第29話 すれ違い

 月曜日の放課後、僕は花恋の家に向かっていた。

 今日、更紗と花恋は学校に現れなかった。

 発熱のため休みを取ったと教師から聞かされたが十中八九仮病だろう。昨日は二人とも顔を合わせなかったが、一昨日に体調を崩している素振りはなかった。それに何度かLINEを送信したが、全て既読スルーされているのが仮病の良い証拠だ。

 記憶を辿りながら目的のマンションまで着く。ロビーに入るとパネルに部屋番号を入力し、内線を繋いだ。


『なにしに来たんですか……』

「可愛い彼女の様子を見に来たに決まってるだろ」

『解錠の呪文を唱えてください』

「おっぱい揉みたい」

『そんな呪文があってたまりますかっ!』


 花恋がすかさず突っ込みを入れると、解錠されたドアがおもむろに開いた。

 五階まで上がり、花恋の部屋のドアホンを鳴らす。


『あーあー、お客様がお掛けになった電話番号は……』

「ボケが古典的すぎるし、まず電話じゃないだろ」

『む、おっぱい魔人のくせに反抗する気ですか』

「やめろご近所さんに聞かれたらどうするんだ」

『やだなぁ、通報するに決まってるじゃないですかぁ』

「もういいから早く開けてくれ……」


 玄関扉の奥から花恋が出迎えた。

 水色の大きいパーカーをワンピースみたいに着用し、水々しく艶感のある太ももが目に付く。


「先輩、実は玄関に結界が張り巡らされていて……男の人は立ち入り禁止なんです……」

「はいはい厨二病設定お疲れ様。てか無防備すぎるだろ、そんな格好で外に出るな」

「むむ、扱い雑すぎませんね」


 脱いだナイキのスニーカーを綺麗に揃えて廊下に上がる。

 花恋は口先を尖らせて、パーカーの裾を掴みひらひらと揺らした。


「それと、他の人だったらちゃんとズボン履きますよ」

「げっ、てことはまさかその下、なにも履いてないのか……?」

「はいっ! お・ぱ・ん・つ、だけですよっ!♡」

「せめてショーパンだけでも履いてこいっ!」


 きゃっ、と黄色い声を上げて花恋は自室に入っていった。

 僕が部屋の前で立ち止まっていると、こちらの意図を察したのか十数秒後に「入っていいですよ」と声が掛けられる。

 室内に入ると花恋がパーカーの裾を捲り上げ、自分で「ちらっ」という効果音を付けた。デニムパンツがくびれたおへそ周りから下を隠している。生脚の面積が減ったのは残念な気もするが、自制心を守るため致し方ない。

