第31話十年前②

 今日も、なんの変哲もない日々だった。見間違いのせいで、特別な日だと勘違いしてしまいそうにはなったが、結果的にいつもと変わらぬ日という結論に至った。

 学校が終われば、あとは家に向かって、帰宅を開始するのみだ。俺の学校では、下校時に集団で行動することが原則として決められているため、ある程度の人数で帰宅することになる。

 しかし、徒歩であっても数分足らずで、学校にたどり着けるような位置の家に住んでいる俺からすれば、ほとんど一緒にいる時間が無いため、それほど特別感は感じられなかった。

 周りの同級生は、『家が近くて羨ましい』などといつも口にするが、俺は少しもそんなことを思ったことがない。俺と別れた後、楽しそうに帰路につく他の生徒たちの方がよっぽど羨ましい。

 とはいえ、そんなことを一人で考えても仕方がないので、談笑しながら遠のく背中を眺めるのを辞め、玄関から家の中へと足を踏み入れ、帰宅を完了させた。

「ただいま」

 そう口にすると、俺の声は静かな廊下を微かに響かせ、すぐに消えた。その後も、特に返事は来ない。

 俺の両親は共働きのため、この時間はいつも出払っている。つまり、この状況は当然と言えば当然なのだが、この家には、もう一人返事をする可能性があった人物がいる。

 俺は靴を脱いで、揃えるようにして並べてから、手を洗い終えると、リビングへと向かった。

「ただいま」

 再びその言葉を言い放ったのは、その場に俺以外に人物がいたからだ。しかし、返事はない。喧嘩しているとか、嫌われているとか、そういう理由が真っ先に浮かんできそうな状況だが、残念ながらそうではない。

 俺の妹、桐堂紫織は本に没頭している時、何も聞こえなくなってしまうのだ。

 俺は、紫織が読書をしているのを確認し、返事が期待できないことを確信すると、リビングを横切り、キッチンへと向かった。

 秋に移り変わってきているとはいえ、日中は暑い日も変わりなくある。水筒を持参しておらず、我慢に我慢を重ねていた俺の体は、水分を欲していた。

 冷蔵庫を開け、麦茶を手に取ると、コップに注ぎ込んでいく。直接飲んでしまいたいという気持ちを抑えながら、一定の量になるまで注ぎ終えると、予想外にもお声がかかった。

「私もお茶頂戴」

「お前、気づいてたのか…」

「さっき、気づいた。おかえり」

 普通挨拶の方が先な気がするが、わざわざ指摘するようなことでもないか。俺は、先に注いだお茶を飲み干してから、追加でコップを用意し、紫織の分のお茶を見繕った。

 お茶を片手にリビングへと戻ると、紫織は再び小説へと没頭していた。その光景にため息をつき、返答には期待せず、一言添えてお茶をテーブルに置いた。

「ここに置いとくぞ」

 紫織は無反応のまま、必死に活字を追っていた。返事を求めてもしょうがないため、俺は部屋で、母親が夕飯を作りに戻ってくるのを、宿題でもしながら待つことにした。

 二階にある自分の部屋を目指すため、リビングから出ようとした時、再び不意に声がかけられた。

「お兄ちゃん…」

 俺は振り向くようにして、紫織の方へと視線を向けた。返事でもしてやれればよかったのかもしれないが、予想外の出来事だったため、そんな余裕はなかった。

 呼び止めておきながら、紫織は一向に口を開こうとはしなかった。理由はわからないが、額に汗が浮かび、本を開く手は震えていた。

「どうした?何かあったのか?」

 俺が何も言わなかったから、紫織も何も言わずに待っているのかと思い、話を促すように声をかけてみることにした。しかし、それでも紫織は何も口にしない。何を考えているのかわからなかったが、これ以上待っていても何も言い出しそうになかったため、その場を去ろうとした時、ようやく紫織が口を開いた。

「お兄ちゃんは、ゾンビって本当にいると思う?」

「は?」

 その瞬間、俺は戸惑った。あの知的なイメージの紫織から、ゾンビなどという非現実的な単語が飛び出したことすら驚きなのに、その存在の有無を問われることがあるとは…。しかし、問われた以上は、答えてやるべきなのだろう。

「あ、いや、いないんじゃないか?さすがに…」

「そう、だよね」

 聞いてはみたものの、紫織の中には既に答えがあったのかもしれない。すぐに納得したような、吐息を漏らすと、そう答えて読書を再開させた。

 もしかしたら、もっと正しい回答があったのかもしれないが、俺が咄嗟にそんな事をできるはずもないため、これで及第点ということにしてもらおう。兄として、不甲斐ないばかりだが、それにしても、紫織がそんなことを聞いてくるとは、小説を読ませすぎるのも、考えものなのかもしれない。

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