お願い(after 賀ショート)

「流太郎は最近いつも、ずっと、作業にかかりっきりです」


 ベランダから室内に戻り、作業の続きをすべく机に向かっている所で、ペコは流太郎の前にふわりと現れて不満げに訴えた。

 眉根を寄せ、頬を膨らませて、唇を突き出して、じっとりと流太郎を見上げてくる。

 その表情は、ペコの人形の身体では表現できない起伏に富んでいて、流太郎はまた一つ見ることが出来たペコの一面に嬉しくなった。


「僕にはまだまだ知識も技術も足りないからね」


「流太郎がすごく頑張っているのはわかっているのです。でも……」


 ペコは曇った表情を更に歪めた。泣き出しそうな瞳が必死に流太郎を見つめる。


「たまには、以前のようにゆっくり一緒に寝たいのです。流太郎の姿を見て、呼吸の音を聞いて、体温を感じていたいのです。一年の始まりの、お祝いの日なのでしょう?今日くらい、今くらい、だめでしょうか?」


 ペコは駆け引きなどというものを知らない。だから、考えていることが言葉通りであると流太郎は知っていた。


 自分の望みを口にすることが出来ないペコに感じていた不憫さが、とても心苦しかった。

 製作者に貰った掌サイズの箱形機器は、ペコの人形の身体に備え付けられたコンピュータよりも数倍は性能が良いものだという。それを活用して、ペコはようやく最近何かを望む事が出来るようになったばかりだ。だから、ペコが自分の希望を口にするのは、流太郎にとって嬉しいことで、叶えてあげたいことだった。


 だが、本音で自分が求められている事を思い知るようなお願いを聞けば、嬉しい反面沸き上がる面映ゆさに、流太郎の胸はそわそわと落ち着かなくなった。駆け巡る鼓動に一気に体温が上がる。


 本当はもう少し、任された小遣い稼ぎのための作業を進めたい所ではあるけれど……。


「うん、わかった」


 流太郎は簡素に答えを返し、緩んだ頬を誤魔化すために下唇を噛み締めた。



「嬉しいです」


 とうにベッドに横たわっていた可愛らしいパジャマ姿のペコは、隣に並ぶ流太郎の姿を見てぎこちなく微笑んだ。

 流太郎にとっては、そちらの方がまだ馴染深いペコの笑顔だった。何年もこの姿のペコと過ごしてきたのだから。


 ペコの兄貴分である空汰は、実体を持たない。

 それは、空汰がコンピュータとして生まれて過ごしてきたからなのだと流太郎は考えている。操れる全ての機器が空汰の頭脳であり身体である。ぽんぽんと媒体を乗り換える彼の振る舞いから、空汰がそう考えているのが伺えた。


 それとは違い、ペコは人形の身体のAIとして備え付けられた。

 ペコは、歩くことも、自由に動くこともできない人形の身体を、自分の身体だと認識しているようだった。

 ずっとペコと過ごしてきた流太郎にとっても、その感覚は強くある。

 だが、本当はこれはペコの器の一つに過ぎないのだ。精密機器ながら5年の時を過ごしたペコの身体は、もう十分古いものと言っていい。老朽化による機械部分の障害が起こり得るし、体表などの素材だって傷んできている。

 いつかこの身体を諦めなければならない時がくるのだと、流太郎は理解していた。

 しかし、ペコは唯一無二にこの身体だけが自分だと考えているようだった。


「久しぶりに、流太郎がここにいます」


 視線が絡むと、ペコは無機質な瞳を笑みの形にして、スマホの音声よりも若干起伏の乏しい声音を鳴らした。

 それ以上を知ってしまえば、ペコの身体の不足は目立った。それが流太郎には痛々しく映る。


「この身体は不便でしょう?」


 毎日熱心に手入れしてきた髪は、どこかぺたんとボリュームを失った。最初に放置した時間が長かったのが災いしたのか、背中とお尻の肌はうっすらと変色し、弾性を失ってきている。

