を合わせることができなくて、真尋はふいっと視線を逸らす。


 なんて、なんて馬鹿なことをしたんだろう。ちょっと、あまりにも、あんまりすぎていい訳すら思い浮かばない。


 泣きたい気持ちでぎゅっと眉根を寄せた真尋へ、敬也が手を伸ばしてぎゅうっと抱きしめた。


「嬉しい!俺のこと、考えてくれた?」


 恐る恐る視線を向けると、笑み崩れた敬也が幸せそうに真尋を見つめていた。融けて無くなってしまいそうなほど愛おし気に甘ったるい目で。


「好き」


 胸の内に収めきれず、真尋の唇から零れ落ちた。


 いつも。いつでも。こうやって。

 落ち込むこともできないほど、真っすぐに、嬉しそうに、幸せそうに、前向きに受け取ってくれるから。

 本当は、敬也と離れるのが耐えられないのだって、真尋のほうなのだと知っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る