第8話 捨てた過去と拾った未来

「もう、小説は書かないよ」


 僕は哀愁を吐き捨てるように、声を発した。


「知ってるかい? 小説家っていうのは、楽しい時でも、悲しい時でも、辛くて苦しい時でも、挫折していた時でも、小説を書くことのできる人を言うんだよ。僕は挫折した時に筆を持てなかった。小説家という言葉は、僕には相応しくない」


 逆に、来世に賭けてまで作家に執着した彼女は、真の小説家と言えるだろう。

 感傷に浸り過ぎたせいか、柄にもなくそんなことを思うと、更紗は袖先で涙を拭って「そっか」と口を開いた。


「やっぱり、そうだよね。ごめんね、変なこと聞いちゃって」

「ううん、いいんだ。ただ、僕は君と違って小説家は捨てられる夢だった。だからかな、更紗の頑張りを見て、それに感化されて、素直に応援したくなったのは」

「……そっか、そっか、うん、わかった」


 更紗は意味深長に何度も頷くと、やがて優しい微笑みを浮かべた。


「それじゃあ凜々人の分の想いも背負って、私がデビューしないとねっ!」


 ああ、やっぱり、僕と違うのはこういうところなんだろうな。

 決定的な気概の強さ、がむしゃらに目標へ向かって疾駆する根性、不器用だけど他人には常に優しく、どれもこれも僕には無かったものだ。これこそが、更紗を更紗たらしめる根底の強さなのだろう。


「まずは一次審査を通過しないとだな」

「うっ……頭が……」

「おいこら、いきなり現実逃避するな」


 未だに僕の下腹部に跨がる更紗へチョップを入れる。


「あいたっ……暴力反対だよ、DV男に育てた覚えはありませんっ!」

「君は僕のお母さんか⁉︎」

「いいえ、今の私は凜々人の彼女ですっ!」

「そうでしたねマイハニー⁉︎」


 くすり、二人が同時に笑いを漏らした。


「……ありがとな、僕のために小説を書いてくれて」

「……いいんだよ、これは私のためでもあるんだから」

「あ、それはそうと、小説貸すから三日に一冊のペースで読むように」

「今までのいい感じの会話はいずこへ⁉︎」


 恥ずかしいからに決まってるだろ、ばか。


「あと、三日間で読みきれなかったとしても、問答無用で本は返却してもらいます」

「鬼だっ、鬼がここにいる⁉︎」

「そうすれば時間が足りなくても死ぬ気で読むでしょ? ちなみに少しでも意味が不確かな単語があれば、調べてノートにまとめること。例文も作って書いておくと本文でも応用しやすくなるよ」

