第18話 心境の変化

 そして、僕は自分の失態を呪った。

 ――ガラガラッ。

 身体を洗っている最中に浴室の扉が開いた。

 錆びたロボットもかくやといった様子でゆっくりとそちらに振り向く。

 自称普通体型の身体をバスタオルで包んだ更紗が、顔を赤らめて佇んでいた。


「き、来ちゃった……えへへ……」

「……来ちゃったじゃねぇよ! ここは三次元で現実舞台だぞ、こんなテンプレがあってたまるかッ!」


 現実から目を逸らすように、更紗を視界の外に外して雄叫びのような声を上げる。

 しかし僕の言葉を意に介することなく、更紗は浴室の中に入ってきた。

 ガチャリと扉の閉まる音が無常にも響く。


「なにを恥ずかしがってるの? 私たち付き合ってるんだよ?」

「べ、別に恥ずかしがってなんか……っ〜〜〜〜」


 咄嗟に下腹部を両手で隠しながら、少しばかり言い返してやろうと更紗のほうに振り向いて、後悔の念に駆られた。

 バスタオルを強く結んでいるからか、緩やかな曲線が浮かび上がっている。

 鎖骨下の膨らみ、腰回りの細さを自然と目で追っていた。

 ブンブンとかぶりを振って、壁掛けの鏡を見る。鏡に更紗が映っている。さらに首を九十度回転させて浴槽のほうを見やると、ようやく僕を苛ませる元凶から目を離せた。


「欲情してる凜々人も可愛いね♡」

「……性欲を煽るような行為は禁止だって約束したばかりだろ」

「それはベッドの上での話でしょ? お風呂は対象外だもん」

「ベッドだけとは言ってない」

「ベッド以外でも禁止とは言われてないよ」

「それは君の屁理屈だろ。世間は僕の味方だ」

「凜々人の価値観を押し付けないで。私は寺嶋更紗です、どうぞよろしく」

「僕は久遠凜々人です、どうぞよろしく……じゃねぇよ! 早く出て行けこのチンチクリン!」


 そう言った途端、ぼふんっと背中になにかが密着した。

 布越しだが、人肌の温もりと筆舌に尽くし難い柔らかさが僕を襲う。


「ま、ま……まさか……」

「これでもまだチンチクリンって言える?」

「ぁ……は、はな……」

「離れないよ。私のおっぱいの感触はどう? 凜々人が思ってるより小さくないでしょ?」

「……っ〜〜、ど、退いて……」


 顔と下腹部に熱が篭っていく。

 更紗を振り払いたいが、今この体勢を崩せば僕のあられもない姿が露呈してしまうだろう。逼迫した状況を改善するための手立てを考えなければ……と思考を巡らせていると、横から細く白い腕が伸びてきた。

 更紗は手に取ったボディタオルを泡立てると、背中から抱きつくように僕の前半身を擦り始める。


「じ、自分で洗えるから……っ!」

「だーめ、これも恋人の儀式なんだよ? ちゃんと恋人っぽいことしないと人生経験にならないでしょ? 艱難辛苦を乗り越えないと私は成長できなにゃ――こほん、わかった?」

「……見事に噛んだな、緊張してるのバレバレだぞ」

「な、なんのこと?」


 ゴシゴシ、と擦る力が強くなる。


「八つ当たりはやめような? その擦る強さはどう考えても彼女が彼氏にやることじゃないだろ? なぁ、ちょっとヒリヒリするからほんとやめてくださいお願いします!?」

「こんな可愛い同級生に体洗ってもらっておいてなにが不満なのっ!」

「不満というか不平等というか、僕だけ良い思いをしてたら世の中平等じゃなくなると思って!」

「なにそれ意味わかんないしキモい!」

「僕もなに言ってるか意味わからんけどキモいはやめて傷つく!」


 軽い口喧嘩をしたせいか、下腹部の熱が少しだけ引いた。

 僕だって健全な男子高校生だ。

 暴発した性欲に身を委ねて、強引に更紗を襲ってしまいたい――なんて思考がないわけじゃない。

 だが後先考えずに行動を取って、更紗が思うように小説を書けなくなったら、きっと僕は酷く後悔すると思う。仲違いから一転して、ちょっとずつ寄りを戻せているこの状況を壊してしまうかもしれない。

 僕が見れなかった光景を、更紗に見て欲しいから――

 グッと意識を強く保ち、僕はシャワーヘッドを掴んだ。


「ああもうっ、幼馴染に身体を見られるくらいなんだ! 昔は仲良く一緒にお風呂入っていたじゃないか!」

「ふぇ……⁉︎ ちょ、凜々人、見えてるんだけど⁉︎」

「見えてるんじゃなくて見せてるんだよッ!」

「なんで急に開き直ってるの⁉︎ てかそれ普通は女の子が言うセリフだよね⁉︎」

「いいさもうフルオープンだよッ! これでも喰らえッ!」


 ハンドルを捻って、シャワーを放出する。

 最大出力で発射されたお湯は、更紗の顔面に直撃した。


「あばぶッ……けほっ……ちょ、タイム……」

「僕はやられたらやり返す男なんだよッ!」


 ボディタオルをぽとんと落として、更紗は両手で顔を覆う。

 改まって対面すると、お湯を浴びたせいか、三次元でお風呂イベントを発生させるなど愚の骨頂と言うべき行動を取ったからか定かではないが、顔だけではなく耳の先まで真っ赤に染めていた。


