第31話 名前を知らない感情

 花恋が根城とするマンションを出ると、僕はやや小走り気味に家へ帰った。

 今日は僕が料理当番の日なので、晩ご飯の時間が遅くなると更紗に小言を言われかねない。額に汗を浮かべながら慌てて玄関扉を開くと、たたきには彼女の靴がなく安堵の息を吐いた。

 キッチンに移り早速晩ご飯の支度を始める。

 執筆や読書で根を詰めているだろうから、なるべく栄養が取れる献立にしようと冷蔵庫の中を覗いた。


「んー……白米に味噌汁、豚の生姜焼きにサラダでいいか、よしっと」


 食材を取り出すと、袖を捲って調理に取り掛かる。

 コンコンと包丁がまな板を叩く音がやけに響いた。

 普段であれば更紗が「まだ?」とか「早くしてよ」とか軽口を叩いてくるのに、今日は酷く静かだ。少し癪だが更紗がいない空間は寂しいと思った。付き合う前は相性最悪コンビだったのに、今は更紗がいることが当たり前だと感覚が狂っている。


「それにしてもあいつ、遅いな……」


 味噌汁と豚の生姜焼きが完成する。

 お皿へ盛り付ける前にLINEで連絡を入れた。

 しかし、一向に返事が来る気配はない。

 四度目のメッセージを送る頃には二十時を過ぎていた。

 僕の心が苛立ちと心配で板挟みにされ、流石に様子が変だと自室に向かう。窓越しに向かいの部屋を覗くが、断絶するようにカーテンが閉められていた。


「……仕方ない、か」


 これを取り出すことは二度とないと思っていたが……。

 デスクの引き出しから紙製の小箱を取り、蓋を開ける。

 三年前まで日常的に使用していた、隣の家の合鍵が姿を現した。

 合鍵をポケットに仕舞い込んでキッチンに戻る。お椀に白米と味噌汁を装い、平皿にカットサラダを盛り付け、そこに豚の生姜焼きを添えた。最後にラップを掛けてお盆の上に乗せる。


「よし、行くか」


 お盆を器用に片手で支えながら、隣の家へ向かった。

 ガチャリと鍵を解錠し、家内へ入る。

 既に陽が沈んでいるのも相まってか玄関は真っ暗だ。僕は記憶を頼りに手を伸ばして、壁の電源ボタンを押す。灯りが灯ると靴を脱いで二階へ足を運んだ。

 コンコンと更紗の部屋の扉をノックする。

 しばらく経っても反応がないので、「入るよ」と断りを入れて扉を開いた。


「っ…………」


 ノートパソコンと対面する更紗は椅子に座っていた。

 数文字書いてはdeleteを押し、数文字書いてはdeleteを押し。

 その瞳には大粒の涙が溢れ、その指先は小刻みに震え。

 ややあって、更紗はこちらを向く。

 その綺麗で整った顔は、不安定に呼気を吐き出し、現実に立ち向かおうと強い意思を瞳に宿し、鼻をすすって、それでも強くあろうと口端を上げて、


「どう、しよう……私、小説……書けなく、なっちゃっ……ぅうっあぁ……あああああぁぅっ」


 ――酷く、歪んでいた。

 僕はお盆をデスクの上に置いて、更紗の身体を引き寄せた。

 彼女の頭を僕の胸の中に抱え込んで、ぎゅっと抱き締める。


「っぅあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 更紗は、わんわんと泣き散らした。



***



「泣き止んだか?」

「……うん」

「もう大丈夫か?」

「……うん」

「離れられるか?」

「……ううん」


 更紗は涙を枯らしても尚、僕の胸元から離れる様子はなかった。

 いつの間にか絨毯の上に押し倒され、更紗が僕を覆うように身体を重ねている。体勢的に押し返すことも難しい……いや、それも苦しい言い訳か。僕は更紗の温もりを手放したくなかった。