 彼女はこほんと咳払いして、声音を整えた。


「花恋、やっぱりそのデニムパンツ脱いでくれないか?」

「心の声を代弁するのはやめてぇ……」


 花恋がけらけらと笑って、デスク前の椅子にお尻を付ける。

 僕もそれに倣って絨毯の上に腰を下ろすと、感嘆の声を漏らした。


「きちんと部屋が片付いているじゃないか」

「どこかの誰かさんが家事のできない女とは結婚しないって言ったからですよ。それにあっと言わせるって宣言したじゃないですか。絶賛花嫁修行中ですっ!」

「はいはい、がんばれがんばれ」

「先輩に棒読みされるとムカつきますねっ!」


 とは言え、髪の毛一つ落ちておらず、隅々まで掃除が行き届いているのは素直に関心するし、自分を磨くために努力するのも素晴らしいと思う。

 これで花恋が僕を紐にしてくれるのなら、本当に結婚するのも一考の余地はあるが……と、塵芥以下の考えを浮かべていると、花恋が小首を傾げて訊ねた。


「それで、先輩はなにしに来たんですか?」

「それはさっき答えたと思うけど」

「なるほど、おっぱいを揉みに来たんですか」

「ちげーよ、可愛い彼女の様子を見に来ただけだ」

「そういう不意打ちはいいですから……ばか……」


 花恋が頬を赤くするのを横目に、僕は咎めるような視線を向ける。


「その前に、まず君は謝らなくちゃいけないことがあるだろう」

「ほえ、なんのことです?」

「とぼけるなよ……君がLINE返さないから僕は屋上で待ちぼうけ喰らったんだぞ! 昼飯抜きになるわ授業に遅刻しかけるわで最悪だったんだからな!」

「てへぺろ?」

「その生意気な舌を引きちぎってやろうか」

「舌を絡ませたえっちなキスができなくなりますけど、いいんですか?」

「よくないけどいいよっ!」

「どっちですかっ⁉︎」


 ふん、と鼻を鳴らして腕を組む。


「……返信くらいしてくれてもいいだろ」

「あー、先輩が拗ねてるー……って、冗談ですからハサミ取りに行こうとするのやめてください⁉︎」

「先輩をからかうとどうなるか、その身に思い知らせてやろう」

「物理的にはやめてくださいっ! 服ひん剥いて辱めを受けさせるのがテンプレだと思うんですけど!」


 僕は浮かせた腰を下ろす。


「でも、その、既読無視したのはすみませんでした」


 花恋はきゅっと拳を握り、律儀に頭を下げた。


「いや、別にいいんだけどさ……」


 そこで僕は、ふと妙な違和感を感じる。

 生意気な減らず口は毎度のことだが、今日は一段とその回数が多い気がした。かと思えば、いつもなら適当に笑って受け流すところを頭まで下げている。

 これがおかしいと断言できるほどの要素はないし、僕の思い過ごしと言われればそれまでだが、そんな些細な違和感が酷く胸に突き刺さった。

 部屋の中をぐるっと観察してみると、


「っ…………」


 あった。

 違和感の正体が、あった。

 僕は立ち上がってしたデスクの上を見つめる。

 散りばめられた参考書、下書きか何かが描かれたスケッチブック、空になったエナジードリンク、小腹が空いた際に食べるスティックパン。

 そして――白紙のまま放置された液タブ。

 酷く嫌な予感がしつつも、僕は花恋の両肩にぽんと触れる。


「なあ、どうして学校を休んだんだ?」

「絵を描くのに集中していたからですね」


 嘘だ。

 本当に集中していたなら、どうして白紙のままなんだよ。


「……言い方を変えるぞ。なにが、あったんだ?」


 恐る恐る、訊ねる。

 花恋はピクッと肩を震わせると、「あはは」と乾いた笑いを漏らした。


「先輩、鋭いですね……。スランプなのか、なかなか思うように絵が描けなくて」

「それ笑い事じゃないだろ。なんでいきなり……」


 僕はハッとして口を噤んだ。

 花恋が男女の仲を表現することが出来なくなったのは、三年前に両親が離婚したことが原因だと教えられた。そして僕と偽物の恋人関係を築いて少しずつ、しかし確かに苦手を克服しつつあった。

 あったところで――僕が浮気していたことが露呈した。

 頭の中で幾つか歯車が噛み合う。だが、まだピースが不足している。

 自己嫌悪に苛まされ、下唇を思い切り噛み締めた。鉄の味が口内に広がる。


「やめてください……先輩はきっと自分のせいにするだろうから、バレないよう必死に取り繕っていたのに……」


 花恋は袖先を伸ばして、僕の口元を拭った。

 水色の生地に赤黒い滲みが付着する。


「だって、僕のせいじゃないか……」

「いいえ、ただわたしが下手くそなだけです」

「違うッ!」


 強張った声色で叫ぶと、花恋はびくっと身を縮こまらせた。


「花恋は下手くそなんかじゃない! 夢を捨て置いた僕なんかとは違って、君はずっと努力しているじゃないか! 成果だって少しずつ上げている! でも……その努力を……僕が、踏み捻ったんだ……」


 僕は花恋の肩から両手を退けて、顔を俯けた。

 彼女は椅子をくるりと回転させ、デスクの方へ身体を向ける。跳ねるように髪しっぽが揺れ、甘いみかんのような匂いが鼻腔をくすぐった。


「それこそ違いますよ。ただ、わたしと先輩はすれ違う回数が多かっただけなんです……」

「……すれ違う?」


 反射的に訊ねるも、花恋はそれに答えずペンを握り締めた。

 ペンを走らせる。

 元に戻すアンドゥ

 同じ場所に微妙に違う線を引いた。

 また元に戻すアンドゥ

 線を引いて、元に戻すアンドゥ、線を引いて、元に戻すアンドゥ


「……っ、ぁ……やっぱり、描けない……なんで、ですか……」


 ぼろぼろ、ぽとんぽとん。

 液タブの上に大粒の涙が落ちた。

 それはかつて、僕が挫折を味わった時の涙と同じだった。


 ――僕が、終わらせてしまったんだ。


 現実から目を逸らすように、顔を背けた。

 その先には小さな本棚があり、練習用と思われる大量のスケッチブックやノートが挟まれている。どれだけ莫大な時間を積み重ねれば数千数万の白紙を絵で埋め尽くせられるのか、僕には想像も付かなかった。

 この描き終えた後を”努力”なんて言葉で片付けていいのかもわからない。

 ふと、角が折れ、かなり色褪せている数冊のスケッチブックが目に入る。他の物は最近購入したのか、そこまで使い古されている印象はない。その数冊だけが時代を切り取って保管されているように思えた。

 こういうのを間が差したと言うのだろうか。

 僕は特に考えることなくそのうちの一冊を取り出して、ぱらりとページを捲る。

 そして、大きく目を瞠った。


「…………っ、なんで、この絵が……」


 無意識のうちに声を漏らしていた。

 ……ああ、そうか、そうだったのか。

 三年前に錆び付いて、バラバラに散ったピースが集結した。


 そこに描かれていたのは、僕が書いた小説のキャラクターたちだった。

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