まどろみ

「真尋さん、寝てる?ダメだよ、もう出る?」


 うつらうつら。温かくて気持ちいい。

 そんな夢見心地の中で、後ろから世界一安心する声が聞こえてきたから、子どものように駄々をこねた。


「嫌だ。もうちょっと」

 背中を寄り掛からせた身体は、揺らぎもしない。滑り落ちないようにぐるりと回された腕も力強い。

 大丈夫。何があっても。全部任せても。

 睡眠時間を極限まで削った悪魔の週を駆け抜けて、恥も外聞も理性もバスタブのお湯の中に溶け切った頭の中には、そんな自信しかなかった。


 このまま眠ってしまいたい。

 夢うつつの中に、お風呂の温かさと、半分抱きかかえるようにしてくれてる酒井くん。大好きなものしかない。幸せなことしかない。

 もうこのまま眠ってしまいたい。

 後ろ頭を擦り付けておねだり。今、究極に気持ちよく眠れそうだから。


「あああああ眠い真尋さんが素直かわいいいいいいぃ!でも、風邪ひいちゃうから!ね、出よう?」

「まだきれいになってない」

 汚れたまま布団に入りたくない。その位なら、床で寝る。

「じゃ、早く洗おう!」

 ゆっくり優しく肩を揺すられて、目を開く。眩しい。顔を上げると真上から覗き込んでる酒井くんと目が合って、嬉しくて口元を緩ませたまままた重い瞼がまた閉じた。もうだめ。ねむい。

 くたりと力が抜けた背中は、とうに酒井くんに全体重を預けてる。立てた膝も重力に逆らえず、酒井くんの脚の上に倒れこむ。だけど、揺るがない。目を瞑ったままでも受け止めてくれる。ここは、絶対に大丈夫。


「じゃあ、も、もしかして洗ってもいい?俺が、真尋さんを、洗う?新婚さんの夢?本当に??」

 また変な事言ってる。それが素直におかしくて、ふふっと零れた笑い声が自分の耳に遠く届いた。

「ぜんぶ、して」

 だって、酒井くんが俺の嫌な事をするわけないから。

「けいやくんなら、だいじょー……ぶ…」

「試されてる!?今世紀最大の試練!??屍を超えていくレベルきたぁぁ……あああああ!」

 さわがしい。でも、そういう所も好き。なごむ。

 蕩けきって頬が緩む。眠すぎて掠れた笑いが徐々に消えていく。胸を上下させるのも面倒くさいんだ。

 ああ眠い。本当に今、最高に幸せ。



 温かい。


 頭の上から降り注ぐあからさまな視線。頭を横に預けた下は、腕枕ならぬふかふかの胸枕。無意識に覆いかぶさるように伸ばした腕で、この心地よい体温を逃すものかとがっちり腰をホールドしてる。何なら半分乗っかるように片足まで絡めてる。はだけたバスローブはほとんど役に立っていない。だって生肌の感触を全身で感じてるから。

 目を開ける前にそこまでじっくりと頭の中で把握した。きっとまだ目が覚めた事は気付かれていないはず……。


 ………窮地?


