第16話 二つの理由
「今から三年前のことです、両親が離婚したんですよ」
「うん」
「原因はお父さんの浮気でした。お相手は会社の後輩だそうで、よく泊まり込みや残業と嘘を付いてはラブホに行っていたらしいですね。たまたまお母さんがお父さんのスマホを弄っている最中に宿泊予約の確認メールが届いて……そこから大喧嘩が勃発しまして」
「うん」
「ただお母さんの職業が弁護士だったのが幸いしてか、問題はあっさりと解消しました。慰謝料と毎月の養育費を払わせるよう契約書に署名させ、二人は離別したんです。わたしの親権は母親に委ねられたので、今はお母さんと二人で暮らしています」
「うん」
「離婚なんて今時珍しくもない、ありふれた話なんですけどね、えへへ」
「うん」
「でも……大切な人がいなくなるって、やっぱり辛いです。しかも浮気が発覚したの、小学校の卒業式直前ですよ? そんなの、あんまりじゃないですか」
「うん」
「その時思ったんですよ、男の人なんて大嫌いだ、って」
「うん」
「そこからです、わたしが男女構成の絵を上手く描けなくなったのは」
堰を切ったように過去を吐き出した花恋は、強がるように笑った。
僕はその笑顔を見て、どう反応すればいいのか分からなかった。
学校の屋上で浮気云々の話を聞いた時、二つほど予想は付いていた。
中学時代に付き合っていた人に浮気されたのか、あるいは両親が離婚したのか。玄関に女性物の靴しか並んでいなかったのを見て、先ほど後者だと確信した。
やっぱり、学校で踏み込んだ話をしなかったのは正解だったと思う。
これは偽物の彼氏役を担っている僕には、あまりに重すぎる問題だ。
それに偽の関係とは言え、二人の彼女を抱えている僕が掛ける言葉などありはしない。別に後ろめたさがあるわけではないし、元より作品の質を向上させるための恋人関係だ。
自分は作品向上のための、苦手克服のための道具でしかない。
それで、いいんだ。
「多分、僕が言えることなんて、なにもないんだと思う」
「……はい」
「慰めの言葉を貰って立ち直れるのなら、花恋はとっくに苦手を克服していると思う」
「……はい」
「きっと三年前にいっぱい泣いて、いっぱい考えて、色々と割り切ったんだと思う」
「……はい」
「それでもどうにもならなかったから、僕に助けを求めた」
「……はい」
「なら僕に出来ることなんて一つだけだよ。花恋の苦手を克服するために、どんなことだってする。例え火の中だろうと水の底だろうと飛び込む覚悟さ」
「……ありがとう、ございます」
「ったく、さっきの勢いはどこに行ったんだよ。君は僕の脅迫素材を握ってるんだから、顎でこき使うくらいでいいのに」
「先輩、わたしのことなんだと思ってるんですか」
「あざとくて子生意気で腹黒い後輩」
「やっぱり刺していいですか?」
花恋はむくりと頬を膨らませる。
僕は依然として顔を両手で掴まれながら、訊ねた。
「その前にもう一つだけいいか?」
「はい、なんです?」
「いつでもこうしてるつもり? ちゅーするぞ」
「っ〜〜〜〜、だ、だめに決まってるじゃないですかっ!」
ぎゅっ、と頬を抓られる。
鈍い痛みを感じた後、ぱちんと引っ張られて鋭い痛みが走った。
「いたた……DV女はいまどき流行らないよ」
「まずはその減らず口を更生させるとしましょう♪」
「その前にちゅーして一矢報いる」
「それはこの偽物の関係を本物にしてからですね。頑張ってわたしを口説き落としてみてください」
「それは骨が折れそうだ」
ぷっ、くふふ。
二人して吹き出し、この瞬間だけ、本物の恋人になった気分だった。
***
その後、花恋が絵を描いている様を横から眺めたりと適当に時間を潰し、日が落ちる頃には家を出た。
間近で液タブを起動し、ペンをなぞっている光景を見て、本当に絵描きなんだと実感させられた。純粋に元物書きとして興味を注がれる体験だった。きっと僕の筆が健在していたのなら、花恋を題材にしていただろうなと思いながら横を見る。
途中まで送る、と申し出た花恋は僕の隣を歩いている。彼女は夕焼け空をぼんやりと眺めながら、ふと思い出すように口を開いた。
「ねぇ先輩、先輩ってわたしが絵を描いてることを教えた時、あまり驚いていませんでしたよね」
「ああ、そうだったな」
「それ、どうしてか当ててみてもいいですか?」
僕が静かに頷くと、花恋は人差し指を唇に添えて答えた。
「先輩も
ごくりと息を呑んだ。
その相手の思考を読み取る能力において、右に出る者はいないだろうと思う。
しかし、その鋭い予想は半分が正解で、半分は不正解だ。
僕は小馬鹿にするように鼻で笑うと、
「ぶっぶー!」
身体の前でばってんを作り、煽ってみせる。
「な、なっ……⁉︎ 先輩なんてもう知りませんっ!」
「いだだッ、お願いだから腕抓るのやめてぇ……⁉︎ ごめん、さっきの撤回、半分は当たってるよいだいッ!」
「このっ、このっ、意地悪な先輩は先輩なんかじゃありません!」
「それ君が言えたことか⁉︎」
腕を引くと追撃してくることはなかったが、花恋の顔はどこか不満そうだ。
不承不承といった感じで続きを催促してくる。
「それで、半分は当たってるってどういうことですか」
「ああ、僕は
「それって……」
「三年前に物書きを辞めたんだ」
ふと、三年前の更紗の泣き顔が頭に浮かんだ。
脳裏にこびり付いているのは落選結果でも選評の内容でもなく、あの更紗の顔だった。影で支えてくれていた更紗を突き放した結果がこれとは、なんとも皮肉なものだと思う。
雑念を打ち消すようにかぶりを振ると、花恋が「どうして辞めたんです?」と訊ねてきた。
「自分で自分に見切りを付けたんだよ。僕には才能がない、デビューできるのは一握りの天才だけ。どれだけ努力しても先に道がない、努力は報われないって思ってしまったんだ」
「………………」
「ただ、それだけだよ、僕が物書きを辞めた理由は」
本当に、ただそれだけなんだ。
それだけのことが、酷く重たかった。
それだけの理由で、きっと創作者を辞める人は五万といるだろう。
「ちょっと、複雑です……」
「ごめん。今まさに苦手を克服しようとしている君に聞かせる話じゃなかったよね。もう少し包み隠して話せばよかった」
「いえ、それはいいんですが……」
花恋は顔を俯かせて、落ちている石ころをコツンと蹴飛ばした。
苛立っているのか、不貞腐れているのか曖昧な顔だ。
機嫌を取るわけじゃないが、僕は少しだけ話題の方向を変えた。
「大丈夫だよ。死んでも花恋の苦手は克服してみせるから」
「じゃあ今すぐ死んでください」
「なんで⁉︎ ……うぐぐっ、その侮蔑の眼差しが気持ちい……冗談、じょうだんだから頸動脈抓るのはやめて⁉︎」
「ふんっ、先輩なんてもう知りません」
駅前まで着いたところで、花恋は回れ右をする。
遠ざかっていくその背中は、なぜか小さく見えた。
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