第26話 浮気と二股
「……凜々人? なんでここにいるの……?」
感情が読み取れない顔で、更紗が問いかけてくる。
――なんでここにいるかなんて、こっちが聞きたい。
恐らく僕らが入場した後、本当に僅かな時間の差で彼女もやって来たのだろう。更紗の様子から鑑みるに、先ほどの僕と花恋の会話は耳にしていなかったようだ。ひっそりと安堵の息を吐き出しながら、しかしどうしたものかと悩む。
「いや、えっと……」
「というか、誰その子。……ねぇ、早く答えてよ」
別にやましいことはなにもない。
僕は更紗と花恋、双方の作品の質を高めるため両方の彼氏役を演じているだけで、誰からも責め立てられる謂れはないはずだ。
それなのに、背筋が凍るような心地に陥った。
あの屋上の時と同じく、額から冷や汗が流れる。
二人とも『浮気したら許さない』と口を酸っぱく忠告していた。しかし、それはあくまでも恋人関係を演じる上で必要な要素――つまり恋人の真似事の延長線上にあるものだと思っていたが、なぜか本能的にバレてはいけない気がする。
「こいつは、その……」
先ほどの会話を聞かれずに済んだのは幸いだった。
僕と花恋の関係が漏れていないのなら、まだ誤魔化しが効く。
逃げ道を作るための言葉を模索していると、グッズ選びに夢中だった花恋がこちらの異変に気づいたらしく、僕と更紗の間に身体を捻じ込ませて話に混ざってきた。
「先輩、誰ですこの方は?」
花恋が更紗を睥睨しながら言う。
更紗が眉間に皺を寄せながら、答えた。
「私は凜々人の彼女だけど」
「……はい? 先輩の彼女はわたしなんですけど」
「は?」
「は?」
僕は静かに、仰々しく、頭を抱えた。
「凜々人どういうことなのっ!」
「先輩どういうことですかっ!」
うん、終わった。
***
イラスト展の中で討論を繰り広げるわけにもいかず、僕たち三人は近場のカラオケまで場所を移していた。
コの字に座席が並べられ、僕が真ん中に、更紗と花恋が対面するように席を座る。他の男子なら両手に花状態だったのだろうが、僕は薔薇の棘を素手で握り締めているような心地だった。
「凜々人、早く飲み物持って来て」
「先輩、早く飲み物汲んできてください」
「かしこまりましたッ!」
急いで部屋を出た。
そのままお店の外まで逃げたい衝動に駆られるが、後が怖いので却下だ。
三人分のグラスを両手で上手く抱え、部屋に戻ると二人は火花を散らして睨み合っていた。僕がそっと飲み物をテーブルの上に置くと、その合間に更紗が部屋の鍵をガチャリと施錠する。
「ええっと、まずはお互いの自己紹介から……?」
二人とも黙り込んでいるので、僕は話を続けた。
「花恋、こっちは寺嶋更紗。僕と幼い頃からの付き合いで、小説家を目指しているんだ」
「……どうも」
更紗が小さく頭を下げる。
「更紗、こっちは最上花恋。僕たちと同じ学校の一個下で、学年カーストトップと噂されてる後輩だよ。イラストレーターを目指しているんだ」
「……どもです」
花恋が小さく頭を下げる。
「……その、僕の自己紹介もいるかな?」
「自己紹介する前に事故って死んできたら?」
「そのご機嫌取りするような自己紹介が既に事故っていますよ?」
「…………はい、すみませんでした」
僕がガクッと項垂れると、追い討ちをかけるように更紗が口を開いた。
「改めて確認するけど、凜々人は私と花恋ちゃんの両方と付き合っていた、つまり二股していたってことでいいんだよね?」
「……仰る通りでございます。道中で大まかな説明はしたけど、もう少し掘り下げて経緯を話したほうがいいかな?」
二人ともコクリと相槌を打つ。
「ええっと、まず最初に付き合い始めたのは更紗のほうで、作家に必要不可欠な人生経験を育むために偽物の関係を築いたんだ。花恋も知っての通り、屋上から飛び降り自殺しようとしていた更紗を助けた時に小説の話を聞いて、そこから手助けすることになった」
「……最初に付き合い始めた……人生経験……それってえっちなことですか?」
「ちげーよ! 経験=えっちみたいな発想はやめろ! 単純に恋人としての価値観や物事の考え方を育むための関係だ! 断じてエロいことはしていない!」
風呂場で裸を見せ合ったりもしたが、あれはノーカウントでよろしくどうぞ。別に僕から仕掛けたわけじゃないし、更紗の一方的な暴走だし、なんならこっちは被害者まである。
僕は事実の一部分を伏せながら、話を進めていく。
「ごほん。それに僕は三年前まで小説を書いていた身だし、今のところ実績だけ見れば僕のほうが先輩なんだ。小説の指導役としては適材だったし、なにかと更紗とは相性がよかったんだよ」