「うぅ……人でなしっ、意気地なしっ、ろくでなしっ!」

「一番最後のはもはやただの悪口だろ⁉︎ そういう君は変態で淫乱で痴女だなっ!」


 自ら男子の上に跨ったことに指摘され気づいたのか、更紗は頬に羞恥の色を浮かべる。

 すぐさま更紗は下腹部から離れようとするが、僕はその直前でガシッと彼女の腰を掴んだ。


「おっと、肩や腰に触れるのはセーフだって言質は取ってあるからな?」


 僕がしたり顔で先手を打つと、更紗はか〜っと耳朶まで赤くした。


「むしろてっきり誘われてるもんだと思ったな。僕としては、このまま続きをしてもいいんだけど?」

「ぁぅ〜〜〜〜…………す、好きにしたらいじゃん……」

「わかってるよ、冗談だ…………ん? 今なんて……」

「だ、だから……好きにしても、いいよ……?」

「………………ていっ」


 ちょっと更紗さん、何を仰ってるんですかね。

 僕は更紗を投げ飛ばすように退かせた。上質なマットレスに吸い込まれるよう、ばふんと音を鳴らす。狭いシングルベッドの上で、僕の目と鼻の先に更紗が転がっている。


「えへへ、なんだかちょっとドキドキするね」

「それは否定しないけど、いちいち場の雰囲気に呑み込まれるな。仮に君と一線を越えようとも、結婚とかそんな大きな責任取れないぞ」

「むむ、そこは格好付けて『僕が更紗を一生守るよ』とか言ってくれてもいいのに」

「うへぇ、想像するだけで反吐が出るな、それ」


 僕は仰々しく苦虫を噛み潰したような顔をする。


「むっかつくぅ」


 彼女は僕の頬をぎゅっと抓って、顔を近づけた。


「生意気なことばかり言ってると、ほんとに責任取ってもらうよ?」

「……参ったよ、降参だ。心臓が張り裂けそうだから、それ以上唇を近づけないでくれ」


 そう言うと、更紗は僕の胸元に手を当てて、ばくんばくんと鳴り響く心音を確かめた。

 ひんやりと冷たい手は、とても小さく、とても優しい温もりを灯している。


「ほんとだ、私で興奮したんだ」

「それは語弊があるだろう。同級生の可愛い女の子がこんなに近くにいるんだ、緊張しないわけがない」

「ふーん、それって可愛ければ誰でもいいってこと……?」


 僕はしばらく間を空けて、考えるように答えた。


「それは、嫉妬してるってことでいいのか?」

「偽物だとしても、凜々人は私の彼氏だから嫉妬くらいするよ」

「はいはい、そういうことにしておくよ」

「質問を質問で返しておいて、自分は答えないつもり?」

「偽物だとしても、僕は彼女である更紗に興奮したんだよ」

「えへへ、知ってた」


 目を細めて笑う更紗を堪能するのもそこそこに、僕は一つ、忘れていたことを思い出した。


「そういえば肝心の更紗の小説、まだ読ませてもらってなかったよね」

「ぎくり……」


 まるで釘で打ち付けられたかのように、更紗の挙動が止まった。

 昼間に選評の内容は聞かせてもらったし、欠点を推測して改善策も幾つか用意しているが、文章力に関しては基礎中の基礎を教えたに過ぎない。今以上に踏み込んだ助言をするには、応募した原稿を直接読んでみないと始まらないだろう。


 ……それにしても、何をそんなに戸惑っているんだ?

 自分が書いた小説を身内に見られるが恥ずかしい気持ちもわからなくはないが、更紗の反応はやや過剰すぎるように思えた。というか、ぎくりって擬音が声に出てるし。


「早く読ませてよ。スマホの中にデータくらい入ってるだろ?」

「それは入ってるけど……あうぅ、本当に読ませなきゃだめ?」

「だめだ。今すぐ読ませないなら彼氏彼女の振りはここで終わりだ。短い恋人生活だったな、それじゃ、またいつか会える日まで――」

「わかった! わかったからぁ!」


 更紗は観念したのか、小説のページを映したスマホを渡してくる。

 僕は冒頭を読み始めると、物語のあらすじを大方理解した。いわゆる学園ラブコメというジャンルで、主人公は困難に陥っているヒロインと遭遇、それを助けることで二人に恋心が芽生える。最後まで読まずとも、王道テンプレを外れない、ボーイミーツガール作品だろうことは雰囲気から読み取れた。


 なるほど、確かに構成は悪くない。

 ただし、構成以外は、塵芥も同然だった。

 僕は肩を怒らせて上体を上げると、更紗を見下すように問いかける。


「なぁ、君って勢いで物語を綴るタイプだろ? 話が思い浮かんだら、その日のうちに書けるところまで書くタイプだろ?」

「う、うん、そうだけど……? それがなにか問題あるの……?」


 僕はこめかみを抑えて、大きく息を吸った。


「問題大アリだこのばかっ! なんだこのゴミみたいな文章はっ! 特にここ! 主人公の複雑な心境を地の分で丁寧に語らなきゃいけないのに、ただ一言だけ『僕は思った、苦しい』って! 小説舐めとんのかこの野郎っ!」

「野郎じゃないもん、私は女の子だもんっ!」

「そうだったねこのクソバカマイハニーよ!」

「ばかって言うほうがばかだもんっ!」


 天を見上げ、盛大にため息をつく。

 これは、想像を絶する酷さだ。

 まるで文章のなんたるかをわかっちゃいない。

 この文章が静かで、綺麗で、重たいものとなれば、きっとこの物語は一気に変貌するだろう。昔の血を滾らせるように、僕はそう思った。


「さっきのやっぱり変更だ。三日に一冊じゃなくて、二日に一冊にする」

「え、えぇ⁉︎ 私を睡眠不足で殺す気なのっ⁉︎」


 彼女の戯言をスルーし、僕は浮かんでいた改善策を見つめ直した。

 際立って酷かったのは文章力だが、他にも稚拙な部分は多々あった。

 ……これは、一朝一夕でどうにかなりそうにないな。


「ま、僕も頑張れるところまで頑張ってみるか」


 思わず拾った未来が、これから光り輝いていくことを、この時の僕はまだ知る由もなかったのだ。

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