第22話洋館2F④

 その時、俺は自分が恐怖を感じた瞬間というのを、はっきりと理解することができた。今までの無意識や、反射的な恐怖とは違い、初めから自覚のある恐怖だった。

 ハンカチ越しに指を抑える手は震え、視界が揺らぐほどの動揺に襲われ、身動きどころか、思考すら不可能な状況となっていた。

 その後、再び足音が聞こえ始めた。俺は、音を辿るように視線を廊下側の壁へと向け、化け物の行方を目で追っていく。次第に足音は薄れていき、扉を開ける音と共に足音が聞こえなくなった。

 そこでようやく、固唾を飲むほどの余力を取り戻し、呼吸と思考が再開された。

 今の声は一体なんだったんだ…。明らかに人間の声帯とはかけ離れたような声色で、声と表現するのも憚られるようなそれは、俺の恐怖心を強めた。

「大丈夫?…ごめんなさい。思わず引き金を引いてしまったわ」

 俺が黙って俯いたままだったのが、不安に感じたのか、複雑な表情を浮かべたスピカから謝罪の言葉が投げかけられた。

「いや、スピカが撃ってくれなかったら、どうなってたかわからなかった。あれは、いい判断だったと思うよ。結果的に、無事だったわけだし」

「無事…」

 囁くように言うと、一瞬視線が俺の手に向けられた後、背けるように壁面へと向けた。彼女の表情を見れば、何を考えているのかはほとんど理解できた。

「俺の指のことは、気にしないでいい。一本無くなったところで、物も持てるし、左だから銃だって撃てる。それより、問題は今の声だ。スピカはどう思う?」

 俺が問うと、スピカは不思議そうな表情を浮かべてこちらを見た。俺があっさり返答したのが意外だったのかと思ったが、そういうわけではなかった。

「声?何のことを言っているの?」

 予想と違う反応に、思わず質問に質問で返してしまった。

「え?スピカは聞こえなかったのか?」

「だから、なんの話?もしかして、私を脅かそうとしてる?」

 どうやら、スピカは本気で言っているようだ。いくら周囲が静寂そのものとはいえ、さっきの声は声量も無ければ、声と認識することも難しいのかもしれない。どうやら、スピカには聞こえなかったみたいだ。

「さっき化け物が扉の向こうにいた時、確かに聞こえたんだ。でも、もしかしたら声じゃなかったかもしれない。何を言ってるのかもわからなかったし…」

 そう言うと、今度は目を見開き驚いた表情を浮かべた。その後すぐに、我に帰ったように思考を始め、視線を逸らした。

「えっと。…それって、さっきまで私たちを追いかけていた化け物とは違う奴が、そこにいたってことになるのかしら?」

「今までと違う箇所が多いことを考えれば、そういうことになるだろう」

 二人で一つの結論が出たところだったが、会話に夢中になっていて、近づいてくる足音に気づかなかった。俺たちが気づいたのは、ドアノブに何者かが触れ、ガチャガチャと鳴らした音に対してだった。

 もしかしたら、会話が聞こえていて、それに対しての反応を見せたのかという思いが、絶望にも似た感情を産んだ。取り返しのつかない致命的なミスを犯してしまったのかと悔いながらも、必死で口を覆って、音を掻き消した。

 廊下からは、それ以降何もアクションが無かったが、耳を澄ますと聞こえてくる、粘膜のような液体が接触し合う、気味の悪い音が聞こえてきた。

 この音は、食堂で化け物がゾンビを吸収する時に聞こえてきた音だと気づいた。つまり、今扉越しにいるのはさっきとは別の化け物だと言うことだ。

 外にいるのが化け物である事実は変わらないが、鍵をかけていれば入ってこないことを知っている上、声が聞こえないと言う状況に、俺は安心させられた。


『ドス…、ドス…、ドス…、ドス…』


 静かに待っていると、やがて足音が聞こえ始め、遠ざかっていき、聞こえなくなった。

 息を吐き捨てると同時に、現状の状況を確認するという意味も込めて、口を開く。

「隣の部屋に化け物が入っていったのは間違いないだろう。つまり、俺たちが今しないといけないのは、安全面を考慮した別の探索ルートを見つけることなんだが…」

 口に出してみたものの、化け物が二体も歩き回ってるような場所を安全に探索するルートなど思い浮かぶはずはない。

「扉の開く音は、間違いなく隣の部屋からだったわね。でも、どうするの?もしかしたら、もう一つ向こうの部屋だったら入れるかもしれないけど…」

 そう伝えるスピカの表情は、不安に満ちていた。スピカの言う通りにするとしても、化け物のいる部屋の前を通ることになる。偶然にも出会すことを考えれば、ここで待っているのが無難だが、この雰囲気の閉鎖空間に長居していると、精神へ深手を負うリスクが伴う。

 すでに、体の重さや視界の不安定さ、そして何より恐怖から、精神面の疲労を感じさせられている。だが、これはスピカも同様のはずだ。

 お互いのメンタル状態を加味すれば、今は少しでもプラスな現状を、この場で示唆しておくのが最善だろう。

 そう考え、今の状況からプラスになりそうな場面の存在を思考した。そんな時、別の目的地と同時に、あることを思い出した。

「そういえば、廊下にいたゾンビはどこから現れたんだ?」

「…ゾンビ?それは、どこかから歩いてきたんじゃないの?…、もしかして」

「そうだ。あのゾンビが、二階に上がった時に見つけたゾンビだったなら、今あの廊下を塞ぐ邪魔はいないことになる」

 不幸が幸福へと転じる瞬間には、希望が宿る。憶測でも、希望的観測であっても、今は小さな喜びにすら希望を感じられる。

「あのゾンビがいる限り通ることができなかったあの道が通れるようになったのは、大きな戦果だ。そうなれば、次の目的地は、当初予定していた通り…」

「四角い印の場所ね」

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