1.眼鏡を外して。 ②
◇◇◇◇
金曜日。
若干のアルコールと一週間分の疲れを背負って帰宅した俺を待ち構えていたのは、愛しのかわいい奥さん。
ちいさくて、
栗色の髪をしていて、
困ったように眉を下げて笑う、
笑顔のかわいい奥さんである。
やわらかい頬にちょこんと浮かぶえくぼをつつきたくなる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
この笑顔を見ると、途端に疲れが吹き飛ぶようだ。
なにかフェロモンでも出しているのだろうか。
しあわせホルモン? 癒しフェロモン?
なんだっていいや。
俺を癒してちょうだい。
なにも言わずに抱きつけば、やさしく包んで「おつかれさま」のキスを――してくれたら、最高なんだけど。
シャイな彼女の唇はなかなかいただけない。俺をやさしく包み込んで、「おつかれさまでした」と頭を撫でてくれた。それだけでもじゅうぶんしあわせです。
「んー」
「あ。お酒呑んでる」
「ちょっとだけね」
「座って待ってて、お水あげる」
「うん」
台所に立つ小さな背中。
この小さな身体のどこにそんな体力があるのかとびっくりするほど彼女も重労働をしてきたはずなのに、よくこんなにもテキパキと家のことまでこなせるなあ。
頭が下がるばかりだ。
運ばれてきた水をあおり、「ありがとう」とつぶやけば、ふふふ、と笑って「どういたしまして」と言う。
違うよ、水のことじゃなくて。
こんなときに醒めてきた酔いが憎たらしい。
「うん」とうなずくことしか出来ない。
ぼんやりとしている俺を心配してくれたのか、また頭を撫でてくれる。
ああ、心地いい。
きみにこうされるの、すきだなあ。
ふと目が合って、彼女が口を開く。
「ごはんにする? それともお風呂?」
――あ、なんか聞いたことあるぞこれ。
「亜子ちゃん」
なんて。
答えたらきみはびっくりするのかな。
「ごはんにします」
そんな恥ずかしいことを言えるはずもなくて、腹を満たす選択肢を選んだ。腹が減っては戦はできぬ。
「帰り、遅くなってごめん」
「ううん。――ちょっと、淋しかったけど。飲み会?」
「ちょっとね。職場の人と」
「お付き合い、大変だね」
すっかり冷えてしまった夕飯を温めながら彼女と交わす、なんでもない会話。
それがすきだ。
人見知りをする方で、人と話すことが苦手な彼女が俺の前ではこんなに喋る。
心を開いてくれている感じがして。
いいなあって思う。
まだ酔いが残っているのだろうか。
変なことばかり考えてしまう。
普段は考えないようなことばかり。
「今日はね、
「おーっ!」
「一週間おつかれさまの気持ちを込めてね。ふふ、どーぞ召し上がれ」
「ありがと」
美味しい。
いつも美味しい彼女の手料理が、今日は一段と美味しい気がする。
真心だろうか。
疲れた身体に沁み渡る――ってこういうことを言うのかな?
「うまいよ」
「よかった」
「お料理上手なお嫁さんをいただけて俺はしあわせ者です」
「えへへ」
今日はどうしたの、と彼女がほほ笑む。
どうしたんだろうね。
身体中を巡るアルコールのせいかな。
少しずつ醒めていく酔いと、
満腹感と、
やさしい奥さんと、
このあたたかい空気感。
たぶん、それらがいい感じに作用して、俺を幸福に満たしていく。
「今日も美味しいごはん、ありがとうございました。ごちそうさま」
「お粗末さまです」
「今度は早く帰ってくる。一緒にごはん食べよう」
「うんっ。美味しいごはん作って待ってる」
力こぶなんてできやしないのに、顔の横で拳を作ってほほ笑む彼女。
つき合っていたころからなにひとつ変わらない。素直でやさしくて、癒されるひとつひとつの行動、言葉、ぬくもり。
頭を撫でてそっと顔を近づければ、なにを勘違いしたのかきゅっと目をつむった。
「キスかと思った?」
「あ……う」
「違わないけどね」
普段は髪に隠されている額を露わにさせ、そこに軽い口づけを。
いつも、ありがとう。
言葉にはできなかったけれど。
きっと伝わってるはず。
そう信じて。
耳まで真っ赤にした彼女は慌てて額を隠し、「お風呂の準備するね」と、これまた慌ててキッチンから出て行った。
「ごはんにする? それともお風呂?」のお風呂の番か。
その他の選択肢はないのかな。
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