 今の更紗を手放してしまったら、もう二度と元に戻れない気がしたから。

 彼女の頭を優しく撫でながら、率直に訊ねた。


「小説を書けなくなったっていうのは、その……やっぱり、僕が浮気していたからだよね?」

「そう、だけど……なんでわかったの?」

「実は花恋と同じようなことがあって」


 とは言え、花恋は理由は明瞭だった。

 ――三年前は好きな人からの連絡が途絶え。

 ――今は好きな人に浮気をされた。

 両親の離婚や偽物の関係という複雑な事情はあれど、根本的な原因はその二つだろう。客観的に見れば、本当に酷い仕打ちをしていると思う。花恋は僕のキャラクターを何枚も描いてくれたのに、恩を仇で返すとはまさにこのことだ。

 それを説明すると、更紗は目を丸くしながら僕の頬を抓ってきた。


「なんでもっと早く気づいてあげなかったの、ばか」

「え、怒るところそっち?」


 更紗はぺちんっと頬を引っ張って離した。


「当たり前でしょ。私を優先して欲しかったって怒鳴りたいのは山々だけど、花恋ちゃんがどれだけ辛く苦しく悲しい思いをしたのか、私はわかるから」


 なにかを推し量るような瞳で、更紗はそう言った。

 多分、それが答えだったのだと思う。


 ――身を挺してお風呂に突撃してきたのも。

 ――僕の分まで夢を背負ってくれていたのも。

 ――僕と更紗を題材にしていたのも。

 ――今更幼馴染の関係に戻りたくない、と言っていたのも。

 ――他に付き合いたい人はいない、と言っていたのも。

 ――もっと私のこと考えて、と言っていたのも。


 全てが至る所に散りばめられていた伏線だったのだ。

 あれからずっと、更紗のことを考えていた。

 更紗がなにを想い、なにを考え、どうしたいのか。

 そして今、更紗の言葉を聞いて確信した。

 花恋が僕に「本物の恋人になって」と告白したのを、更紗は「私はわかる」と共感した。つまり、更紗は退するのではなく、したいのだと。


「そうか……更紗も僕が好きなんだ……」

「ようやくわかってくれた?」

「ああ、遅くなってごめん」

「本当に遅すぎるよ、ばか」


 頬を擦り合わされた。

 艶やかな感触が伝わってくる。

 その動作一つひとつがたまらなく愛おしいし、その度に心が突き動かされた。

 この筆舌に尽くし難い感情は、名前を知らない感情は、まるで麻薬のようだ。脳が痺れ、強い独占欲が芽生えてくる。彼女を永遠に自分の物にしたいという、酷く醜く素敵な独占欲だ。

 ようやく、この感情の答えを知ることができた。

 でもきっと、その名前を付けるのは今じゃない。

 だから僕は先んじてそれを伝えておいた。


「ごめん、更紗の気持ちには、まだ答えられない」

「うん、わかってるよ」

「更紗が新人賞に受賞するまでは大切に取っておくよ」

「途中で失くしたら、その時は本気で許さないからね?」

「大丈夫、約束するよ」


 小指と小指を合わせて、ぶんぶんと振る。

 ――もし明日地球が滅びるとして、更紗か花恋のどちらかだけ救えるなら、僕は迷わず更紗を選ぶよ。

 下手な大口を叩いてしまったなと思う。

 頭の中で更紗と花恋を天秤に掛けても、ちょうど水平になってしまう。

 三年前までも、そして今も、二人は僕の中で大切な人の扱いになってしまっているから。でもそれは、これからじっくりと考えていけばいい。

 僕が今やるべきことは、二人を立ち直らせることだから。


「後は僕に任せて。更紗を絶対に救ってみせるから」

「うん、私のこと助けてね」


 くしゃくしゃ、と更紗の髪の毛を乱した。

 ふと、更紗のお腹がぎゅるぎゅると大きな音を立てる。


「……うぅ、お腹すいた」

「今晩のおかずは豚の生姜焼きだよ」

「指先が震えて箸持てない、食べさせて」

「はいはい、わかったよ」

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