「へぇ、更紗にも可愛いところあるじゃないか」

「ゃ……み、見ないで……」

「自分で押し付けておいて見るなはないだろ? それに僕と君は恋人なんだ、裸を拝むくらいどうってことない」

「で、でも偽の恋人関係だから……ぁぅ……」

「これも恋人の儀式なんだろ? 恋人っぽいことしないと人生経験にならないんだろ? ほれほれ、どうだ?」

「ちょ、なんで下も揺れてるの⁉︎」

「勃ってるから」

「直球すぎない⁉︎」


 そりゃあ君のせいで自棄になってるからね。

 直撃したお湯が口の中に入ったからか、「けほっ、けほっ」と更紗が咽せていた。

 仕方ない、顔はやめてやるかと角度を調節し、上半身へと狙いを変える。


「待ってそこはだめ――」


 ずるり、と結び目が解けた。

 はらりゆらりすぽん。


 瞬く間にバスタオルはずり落ち――更紗の裸が顕となる。


 きめ細かい肌が水滴を弾き、二つの膨らみと、それに反比例するような腰回り。

 おっぱいの先と股関節の付け根を交互に見やると、ややあって硬直していた更紗が叫び声を上げた。


「っ〜〜〜〜、う、後ろ向いてッ!」

「は、はいッ⁉︎」


 言われた通りに回れ右をすると、ガチャンと扉が壊れそうな勢いで開閉された。

 浴室の外から慌ただしい音が聞こえてくる。

 内外を隔てている扉は曇りガラスになっているので、もう身動きを取っても大丈夫だろう。


「…………エロかったな」


 天井を見上げてそう呟くと、


「忘れろばかーっ!」


 扉の向こう側から怒声が放たれた。

 しばらくして脱衣所から更紗の気配が消える。

 緊張感が抜けたところで、僕は大きく背を伸ばした。


「うん、無理だ、忘れられるわけない」


 やはり健全な男子高校生には刺激が強すぎた。

 僕は反り立った下腹部を見て、大きくため息をつく。

 何度読んだかもわからない『人間失格』を頭の中で思い出すこと数分、ようやく下腹部も落ち着いてくる。

 理性と精神が安定したところで浴室を出ると、僕はとあることに気づいてしまった。


「…………着替えが、ない」


 早々に入浴を済ませて、更紗がリビングで寛いでいるうちに自室へ戻る算段を企てていたのだが……言わずとも邪魔が入った。恐らく、彼女は僕の部屋へ向かってしまっただろう。きっと今頃ベッドの上でラノベを読み漁っているに違いない。

 だが僕は一縷の希望に縋って、大きな声を上げた。


「あのー、更紗さん! ねぇ更紗さん! もしリビングにいたら返事してください!」


 しーーーーん。

 うん、やっぱり僕の部屋にいるみたいだ。


「これは、詰んだか……」


 恥を承知で自室に突撃するべきか、腕を組んで十数分ほど悩んだ後、とりあえず髪だけでも乾かすかとドライヤーのスイッチを入れた。

 ぶおんぶおんと大きな音が耳を突く。


「……更紗はなんで僕を選んだんだろうな」


 自分でも無意識のうちに、そんな言葉が漏れた。

 実際、僕たちは少し前までは赤の他人を貫き通していた。

 僕が更紗のことを突き放してしまい、更紗は僕のことを嫌いになった。

 そう、嫌いなまま、偽物の恋人関係を築いたはずなのだ。

 例え小説の質を向上させるという名目があるにしろ、普通身を挺してお風呂の中まで突撃してくるだろうか。更紗に何か大きな心境の変化があったとは思えないし、その行動にも些か不自然さを感じることが多い。

 本当にわからないことだらけだ。

 幼馴染が聞いて呆れるなと思う。


 乾かすのが面倒になり、まだ少し湿っているがドライヤーの電源を切った。

 それと同時に、コンコンと脱衣所の扉がノックされる。


「ねぇ凜々人、まだ時間掛かるの? 私お風呂入り直したいんだけど」

「おお……君は女神かなにかか……」

「は? なに言ってるの? てかお風呂出たならとっとと着替えて変わってよ」

「実は着替え持ってくるの忘れちゃってさ、代わりに持ってきてくれないかな? 場所は前と変わってないからわかるでしょ」


 小中の頃は互いの家の家事を手伝い合っていた仲だ。

 タンスの一番上の段に下着をしまっているのも覚えているだろう。


「やだ。それが人に物を頼む時の態度?」


 しかし、扉越しから返った言葉は冷酷なものだった。

 カチンと来たが、ここは下手に出る以外に選択肢はない。

 僕は改めて謙った態度でお願いをする。


「更紗さんどうか僕の服を持ってきてください、お願いします」

「しっかたないなぁ〜、後でコンビニアイス奢ってね♪」

「……こんのクソアマ」

「なにか言った?」

「いえなんでもないです! お手数お掛けして申し訳ありません! 持ってくるのよろしくお願いします!」

「うむ、よろしい」


 いつか絶対にやり返してやろうと思った。

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