 何となく、ものすごく眠くて、緩みきって、甘えきって、なんか色々やらかした事は覚えてる。……気がする。

 飲み過ぎたって記憶をなくすタイプではないけど。疲れすぎて床で寝てるようなことは時々あるんだよね、って今思い出した。後悔先に立たずと先人はよく言ったものだと実感。

 いや、後悔してる場合じゃない。今どうするかだろ。目を開けられない。

 窮地なのに、慌てふためくような場面なのに。何だろう、温かい。落ち着く。

 それに昨日夢うつつに何度も何度も反芻した「大好き」が、まだ胸の中を甘く擽って、幸せの余韻がぐるぐるしてる。


 頭上から、上機嫌な吐息が響く。ものすごく見られてる。

 ムズムズする。恥ずかしいような、嬉しいような。

 俺なんか飽きもせずに見てて、何がそんなに楽しいの?って、思わなくはない。でもそんな卑屈な疑問を最初から否定するほど、酒井くんが嬉しそうなのが伝わってきてる。


 胸が苦しい。懊悩に勝てずに身じろぎすると、頭の上に顔が近づいてきた。

 観念して目を開いた。無理な体勢から俺の顔を覗き込もうとしてる酒井くんが眩い。

「おはよう、真尋さん」

 嬉しそうに弾んだ声が、くっつけたままの頬に振動を伝えてくる。じわじわと、幸せが込み上げる。

「うん」

 喉を詰まらせて掠れた声を絞り出した。ふっ、と笑いを含んだ酒井くんの吐息が髪を擽っていく。その吐息にすら、全力の好意が乗せられていて、柄でもなくドキドキした。

 少し、おかしい。

 余りにも心から委ねすぎて、自制を失ってしまっている。意地もプライドも忘れてしまったかのように、このままありのままを全部さらけ出してしまいたい。


「真尋さんが早起きじゃないのは珍しいね」

「徹夜続きだったから」

「おつかれさま。まだ眠い?」

「うん、離れたくない」

 思ったより甘えた声が出たけど、もうどうでもいい。

 ぎゅうっと腰に回した手に力を込めると、頬に伝わる鼓動が跳ねあがった。

 高い体温が、もっと温度をあげる。

 全身で好きだと伝えてくれる。

 ねえ、何で俺だったの?幸せすぎて泣きそう。


「寝起きの真尋さんがドSなほどヤバ可愛くてハートが蜂の巣……いや、生きる」

 ぎゅうっと背中を抱き返された。密着した肌が火照るような熱を移してくる。温かい。熱くても、この温度が心地いい。

「俺は今、幸せかみしめてる」

 ぎゅうぎゅう、両腕で抱き締められた。これも、好き。

「もーなに、可愛いが過ぎるよ?いや、もしかして俺まだ寝てる?!夢でも離せないよ?」

 可愛い。可愛いが過ぎるのはきっと酒井くん。


 ぐいっと顎を捕まれて、上を向かされた。ああ、ダメって思う前にぶつかるように唇が重なる。

 はむはむとねだる唇は熱くて、零れる吐息は艶っぽい。

 催促に任せてしまいたい気持ちはあるけど、これはダメ。寝起きの口腔内細菌を好きな人に知られるのはトラウマになるレベル。仕方ないだろ潔癖気味だし。

 プイっと顔を反らすと、諦めたように唇が遠ざかる。これも不満な気がするのだから、本当に我儘になってしまった。


「歯磨きしてない」

「えええええぇ、ここにきてそれ?」

「嫌なものは嫌。不潔」

「焦らしプレイが高度すぎるよ!真尋さんはどこも汚いとこない天使なのに!」

「残念ながら人間でわりとオッサン」

 鼻先におやつを突きつけられた大型犬みたいに、憐れっぽい目で見つめてくる酒井くんが可愛い。

 可愛くて、愛しくて、溢れてくる。


「唇は、ダメ」

 伸びあがって耳元で囁き、キスを落とす。首筋を辿って、浮き出てる喉仏を舐めた。

 呻きが舌先に伝わって、胸の中まで擽ったい。

 引き締まった鎖骨のラインを唇でなぞる。それから丸みを帯びた肩を。どこもかしこも全部愛おしく思う。全部が、好きな所。

「し……試練?どんなハードモード?無理だよもうほんと無理、しんどい。虫の息。セミとかじゃなくてアリンコ」

「うん」

 息を荒らげさせている、素直可愛い酒井くんが堪らなく大好き。

 絡んだ脚に当たってる素直すぎるアレも。いつも全力の直情的。太股でぐっと押し返すように撫でたら、びくりと身体が跳ねた。


「まじで、ほんと我慢つらい」

 切ない声が許しを請う。

 本当は、幾らでも好きに振る舞っても抗えない体力と体格の差があって。

 何をされたって、俺が受け入れるだろうこともきっとバレバレなのに。

 どこまでも大切にされている。それが狂おしい。


「このままじゃ、キスも最後までも出来ないけどいい?」

「あああああぁ悪魔!悪魔はセクシーかつキュートでえっちが過ぎる!!!」

「どっちでもいいよ?敬也の好きにして」

「今っすぐ起きて歯磨き行こう?!ね、はよはよ!!」

「うん。大好き」

「………っ?……えっ、えっ、今、えっ、もう出そう」

「………馬鹿」


 幸せすぎて笑いが込み上げる。

 いいや、今は。後で恥ずかしくなって後悔するかもしれないけど。もう今更。


「全部委ねても敬也は俺を幸せにしかしないから」

 想いのままを口に乗せる。ぜんぶはまどろみの魔法のせい。

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