第17話 お泊まりとお風呂
花恋が途中まで見送ってくれた後、僕は鞄の中に潜めておいた消臭スプレーを取り出して、自分の服に軽く吹きかけた。
これは以前、更紗に浮気を勘付かれて慌てて買いに行った物だ。毎日のように花恋と昼食を取っているので、ここ最近は露呈防止の対策として常に備えている。
浮気チェックだけに止まらず、スマホチェックや持ち物チェックまで始まったらどうしよう……という不安を胸内に抱えながら家の前に辿り着くと、ちょうど隣家から更紗が出てくるところだった。
「あれ、凜々人だ。どっか行ってたの?」
「ああ、うん。ちょっと本屋まで」
「そっかそっか、それならちょうどよかった」
「……? ちょうどよかったって、今から家に来るのか?」
更紗が目を細め、揶揄するように口元を歪める。
それは悪知恵が働いている時の更紗の顔だった。
うげぇ、と不満が漏れそうになるのを堪えると、遅れて更紗が大きなトートバッグを肩に掛けていることに気づく。
嫌な予感が脳裏を過ったが、つまるところ、そういうことだった。
「お♡と♡ま♡り♡」
更紗は甘ったるい作り声で、そう囁いた。
***
晩飯と洗い物を終わらせ、僕が食卓の椅子に座ると、さも当然のように更紗も対面の席に腰掛けた。
「帰れ」
「やだ」
「だめ」
「だめってなに。凜々人にそこまで言われる筋合いない」
「むしろ言う筋合いしかないよ。ここは僕の家、君の家はその隣」
「ここはママとパパが管理してる家であって凜々人の物じゃない」
「それは屁理屈、他所は他所、うちはうちです」
「それだって凜々人の考えでしょ。ママとパパは絶対にだめって言わない」
「ああ、僕は久遠凜々人。世界でたった一人の考えの持ち主だ、どうぞよろしく」
「私は寺嶋更紗。ぼっちで陰キャで童貞の相手をしてあげる優しい隣人です。どうぞよろしく」
「喧嘩売ってる暇があるならとっとと帰れよ!」
ちなみに更紗がママパパと称しているのは僕の両親のことだ。
彼女は自分の両親をお母さんお父さんと呼んでいるので、呼び名で区別しているらしい。
「てか、更紗が帰ってこなかったらおばさんとおじさんも心配するだろ」
そして僕は更紗の両親のことをおばさんおじさん呼びしていた。
自分の両親はお母さんお父さんと呼んでいるが、たまに呼び名が入り乱れてしまうことがあったりする。
「どっちも会社に泊まり込みで仕事だって。凜々人のママとパパも明日の昼までは帰って来ないでしょ?」
「……なんで知ってるんだよ」
仕事で家を空けるとLINEで伝えられてはいたが、更紗がそれを知る術はないはずだ。
「さっきすれ違って聞いたの。それでお泊まりしようって」
「恣意的に行動しすぎなんだよ……お母さんとお父さんも口が軽いし……」
「あ、それは私がそれとなく誘導尋問したから」
「君のせいだったのか⁉︎」
どの道、両親が仕事着で外に出たのを見ていたのなら、それだけで察しはつくだろうけども。
なんだよ誘導尋問って、君は僕をどうするつもりなんだ……。
つい深いため息が溢れた。
「……ったく、わかったよ、百歩譲って泊まるのはいい。ただ寝る場所はリビングのソファーか客用の布団でも敷いて……」
「凜々人のベッドで寝る」
「途中で遮って馬鹿なことを言うな……いや待てよ、更紗がベッドで寝て僕がソファーで寝れば解決じゃないか? うん、そうしよう」
「だーめ、ベッドで一緒に寝るの」
「残念だが僕には君と同衾する理由がないんだ」
「……私たち、恋人だよね?」
「うぐっ……それを指摘されると耳が痛い……」
実際問題、今日だって花恋と会った時に”恋人関係”よりも、”ただの友達”に近いと感じたばかりだった。
登場人物へ共感性を持たせるために始めた偽物の恋人関係だが、これでは本末転倒もいいところだ。更紗の手伝いをすると決めた手前、ここで引き下がることは叶わない。
「おーけー、わかったよ……ただし、性欲を煽るような行為は禁止だ」
唯々諾々と了承すると、ぱぁっと更紗の顔が明るくなる。
「えへへ、あれだけおっぱい揉みたがってたのに」
「おっぱいを揉みたいのとエロいことしたいのは断じて違う」
「意味がわからないけど、一回死んだら?」
「文章が全然繋がってないぞ、本当に作家か?」
「むかちん、怒ったもん、凜々人にとびきり恥ずかしいことが起きる呪いをかけたもん」
「そのわざとらしい擬音も、子どもっぽいもんもんも直そうな」
「っ〜〜、うるさいばか! お風呂入りたいからとっとと先に入ってきて!」
顔に羞恥の色を浮かべる更紗は、ギリギリと歯を軋ませた。
「お、おう……? てか、先に入りたいなら入ってこればいいのに」
「私の使ったお湯で凜々人がナニするかもしれないから」
「しないわアホか!」
必死に否定していると、途中からティッシュ箱を投げつけられたのでリビングから脱衣所まで退散した。
慌てて移動したので着替えを持って来なかったが、更紗はリビングに居座っているのでこっそりと全裸で自室に戻ってもバレないだろう。
というか、お風呂くらい自分の家に戻って入ってこればいいのに……。
呑気にそう考えながら、僕は浴室の扉を開けた。
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