雪の夜に(『終着点のない夜明け』の短編ver.)
目の前を白く染め上げるように、縦横無尽に雪が舞う。
滅多に雪が降らず、積もるようなことは年に一度あるかないかくらいのこの地域では珍しいくらいの大雪。雪に慣れない交通機関は滞りがちで、こけて怪我をしないようになんてあちらこちらから聞こえてくる、珍しい雪景色だった。
「わぁ、ほんとすごいね」
理沙は小さな子供の頃と変わらない無邪気さで、伸び上がって空に手を突き出している。手袋の上に大きな雪の結晶がほんの少しだけ止まって、そして消えていく。吐く息は雪煙にも負けずと白く、冷たい風にさらされた頬は逆に赤みを帯びている。
「はしゃいでないで、さっさと家に帰るぞ」
そんな彼女が風邪を引かないかと心配で、俺はあからさまな溜息を吐いて呼び寄せた。
「なんか温かいものでも買って帰ろうか?」
手先が冷えたのだろう、歩きながら手袋を擦り合わせて彼女が息を吹きかける。セーラー服の上には、ありきたりなコート。首にマフラーを巻いてもなお、この気候を想定もしていなかっただろう、学校指定の装いは寒そうだった。
理沙の手袋の指先が濡れているのに気付いて、くいと手を引く。
素直に寄越された手から、その手袋を抜き取って、代わりに俺の手袋を渡した。
「馬鹿な事するから濡れてんじゃん」
一瞬表情を止めてきょとんとした理沙は、俺の手袋を握り嬉しそうに頬を緩める。
「ありがとう、お兄ちゃん」
頼りきり、繕う事がないその笑顔は、昔からずっと変わらなかった。
コンビニに立ち寄って、温かい飲み物とちょっとした食べ物を買い家路へとつく。
両手で紅茶のペットボトルを握りしめる理沙は、幼い頃と同じ顔をして俺の隣を歩く。
二つ年下の理沙も、あと一年と少しもしたら高校を卒業する。
活動範囲が広がれば、こんな風に並んで歩く事も少なくなるかもしれない。
その時もまだ、今みたいに許してくれるかはわからない。
大雪の中の下校が心配で迎えに行ったりすることを。
その役目はもしかしたら他の男のものになっているのかもしれない。
そう思うと、想像でしかないにも関わらず怒りに似た何かがふつふつと腹の底で煮えた。
「寒かったー」
玄関をくぐると、理沙は大急ぎでリビングに駆け込んで暖房をつけた。
まだ冷えたままの指先を必死に擦り合わせ、はーっと息を吹き掛けている。
俺は彼女が腰を下ろしたソファーの前のローテーブルに買い物袋を雑に置き、ソファーにダウンジャケットを投げ置いてから部屋を出る。
誰も居なかった家の中は冷えているが、外に比べれば暖かいとも言えた。
浴室に向かうと簡単に掃除して、バスタブにお湯を張る。
そうして、リビングで紅茶を飲みながらテレビを見始めていた理沙に、タオルと、お土産代わりに買って来ていた可愛らしい色をしたキューブ型の入浴剤を手渡した。
「ほら拭いて。体、冷えてるんだから、準備できたらすぐに風呂で温まれよ」
理沙はそうやって俺が世話を焼くのにも慣れたもので。
タオルを首に掛け、嬉しそうに笑ってカラフルなキューブを掌に乗せた。
俺たちはありきたりな共働きの家庭で生まれ育ったが、父は一年のほとんどを出張している。現キャリアウーマンの母は、俺たちがある程度成長しパートタイムを卒業してからは、いつも帰宅が遅い。
今日は大雪で交通も大混乱で、近くのホテルに泊まるらしい。
今まで仕事が忙しい時にはそんなことも度々あったし、俺は自分で自分の世話は焼けるので問題はない。そして、俺が理沙の世話を焼くことはもうずっと前から日常茶飯事だった。
温い風が回り始めた部屋の奥へと足を向ける。リビングに隣り合ったカウンターキッチンは最早俺の領域。きっとこの家の誰よりも使いこなしていると言えた。
冬の暮れは早く、さっきまでは薄灰色だったはずの空は、もう既に宵闇に染まりつつある。
まだ夕食までは少し早い時間だろう。こんな寒い日だから、温まるものがいい。
