第5話 通い妻と改善策
狡猾な手段で貶められた僕は、かくして二人の彼女が出来てしまった。
多くの心労が積み重なり、一周回って胸内が閑散とした僕は現実逃避のため、帰宅前に駅と直結している大型書店に寄ることにした。気分転換をするには、書店の中に充満する本の匂いを嗅ぐに限る。
何冊か新刊を購入し、僕は家に帰ったのだが……ここで一つ、重大なことを忘れていた。
昼の屋上で、更紗が『夕食前に家行くから』と言い残して去ったことを。
僕は玄関扉を開けると同時に、自分の記憶力を恨んだ。
玄関前の廊下で待ち構えていた更紗は、両手を腰に当て、目尻に涙を溜めながら恨めしそうな顔でこちらを睥睨する。
「うぅ〜〜〜〜っ! 遅い遅い遅いっ! 私ちゃんと夕食前に行くって言ったよね⁉︎ こんな時間までどこほつき歩いてたのっ!」
「君は僕の通い妻かなにかか⁉︎」
「ち、ちがっ……ばかっ、凜々人のばかっ!」
更紗は頬を赤色に染め、僕に近寄るとその細い腕を振るってくる。
「悪かった、悪かったって! というか君、どうして家の中に入れたんだよ?」
「どうしてって、スペアキー持ってるからに決まってるじゃん? それとも、中学以降の記憶は封印でもした? 殴って思い出させてあげようか?」
「そうでした、たった今思い出しました、だからその振り上げた拳を収めてくださいお願いします⁉︎」
「ふん、凜々人にとって私は過去の女だもんね、捨てたも同義の女だもんね」
「おい、ヤリ捨てぽいみたいに言うな、僕はまだ童貞だ」
「ふ、ふ〜ん、そっか……私と違って凜々人はモテないもんね?」
「更紗だって猫被ってるだけで、本性曝け出したら誰も寄り付かなくなるだろ」
「やっぱり殴るっ――」
猫と鼠のように家内を駆け回る喧嘩もひと段落つくと、僕は自室にスクールバッグだけ投げ捨て、制服のままリビングに向かった。
引き戸を開けると、ふと、香辛料の香りが鼻をくすぐる。
食卓の上を見やると、二皿のカレーライスがちょうど配膳されたところだった。家に入った時からそれらしき匂いを感じ取っていたが、どうやら僕を持っている間に彼女が作ったらしい。
僕は横目で壁掛け時計を見やる。ええと、今が十九時だから、逆算すると最低でも一時間前から家で待っていたことになるのか。
……そりゃ怒るわ。
食卓の椅子に着席すると、更紗も向かい側の席に腰を下ろした。
「ちゃんと手洗ってきた?」
と、更紗がスプーンを差し伸ばしながら確認を取る。
僕はスプーンを受け取りながら「もちろん」とドヤ顔で答えると、更紗は呆れたようにため息をつく。
「それで、感想は?」
「感想って、なんのことだ?」
「久しぶりに隣の家の可愛い同級生に作って貰ったカレーはどうかって聞いてるの」
「あー、まるでラノベ主人公になった気分だなー」
「むっかつくぅ!」
がしっ、どしっ、ばんっ。
更紗の蹴りが僕の膝や脛あたりに直撃する。
……嬉しいだなんて、口にできるわけないだろ、ばか。
今でこそ偽物の恋人という背徳感溢れる関係に発展してしまったが、昨日まで僕と更紗は仲の悪い幼馴染――いや、隣家に住う同級生であったのだ。
確かに中学二年の終わり頃、僕は更紗と大喧嘩したけど、だからといって長い時間を掛けて培ってきた仲が簡単に揺らいだりはしない。ただ、僕たちは仲違いを解消しないまま、そのきっかけも見つけられず、年月を重ねてしまっただけなのだ。
多分、きっと、少なくとも僕はそう思っている。
「「いただきます」」
互いに手を合わせて、食事を始めた。
具材を噛み締めながら、カレーの味を楽しみつつ、僕は過去を振り返る。
昔から僕たちの両親は仕事から帰ってくるのが遅かった。
帰宅時間は大抵が午後十時を過ぎ、酷い時は会社で寝泊りすることもある。
そうして自然と、僕と更紗は小学校を過ぎたあたりから中学二年の終わり頃まで、毎日交代で晩飯を作り、静謐な夜を賑わせていた。