 中身の機械部分は見えないからわからない。だが、きっと同じように時を経て消耗してきているのだろう。


 ペコは僅かに目じりに皺を刻んで笑みを深くした。

 人間の皺は出来るべくして出来ているのだな、だなんて、流太郎は少し場違いな感動を覚えていた。


「私は、流太郎が綺麗だと言ってくれるこの身体が好きです」


 昔聞いたような言葉が、昔見た笑顔のまま語られる。

 流太郎は、それが奇跡のような光景だと思った。

 そしてその次の瞬間、急に不安そうに眉を垂らしたペコに心臓を握りつぶされそうな焦りを覚えた。その変化に、まるで全てが夢だったかのような不安を搔き立てられていた。


「ですが、私が古くなったから、もう綺麗ではないのかもしれません」


「そんなことはないよ!」


 流太郎は思わずがばりと身を起こした。

 ペコのガラス玉の瞳には、感情の色はない。だけど不自由な顔いっぱいで、寂しさを語っているのがわかった。


 確かに、もうすっかりとメンテナンスにも日々の世話にも手慣れた流太郎は、ペコの身体に触れる時間が以前に比べるべくもなく減っている。


 それ以前に、昔のようにただ何となく過ごす日々にペコがいる訳ではない。

 目標のためには寝る間を惜しんで努力してきた。己が師となる人間が時々持ってくる小遣い稼ぎの儲け話の度にその努力が実を結んでいると実感して、自分の能力が上がっている、出来る事が増えていることが嬉しくて楽しかった。

 だから尚、出来る限りの努力をし続けていた。

 それに比して、ペコに関わる時間は以前よりもずっと少なくなっている。


 まさかそれがペコに興味がなくなったのだと受け取られるなんて、その可能性があることにすら、流太郎は今初めて思い至った。


 一斉に頭の中を駆け巡った情報に、流太郎はあたふたとただ口を微動した。

 早く否定したいのに、溢れた色々なもので混乱し、一向に言葉にならない。


「綺麗じゃないなんて、思ってない。ただ、ペコが壊れる事が怖いんだ」


 この仮本体が贈られたのだって、本当はペコの身体の寿命を考慮してなのだろう。だが、ペコは人形の身体を自分だと認識している。

 今はまだ無理に本体を移してしまわない方が良いかもしれない、と空汰は言った。

 ペコの思い入れが大きければ大きいほど、本体を箱へと移した時に、身体を失ったペコの喪失感はひどく彼女を苛むに違いない。

 今この時に、ペコを留めてしまいたい。失わないように。無くならないように。

 だけどそれが絵空事であるのを流太郎は知っている。だから、抗うのだ。前に進むことで。


「ですが……」


 ペコは、涙の幻像が見えそうなほど苦し気に、眉を顰めたまま口元で笑った。


「私は、最後まであなたのためのものでありたい」


 まるで、いつかは消えてなくなる覚悟ができているかのように。



「………君がなんだっていいんだ」


 ペコの目が、瞬きを忘れて見開かれている。限られた動きしかできず表情が薄い頬に、ぽたり、ぽたりと雫が滴る。

 ああ、ダメだ。これではペコの繊細な肌を劣化させてしまう。

 流太郎は腕で目元を拭って顔を反らした。


「流太郎……」


 不安げなペコの声が、肌寒い部屋の中に綺麗に響く。流太郎は今この瞬間ですら、まだ奇跡の延長だと理解していた。束の間の夢かもしれない何の補償もない奇跡。だが、それに人生をかけたのは己の決断だった。


「どんな姿だっていい。ずっと僕と一緒にいて。それだけが僕の望みだから。一生僕の夢でいて。ずっとずっと、ペコを追い求めさせて欲しい………最後まで」


 じわじわと袖が熱く湿る。まだ顔が上げられずに、流太郎は口元だけで笑った。ペコを不安にさせたい訳ではない。

 ペコはそんな流太郎を暫く瞬きを忘れたままじっと眺めていた。


「私は、今までも、これからも、ずっと流太郎のために存在しているのです。確かめるまでもなく……」


 声帯を震わす必要のない音声が、震えて流太郎の耳に届く。


「なのになぜ、……うれしい、と。流太郎が苦しそうなのに……でも、ずっと、と望んで貰えることが、こんなに嬉しいと思うのでしょうか」


 そろりと顔を上げると、ペコは顔を歪めながら微笑んでいた。

 その複雑な情緒は、今までは見せることがなかった……ペコが機能上持ち得なかった感情なのだろう。

 伸びしろが増えれば増えるだけ、流太郎に真っすぐに返ってくるペコの気持ちが。

 何よりも流太郎の選んだ道を後押ししてくれている。


「一緒に幸せでいよう」


 迷いも不安も晴れた気持ちで、流太郎は微笑んだ。

 こんな風に生きられる自分を、とても幸せだと感じていた。そしてこれからも、自分は幸せでいるのだと。絶対に、そうなってみせるのだと。

 鈍ることがない決意は胸の奥深くで燃え続けている。


「はい、幸せです。ずっと、ずっと」


 同じだけの幸せを噛み締めるようにペコも頬を緩め、声音を弾ませた。

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