ついてない

 ついてない。


 昨日遅くまでかかって作成した資料を、朝一で「あのデータ間違ってたんだよね。出来るだけ早くお願い」と修正要求されて。

 担当者が捕まらない時に、長時間クレームの対応を余儀なくされ。

 昼休み返上で資料の手直しをしていたら、水分足りなくて頭痛くなってきたし。

 急いで水分と糖分補ったら、なんか胃がキリキリするし。

 結局朝に増えた余計な仕事の分、今日のノルマが押してきて遅くなったし。

 もー疲れた、って思うけど、これが仕事といえば仕事だし。

 本当に今日は、ついてない。


「おつかれさまー」


 日付をまわる頃にも関わらず、灯りの消えたビル街に、底抜けに明るい太陽みたいな笑顔が輝いていた。

「何してるの」

 驚いた。それと同時に、自分はものすごく待たせてしまったのではないかと心配になった。ここ数か月で最長の残業時間。普段より会社を出たのが数時間遅いというのに。

「お出迎え?」

「馬鹿」

 緩んだ頬が、なんでもなさそうな風にそらとぼけた。外気は冬の盛りではないとはいえど、まだ冷たい。手を伸ばして柔らかな頬に触れると、ひんやりとしたけれど、すぐに温かさを滲ませる。

「本当は、近くで友達と集まってたんだよ。で、解散してどうしようかなって。まだメッセージの既読が付かないから、真尋さん働いてるんじゃないかなーって思って」

 だからそんなに待ってない、と。酒井くんはバレバレの嘘をついて笑った。


「いなかったら無駄になるし。待ってなくていいって」

「うーん。でも、会いたかったから?」

「家でもいいだろ」

「ここからしばらくデートできるでしょ」

「デート………」


 職場近くで、何かを憶測おくそくされるようなことなんて最大限避けてきた。酒井くんと会っているのを見られることすら、少し躊躇ちゅうちょがあった。火がない所にも煙はまき散らされて、鵜呑うのみにした人間から中傷を受ける。傷つくほど純粋ではないけれど、面倒で辟易へきえきすることは確かだ。

 だから、普段は仲良さげな空気すら見せない。誰が見ても適切な距離でしかいない。

 だけど、こんな人気のない夜には。

 つい、うっかり、人目のことなんて忘れてもいい気がしてしまう。

 そしてそんな気分でしかない想いに……この男は気づいているような?


「疲れてるね」

 静かな暗がりの中、並んだ酒井くんの手が伸びてきて、疲れて少し崩れていた髪を撫でまわした。

「今日もがんばりました」

 朝にはきっちりと撫でつけた不愛想なオールバックをくしゃくしゃに解いて、それから手櫛で整えて。まるで子供にするかのように、大きな手が頭の上で自由奔放に髪を弄ぶ。

 頭を撫でられたなんて、いつ振りのことだったのか。そんな記憶は遠すぎて思い出せない。

 ずっと年下のくせに、こんな仕打ち。と、意地を張ってしまうには、その手は余りにも心地好くて。

 深く息を吐いて、その手に重さを預けた。

「……疲れてるから」

「うん」

 嬉しそうな声が返ってきて、肩が触れるほど距離が近づく。酒井くんの肩に少し凭れるように身体を預ければ、肩を抱くように回った腕が優しく頭を撫で続けてくれる。


 がんばって、良かったな。

 混ざりあう温もりと共に、じんわりと胸の中が満たされていく。

 ついてないなって思ったのに。

 こんなにも幸せなリターンがあるなら、ちっとも大した苦労じゃなかった、なんて現金な気持ちになって。

「真尋さんが素直可愛い……」

 この偉大な魔法使いに、ほんの少しだけでも伝えたい。

「俺は誰にでも、こんなことしない」

「うん?」

「敬也だから大人しく頼って甘えるの」

 だってもう、今日が嬉しい日になってしまった。


「ほんと?まじで?嬉しい!」

 静寂にはしゃぐ声。誰も聞いていない、真夜中のビル街デート。

 心の底から幸せが笑い声に乗って、ふわふわと零れた。

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