森の奥には
「まあまあ、久々のお客人ね。どうぞ、こちらにいらっしゃって」
少年の霞んだ視界で、可愛らしい黒髪の少女が微笑んだ。
肺を焼く空気。毒を含んだ土壌。
少年は鈍った頭で、最期に良い夢を見たのだと思った。
だから、彼女が開けた小さな家のドアをためらいなく潜り、その背についていった。
彼が覚えているのは、そこまでだった。
次に目を覚ますと、少年は古い家屋の中で、清潔なベッドに横たわっていた。
随分と痛む頭に顔をしかめ、深く息をすると途端に咳込んだ。何も口にしていないのに、込み上げる吐き気に喉元がじりじりする。
だが、そんな苦痛すら、靄のかかった頭では感じることが出来なくなっていたものだった。
「目が覚めたのね」
視界の端で揺れた黒髪。弾む声音。少女は小さな足音を立てて少年に歩み寄って、青白い顔を覗き込んだ。
少年は少女の顔をぼんやりと見つめ、暫くしてから、はっとして身を起こそうとした。その肩に、少女の小さい手が添えられる。
「大丈夫よ。まだしばらく休みなさい。次に目が覚めたら、もう少し楽になっているはずだから。解毒の薬ならば、私が世界で一番詳しいのよ。あなたは助かるわ。だから、今はゆっくり休むの」
それは少女らしからぬ、年かさの女性であるかのような落ち着いた言葉だった。
伸びてきた彼女の指が、少年の額を撫で、汚れて束になった髪を丁寧に撫でていった。
冷たい。
その心地よさに瞼を閉ざす。
少年はまだ夢の中にいるような浮遊感の中で、僅かにだけ持ち上がった疑問を意識の奥に沈ませた。
彼女がなんだって、構わない。そう思えた。
その感触を楽しんでいる内に、少年の意識はまた深く泥濘の中に沈んでいく。
少女は薄汚れた彼の姿を気にも留めず、いつまでもその額や髪を優しくなで続けていた。
そうして、眠りと覚醒をどのくらい繰り返したのかわからない。
だが、少年が目を覚ますといつも、目の前には同じ天井があり、気づいた少女が瞳を輝かせて微笑んだ。
自分は死んだのではなかったか。
随分と楽になった頭と身体で、少年はようやくその疑問を胸に抱いた。
目の前にいるのは女神のような、無垢な少女で。
汚染された大気の中、穢れきった大地の上で、平然な顔をして生きている。
そんなことがある訳はなかった。
この惑星は、もう生き物が生きて行ける環境ではなかった。
過去に栄華を極めた人類は、助かるためにシェルターを作り、その中に安寧の住処を築いた。
空気は全て清浄され、大地も水も徹底的に解毒管理されている楽園。残された人類は、そこで昔の栄華と変わらぬ生活をしているのだ。
シェルターの外には、もう生命体など残されていないはずだった。
虐げられ、あらぬ罪を擦り付けられて、罪人としてシェルターを追放された少年が、生きて行けるはずなどなかったのだ。
枯れた大地を、どのくらい歩いて来たのかわからない。
毒だと理解していても水が飲みたくて、枯れた木々の間をのたうち回りながら森に入った。
どこもかしこも痛くて苦しくて、酸素を求めて必死に吸い込む空気に肺が焼かれた。
生き伸びたいと思う余裕もなかった。ただもう、最後の本能だけで歩いて来たようなものだった。
なのに、今は楽に呼吸が叶う。少女の差し出す優しい味のスープを、至福の思いで胃に流し込んでいる。
軋む身体はまだいう事を聞かなくて、赤ん坊や寝たきりの老人であるかのように彼女に全ての世話をされている。それでも、自分でスプーンを口に運ぶくらいには、体力も戻ってきた。
「きみは、……だれ?」
少年は、空になった皿の上にスプーンを置いて尋ねた。
「私は、ルイナ。この森でずっとずっと暮らしてるアンドロイドよ」
少女はどこから見ても自然な笑顔でそういった。
「遠い昔には、ここでおじいちゃんと一緒に暮らしていたの。一人になってからは、学術機関の人たちと協力して、大地の清浄化の研究をしているのよ。だから、人間のお世話も、解毒に関してもプロなの。任せてて」
ルイナはにっかりと、少女らしく歯を見せて、少し照れたような、でも自慢げな顔で胸を張り笑った。
少年は陶然と、生命力を感じるその美しい顔を見つめていた。
「助けてくれてありがとう、ルイナ。ぼくの、女神」
浮ついた言葉が深く思考を潜ることなく、ぽつりと少年の口から零れた。
この出会いは、この永らえた生命は、彼女と出会うための軌跡。
彼は、そんな神秘的な感情に胸を占められていた。
「ぼくは、シュウ。早く元気になって、君の役に立てるようになりたい」
少年の瞳に強い意志が灯り、真っすぐにルイナを見つめて宣誓するかのように言葉を紡いだ。
裸の木々の生えた森の奥。腐った大地の上。枯れた小川の側に。
一人と一体の生活が始まった。
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