第12話 浮気とエロ小説
「浮気チェック――ねぇ、凜々人の制服から香水の匂いするけど、どういうこと?」
綺麗な藍色の瞳がどんどん陰っていった。
本来の優しく落ち着いた声色とは打って変わり、その冷酷な問いただしには軽く畏怖の念すら覚えたが……香水の匂いってなんだ。全く身に覚えがないぞ。
しかし、不用意な軽挙を晒してしまえば、余計不審に思われるだけだろう。
自分の制服の匂いを嗅ぎたい衝動を抑えて、代わりに小首を傾げてみせた。
「誤魔化さないで。それとも凜々人は自分の制服から甘いみかんのような匂いがするの気づいてない? 凜々人の家で使ってる柔軟剤の匂いじゃないし、どっちかっていうと高校生が付けるような柑橘系の香水の匂いがする」
更紗が続けて「どこの女といちゃいちゃしてたの?」と捲し立てると、僕は思い当たる節を見つけた。
花恋が僕に『あ〜ん』をさせていた時、ふわりと漂ってきた柑橘系の匂い。動画撮影の際、画面の枠に収まるよう身体を寄せ合っていたのだが、恐らくその時に匂いが付着したのだろう。
香水というのは案外匂いが移りやすいものだと、なにかの推理小説で読んだ記憶がある。
「……あー、そういうば昇降口に向かう途中、廊下の曲がり角で女子とぶつかったんだよね」
咄嗟に出た嘘はありふれたものだったが、一番効果的だろう。
更紗は腑に落ちないような顔付きで腕を解くと、スクールバッグを拾った。
「ぶつかった女の子の名前は?」
「さ、さぁ? 多分他の教室の子だと思うけど、自分のクラスメイトですら顔と名前が一致しない僕には分かりかねるよ」
「どんな見た目してた?」
「ええっと……更紗の方が百倍可愛いよ……?」
「それ答えになってないからっ!」
ぺしっと肩を叩かれ、僕は逃げるように歩道を進んだ。
更紗は「こらーっ!」と怒声を上げながら迫ってくるが、その瞳にはすっかり虹彩が戻り、緊迫した空気はどこかへ流れていた。
「しょうがないから今回だけは見逃してあげるもん」
「見逃すもなにも、僕は罪を犯してないんだが? それただの濡れ衣だぞ?」
「次はないんだからね。私を瞞着しようだなんて、そうはいかないんだからね。今度浮気したら凜々人のこと軽蔑するし、大嫌いになっちゃうんだからね!」
「だから無罪なんだが?」
いや、本当は有罪なんだけどね。
二股とか普通にアウトです、ギルティーです。
心の中でそう呟きながら、僕たちは家に帰っていった。
***
ジャーッと間断なく蛇口から水の流れる音がする。
僕の横で更紗は布巾を手にし、洗い終わった食器を拭いている。
三年前までは日常だった光景、三年前から非日常となった光景。
なんだか感慨深いものがあり、これが運命ってやつなのだろうかと陳腐な言葉選びをしてしまう。
小説の主人公でも漫画に出てくるヒーローでもない、高校生Aの僕に『運命』の二文字ほど似合わない言葉はないな。
そんなことを考えていると、彼女は気まずそうに顔をしかめた。
「さっきからなに? 視姦するならバレないようにして」
「誰が君みたいなチンチクリンを視姦するもんか」
「ねっとりとした視線向けておいて、その言い訳は見苦しいと思うけど?」
こつん、と脛辺りを蹴ってくる。
「そういうのを自意識過剰って言うんだよ。また一つ賢くなったな、感謝しろ」
「そういうのを傲慢不遜って言うんだよ。また一つ賢くなったね、感謝して」
「僕は傲慢なんかじゃない。ただ事実を述べただけだ、ちっぱい」
更紗の口角がひくひくと引きつった。
「私は自意識過剰じゃないもん。ただ事実を述べただけ、ぼっち」
手に余計な力が入りながら、洗い物を続けていく。
「まずはその陰湿な性格を直したらどうだい、子ども体型」
「まずはその口の悪さを直したらどうかな、インポ」
「――ぶふぅっ!」
けほっ、けほっ、気管に飲み物が入っていった時のように咽せていると、更紗が僕の背中を摩り、テレビ前のソファーに移動させてくる。
「ちゃちゃっと終わらせるから休んでいて」
「……ごめん」
そう言って、更紗はシンクに戻り洗い物を再開する。
ややあって呼吸が安定すると、その頃には皿洗いも終わったらしく、更紗が心配そうに「大丈夫?」と顔を覗いてきた。
その問いかけは無視し、代わりに「そこへ正座しなさい」と指を差す。
更紗は不思議そうに絨毯の上で正座すると、僕はため息をつきながら訊ねた。
「なぁ更紗、君はどこでそんな汚い言葉を覚えてきたんだ?」
「え、凜々人が昔書いてたエロ小説からだけど?」
ダラダラと首筋に嫌な汗が流れる。
「……おっと、それは初耳なんだが……さては貴様、勝手にパソコン弄ったな?」
「だって言ったら怒るじゃん」
「当たり前だボケ! 今すぐ記憶から抹消してやる!」
彼女の頭を両拳でぐりぐりしてやると、更紗は「でも」と口を開く。
まずい、それだけはまずい……っ!
慌てて口元を押さえつけようとするが、既に時遅し。
「私と凜々人を登場人物にしてえっちなことさせてたくせに」
「あああああぁぁぁぁぁ、おおおおおぉぉぉぉぉっ⁉︎ 聞こえない、なにも聞こえないぞ⁉︎」
僕は頭を抱えて絶叫していると、更紗は自分の身を抱きしめて言った。
「えっち」
「違うんだああああああぁぁぁぁぁっ!」
後にコンビニのアイスを五個差し出したことで、この話を表に出さないことが約束されるのだった。
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