二人でごはん
『今日は遅くなって、迎えに行けません。お家で待ってます』
仕事を終えてスマホを見ると、酒井から不可解なメッセージが届いていた。
迎えに行けません、の部分は、別に約束があったわけではない。真尋だって、毎日のように一時間余りかけて、自分の職場まで酒井が迎えに来るのが当たり前だとは思っていない。
だいたい、酒井は大学生なのだ。自分なんかにかまけている場合ではないんじゃないかとすら思う。
毎日代り映えしない社会人生活に慣れきって、人生こんなものかと妥協の日々を送る真尋とは違う。まだ自由で、何にでも手が届く頃合いで。だから、真尋にばかり時間を費やしていないで、酒井はもっと日々を貪欲に楽しんだ方が良いのではないかと感じていた。
それは少し、寂しいけれど。
それはさておき、お家で待ってるとは?
確かにこの前、真尋は自宅の鍵を酒井に渡した。時折長時間外で待たせている事があったり、真尋がいない間の時間を潰してから酒井が訪ねてきているのが、不便に思えたからだ。女装道具やファッション用品が多数置いてある部屋を見られるなんて、普通ならば絶対に避けなければならないが、全てを知っていて、何なら半分住んでいるのではないかというくらい入り浸っている酒井に隠すことなど残っていない。
だから、別に家に上がり込んでいる事に対しては、まぁ、思った以上にガンガン鍵を使ってくれるな、っていう感想くらいで。別に良いのだけど。
私生活と仕事を完全に割り切りたかった真尋は、わざわざ職場より少し遠いマンションの部屋を借りている。酒井の生活範囲圏から、真尋の職場までと、真尋の住むところまでで言えば、若干職場までの方が近い。
遅くなって迎えに行けないけれど、家で待っている、というのはどういう状態なのか。
良くわからないが、答えは今頃自分の家で待ってるのだろう。
真尋は問いただしたい気持ちを隠して、スマホをポケットにしまい込んだ。
待っているのだから、早く帰らないと。他意はない。他意なんてない。自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返して、緩んだ頬に気づかずに寒空の元を足早に進んだ。
「おかえりー」
玄関を潜れば、人の気配と温かな空気。それから出迎えてくれる声。
真尋は何やらそれが恥ずかしくなった。嬉しくて、ムズムズとくすぐったい。
物心がついた頃から、家で真尋を出迎える人はいなかった。夜も更けてから自分の為に帰ってくる母親を思えば心苦しいばかりで、寂しいとすら思えなかった。母の再婚と共に高校から寮生活を始めれば、それから一人で生きていくのは当たり前になった。
今まで身近になかった一人ではない生活が、余りにも心の内をくすぐって。
「何してんの」
また捻くれた言葉しか出てこない。
こんな大人げない事を言うつもりなんてないのに、いつも咄嗟に素っ気ない言葉が口をつく。大人として呆れるくらい失礼な態度だし、まるで小さな子どもが気を引きたがっているみたいで、そんな自分に嫌気がさす。
「お出迎え」
酒井はそんな真尋の様子を全く気にもしていないようで、輝きそうなほどの、デレデレの笑顔で平然と答える。顔中に嬉しいと書いてあるような、屈託のない、疑いようのない笑顔で。
「……知ってる」
「今日はさー、ちょっと時間があったから」
「なかったんだろ?」
「ここに来るまではあったんだよ。だから、夕飯でも作ってようかなって。そしたら遅くなっちゃって。帰り時間わからないから、入れ違いになったらなーって思ってさ」
「…………」
真尋が連絡を返さないのはいつものことで。それを非難するでもなく、連絡を要求するのでもなく、ただ受け入れてる酒井の度量はいったいどれだけ大きいんだろう。真尋はいつもそう思う。
ずっと年下の学生のくせに。真尋がどんな態度を取っても、どんな風でも、そのまま全部を受け入れてくれるから。
本当は、自分の方がきっと。ずっと。失ってしまえば生きていけないような想いでいるなんてことを……心の奥底にひた隠している。
本当に自分の家なのかと不思議になるくらい、どこか懐かしくもある良い匂いが部屋に満ちていた。
「ま、無事にご飯はできましたしー」
陽気に身を翻す酒井について行くように、真尋は慣れたはずの自分の家の廊下を歩く。今ひとたびを切り取ってしまいたい。そんな時間が、もうずっとずっと連続している。
伝わらない。伝えたくない。惨めになるのが怖いから。
逃げている。向き合えない。もう一度裏切られたら耐えられないから。
心の根っこに刻み込まれた初恋の傷が、こんなにも真尋を身動き取れなくしているというのに。
なんで、この男はこんなにも幸せそうなんだろう?