そういえば更紗が当番の日に、僕が「いただきます」を言わず料理に手を付けた時、こっぴどく叱られたこともあったっけ。
冷ややかな視線を送る更紗に、僕は必死に頭を下げ続けた……というか、ほぼ土下座に近かったような気もするが、今となっては懐かしい記憶である。
過去を懐古していると、ふと、更紗が顔を上げてにやりと微笑んだ。
「明日は凜々人の番だからね」
「……え? まさか、これから毎日交代で?」
「当たり前でしょ。だって私たち、恋人同士なんだよ?」
「うっ、それはそうなんだけど……」
僕は慌てて顔を逸らした。
改めて僕と更紗が彼氏彼女の関係になったのだと実感し、つい頬が熱くなる。
「あー、凜々人が照れてるー、可愛いところもあるんだね?」
「うるさい……更紗だって勢いに任せて告白した後、急に恥ずかしさが込み上がってきて悶えていたくせに」
「え、えっ⁉︎ な、なんでそれ知ってるの⁉︎ 落ち着くまでトイレにこもってたのに!」
「……ごめん、誤魔化すために適当に言ったつもりだったんだけど……君、トイレの中で悶えていたのか」
「ぁぅ〜〜〜〜…………」
更紗は顔を通り越して耳先まで赤くしてしまう。
そしてわざとらしく咳払いをし、話題転換を図った。
「そ、そうだっ! 帰ってくるの遅かったけど、どこに寄り道してたの⁉︎」
「あ、え、あー……駅前の本屋に、新刊を買いに……」
「なんでそんなに口籠もってるの? 本当にそれだけ?」
「う、うん、本当にそれだけだよ」
言えない――他に別の彼女ができて、そっちに時間を割いていたとか死んでも言えない。
多目的室での、もとい、花恋との件がなければ、僕がそもそも書店に寄ることすらなかったのだ。なにせ僕の自宅から高校までは徒歩圏内。駅前の大型書店はとても魅力的だが、学校帰りに行くとなると遠回りになってしまうため、普段は週末の休みに足を運んでいる。
テストの点数が悪かったとか、体育の授業が持久走だったとか、偽物の彼女が二人も出来たとか、気分転換を名目としない限り、僕が学校帰りに書店へ寄ることはない。
「むむぅ、なんか怪しいなぁ?」
浮気を勘ぐる女もかくやといった様子で、更紗はじろりとこちらを睨む。
「ま、いいや。それより、新刊ってなに買ってきたの?」
「ええっと、『だんまち』と『アオ豚』の続刊と、最近出た新刊の『終焉のハナヨメ』ってやつ」
「それツイッターで流れたなぁ。確か『異世界拷問ヒメ』の作者さんの新作だよね?」
「そうそう。この先生の作る世界観が凄い好きなんだよね。更紗が帰った後にでも読むつもりだよ」
書店に並ぶ作品はどれも賛否両論あるだろうが、僕の中の基準で、こと『終焉のハナヨメ』に関しては今年発売された新作の中で一番期待値が高い。
世界観もさるながら、それを表現するだけの構成力と文章力を持ち、「そう来たか」と思わず唸らされる巧みな伏線の数々に驚かされたのは、きっと僕だけではないはずだ。
「じゃあそれ、凜々人が読み終わった後に読ませてよ」
「別に構わないけど……更紗ってこういうファンタジーとか好んで読まないよな?」
「いざ自分で買うってなると躊躇っちゃうけど、貸してもらうなら別だよ。その代わり、私が持ってるやつも読ませてあげるから」
「いわゆる回し読みってやつか……回し読み、回し読み……?」
回し読みという単語が口から出ると、ちくり、頭の中になにかが過った。
そして、僕は椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、
「――そうだ、それだよ」
今後、更紗が課題とする文章力の改善策を閃くのであった。
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