「相性ってなんですかまさか身体の――」
「だからちげーよっ!」
「むむむ、否定されるとますます怪しく感じますね」
「こんなにも僕のことを信じてくれないなんて酷い……しくしく……」
「「は?」」
「調子乗って申し訳ありませんでした、はい! 話を続けさせて頂きます!」
カラオケのBGMで流れる曲が物静かな空間を打ち壊してくれる。今はそれだけがせめてもの救いだなと感じつつ、僕は怒りの琴線に触れさせないよう幾つもの言葉を取捨選択していった。
「とりあえず更紗と付き合うことになった経緯はこれくらいにしておいて、その後に付き合い始めたのが花恋だ。花恋はイラストで男女の仲を表現するのが苦手なんだけど、それを克服するために僕と恋人の関係を結んだってわけ」
「十八禁のえっちなイラスト描くため……?」
「ちっっっがうわ! R指定が付かない健全なイラストに決まってるだろ! なにが悲しくて花恋に僕の童貞を捧げなきゃならないんだ!」
まぁ、一度花恋に襲われかけたこともあるがノーカウントでいいだろう。以下略。
「そ、そうだよね……こんな胸だけ女に誘惑されたりしないよね……」
「肝心な胸の大きさで君は圧倒的な敗北を喫しているけどな」
「……殺すよ?」
更紗が机をドカンッと叩き付けた。
花恋もキレ気味で腕と脚を組む。
グラスがカランと音を立て、「ひっ」と声にならない悲鳴を上げてしまう。
「平にご容赦を、ご容赦を……」
僕が手を擦り合わせていると、花恋が呆れ顔でこちらを蔑視した。
「どうせ先輩のことですから、偽物の関係なら浮気しても問題ないとか思っていませんでしたか?」
「あ、ああ……」
「はぁ……まぁ先輩は一応わたしたちを想って行動していたわけですから、無闇に責め立てるつもりはありません」
「私も花恋ちゃんに同意。でも彼女の気持ちを汲み取れない凛々人が悪いのも確か」
「更紗先輩に同意です。散々浮気はしてないと断言していたのに、これは正直あり得ないです。誠実さに欠ける行動を取ったのは許しません」
床の汚れを見つめながら、僕は「ごめん……」と小さく謝った。
二人を混乱させる浅慮な行動を取ったのは確かだ。バレなければいいと誤魔化してきたのも事実。仮に互いに関係が漏れたとしても、別段困ることもないだろうと思っていた。
だって僕たちは偽物の関係で、それ以上でも以下でもないはずなんだ。
だから更紗と花恋が苛立ち機嫌を損ねている理由がわからなかった。
……いや、一つだけ、机上の空論にも過ぎない予想はある。
二人が僕のことを本気で「好き」だった場合だ。嫉妬や独占欲が先行した発言や行動ならば、この状況にも合点がいく。だがそれは自意識過剰が生み出した仮定に過ぎない。
だって普通に考えて、努力を積み重ねて夢を追いかけている二人に、半ば途中で挫折した僕なんかが釣り合うわけないだろう?
僕は下唇を噛み締めて、そう思った。
「私はこれからも凜々人とこの関係を続けていくつもり。だって私は新人賞に受賞して、書籍化して、プロの仲間入りしなくちゃいけないから。花恋ちゃんはどうするつもりなの?」
更紗が腰を上げながら総括を述べると、花恋は少し考え込む素振りを見せてから答えた。
「わたしも先輩と恋人を続けます。絶対に商業デビューして、イラストレーターになって、半分でもいいから夢を叶えなきゃいけないんです。浮気だろうが二股だろうが知ったこっちゃないです、どんな手段を用いてもわたしは苦手を克服してみせます」
花恋も立ち上がりながら、そう宣言する。
半分という言葉が気に掛かったが、思考を打ち消すように更紗が鞄を手に持ち、
「私は前に一度、ちゃんと教えたからね。浮気したら凜々人のこと軽蔑するし、大嫌いになるからって。今の凜々人は大っ嫌いだから」
そう言い残して部屋を出て行ってしまった。
「わたしも今日は失礼します。今から先輩とデートの続きをする気分にもなれないので。……ちょっと幻滅しました、それでは」
花恋も鞄を肩に掛けると部屋を退室する。
僕は独りぼっちで取り残され、自分自身を嘲笑するようなため息を漏らした。
元々他人の感情の機微には疎い方だが、まさかここまでの失態を晒す羽目になるとは……。少しずつ心の距離が戻っていた更紗とも、適切な距離感で関係を深めていた花恋とも、心が離別してしまった。
本当に失敗してばかりだ、今も、三年前も。
もう一度、深いため息をついた。
「ところで、やっぱりカラオケ代は僕持ちなんですかね」
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