冷蔵庫の中身と相談しながら、手早く食材を並べ、調理してゆく。
「なーんか、いい匂いするー」
すっかり温まったリビングのソファーから振り返り、スンスンと理沙が鼻を鳴らす。じっくりと炒めた玉葱に、調味料として少しのベーコン。鶏肉とたっぷりのきのこ。彩は人参で、最後にくどさを押さえてボリュームを添える予定の白菜はボールで待機中。
大したモノでも凝ったものでもなく、市販のルーで仕上げるありきたりなホワイトシチュー。料理なんてものに慣れ親しんだ手際だけはいいと自負している。
「もーちょい待ってろ」
多分出来上がりよりも炊飯器の方が遅れを取るだろう。パン食もいけなくないけど。ま、その辺は気分で選べるから問題ない。
「はーい、楽しみー」
浮ついた声で語り、頬を綻ばせてスナック菓子を口に放り込む理沙に、口元が緩む。
食ってるくせに。本当、だらしないな。
そういう姿が見られるのは、今この世界で俺しかいない。
「いいから、さっさと風呂に行ってこい。飯もお預けだからな」
少し前に鳴り響いたメロディーに気づいてはいるだろうのに、腰が重い理沙を言葉だけで追い立てる。しぶしぶと立ち上がった彼女が、大切そうに入浴剤を抱えて部屋を出ていく姿に、どこか達成感のような想いが湧き上がった。
一人になったキッチンで、息を吐いて頬の力を緩める。
本当に、もう。仕方のないやつだな。
理沙と相対して平然としてのけている顔の下では、いつも緩みきっている。それを平然としてのけるのは、兄としての務めなのだ。
決して見られていいものじゃないだろう。
いつか理沙が、このほとんど二人だけの家を出ていくとしても。こうやって過ごす時間から卒業するのだとしても。
今はまだ俺だけのものだとすら思っているから。
どこぞの馬の骨が、超えられるものなら超えてみればいい。俺はそれだけのものを培ってきた。
シチューを仕上げて、簡単にサラダを添える。あとは本人の好きな主食を選べばいいだろう。
時計に視線を向ける。そろそろ夕食時として丁度いい頃合いか。
いつもは飲食店のアルバイトへと出かける時間帯だけど、今日は早仕舞いするという事で予定がなくなった。
久しぶりに理沙に一人の食卓を過ごさせずに済む。
もうそれが寂しい年頃ではないかもしれないけど、昔それが寂しかった事は知っているから。なるべくなら側にいてやりたい。
頬が緩んで、唇の端がやんわりと弧を描く。理沙の笑い方に、似ているのかもしれない。
だから決して、見せることはない。
これはシスコンで済ませられる問題なのか、異常な域なのか自分でもわからなくなる。
自分が育てた娘を手放したくない父親なのかもしれないし、自分の女を取られたくない男なのかもしれない。
でも何となく、どちらにしても、誰にも知られてはならない気がしていた。
知られてしまえば終わるような気がしていた。
だから、理沙がこのぬるま湯のような生活から出て行きたくないと思えるように手を尽くして。
その日が少しでも遠い事を祈るくらいしか、俺に出来ることはない。
「おにーちゃん、入浴剤すごくいい匂いだったよ!」
血色のよくなった肌をほんのりと赤らめて、上機嫌で部屋に駆け込んでくる理沙に、笑みの代わりに小さく溜息を零して。
「ちゃんと髪を乾かせ。冷えるだろ」
乾きが甘い髪をタオルで拭って、手櫛で整える。これはドライヤーが必要かな。
いつもと違う甘い匂いを纏った理沙に、こうやって触れられるのは、今はこの世界で俺一人だけ。
「だって、面倒くさくて。ありがと」
理沙は、疑いを知らない子供のように、俺を見上げて無邪気に笑みを向ける。
いつまで続くのかはわからない。今を永遠に切り取ってしまいたい。
幼い日の雪遊びみたいに、ほんの少しだけ特別な今日を、また一つ心のアルバムに刻んだ。
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