泣きたくらい切なくなって、真尋はそっと酒井の背中の服を摘まんだ。抱き着く勇気は持ち合わせていない。
肩越しに振り返った酒井の瞳が、嬉しそうに細められている。それを真っ向から受け止める事が出来ずに、真尋は僅かに顔を反らした。
「真尋さんって、揚げ物苦手だよね」
「別に。夜には重いだけ」
「そうなんだ?いつも選ぶものが女子力高いでしょ」
「女子力……あとは寝るだけなのに作ったり食べたりするのが面倒くさいから?」
「美意識じゃないんだ?美脚運動は怠らないのに」
「………まあ多少は」
「そのエロけしからんおみあしは、フルグラ力かー」
「美味しいだろ」
「夕食シリアルは苦行だよ」
「酒井くん、若いから」
数分もかからない距離。掴んだ服は、解かれる事がない。それがわかっていて掴まずにいられない自分が甘えて頼り切っている事を、真尋は自覚している。
リビングにたどり着いて、名残惜しさを隠して手を離す。平然とした顔をして上着を掛けにクロゼットへ向かって、部屋着に着替えるか悩んでから、真尋は黒い厚手のカーディガンだけ羽織った。………酒井は存外、スーツが好きな気がしているのだ。
酒井はまるで自分の家であるかのようなマイペースさで、キッチンで料理をよそっている。
部屋数は多いものの、単身者向けのマンションの広くはないキッチンで、大きな身体がチョロチョロと動き回っている姿が可愛い。こういう時に真尋は、本当に酒井の姿も好みなんだよなあ、としみじみ思う。
善人そうな柔らかい表情も、背が高くて肉付きが良い体型も、纏っている明るい雰囲気も。見ているだけで和む愛嬌があって、頼りがいもある。
酒井は、容姿に関しては妙に自信がない。確かに若い女の子に好まれる美形ではないのかもしれないけれど、安心感のある見た目で、優しくて、頼りがいがあるのだから、社会に出れば絶対にモテるだろう。酒井の話を聞いている分には、きっと女性と面識が薄いだけなのだろうと、真尋はそう考えている。
自分には余り余るほどグイグイくるくせに、女の子には迫れないのか。そう思うと、それもまた可愛い気がする。
「妹たちには大味って言われるんだけどさー。大雑把だから仕方ないよね」
テーブルの上に湯気の立つ皿が置かれた。長年住んだ我が部屋で、他人に料理を振る舞われる事になるなんて想像もしていなかった。
「ありがとう。いただきます」
綻んだ心のままに自分の頬も緩んでいる事に気づかずに、真尋は素直に言葉を返した。その一言に、酒井は嬉しそうに目じりを下げる。不意に胸が騒がしくなって、真尋はその視線から逃れるように視線を下げた。見つめ合っていたら、全てを曝け出してしまいそうな気がした。
「脂っこいのを避けたら、やっぱり鶏かなーと思って。鶏すきと、余り野菜の味噌汁でーす」
普段使いの深さのある白い皿には、野菜がたっぷりと盛られていた。多分自分の好みよりも、真尋の好みを考えながら用意してくれたのだろう。それが一目でわかる料理が、嬉しくないはずがない。
「女子力高い料理は作れないけどさー。繊細な味付けとか、こじゃれたやつとか」
「そんなの、俺も作れないし」
酒井の視線を感じながら、真尋は手を伸ばして料理へと箸をつけた。
ほっこりと心が安らぐような、温かな味がした。繊細さも、物珍しさやお洒落さなんてものも、全く敵わないほどの恋しい味だと思った。
「おいしい」
「ほんと?」
「俺も女心とかわからんし」
「そうか、そうかも?」
「すごく、おいしい。ありがとう
真尋は俯いたままで、小さく幸せな笑いを零した。この幸せを額縁に入れて飾っておきたいくらいの気分だった。
「デレの破壊力がつよい………」
「はぁ?」
「俺もう主夫になろうかな」
「教育学部?」
「住みたい」
「不便だろ、学校遠いし」
「寝なくてもいい気がしてきた!」
「いや寝ようよ」
「そうだ、一緒に寝られないのは苦行……無理無理の無理」
「そうじゃなくて」
贈ってくれた方が喜んでいるなんて。一体どうやってこの気持ちを返したらいいものか。
真尋はまだ幸せな味を噛み締めたまま、赤らんだ頬を緩ませた。
「そんなことしなくても、今度は俺が作るし」
同じだけを返せるかどうかはわからないけれど。できれば同じくらい喜ばせたい。
顔を上げてそう伝えれば、酒井は緩みきった笑みで力説した。
「なんなら、俺の飯を食べた真尋さんを俺がいただくのでノーカン」
「馬鹿……」
酒井のこの台無し感も、真尋はけっこう好きだったりする。
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