第6話 意識④


廊下に並んでいたドアを開けて内部を見ると、頭からコードを何本も伸ばした男性が簡易ベッドに横になっていた。

入口の横の壁に男性の名前が書いてあったので、その男性の研究室ということなのだろう。

その男性の頬は痩けており、肌も白く血色が悪く見えた。

さらに袖口から見えている手首には針が刺さって点滴と繋がれており、また足首からふくらはぎにかけては、肉が全く削げ落ち骨のすぐ外側に皮膚があるような状態で、非常に痩せ細っていることが見てとれた。


――これ、このまま彼を起こしたとして、現実世界で果たして生きていけるのかしら……? 筋力とかとても衰えていそうだし……。

とハナは思ったが、それを判断するのは私ではなく研究者本人だと思い直した。


さらに廊下を進み、ドアを開けつつ進んでいったが、どこも似たような光景が広がっていた。

強いて違いをあげるとすれば、男性・女性が変わるのと、部屋の散らかり具合が異なることくらいであろう。

ハナとイヴはそのまま2階から4階まで見て回った。

2階と3階は同じような研究室がずらっと並んでいたが、4階部分だけが手術室と病室、減圧室とのことで、誰もいないようだった。

研究所内でぐっすりと安心して眠りこけている研究者達を見て回るうちに、果たしてこの研究者達にとっての幸せは何だろうか、とハナの頭の片隅に疑問が浮かんだ。


ハナはそんな疑問に思いを馳せつつ、イヴと待合スペースまで戻ってきて、現在の世界が置かれた状況の説明をし始めた。

「『霧』は人に忘却をもたらし、長時間浸っていると理由はわかりませんが『消滅』します。そしてこの『霧』は世界中に充満しており、標高500m以下は全て『霧』の中と言われています。私が色々巡った限りそれは正しそうでした。人類の大半が消えたにもかかわらず、食糧事情は厳しく、餓死者が絶えない状況です。『霧』の解毒薬は全く作られる見込みはなく、というより、科学技術が何世紀分も衰退してます」

ハナは率直に現在の研究所の外の状況を伝えた。

「一部の私みたいな、先天的に『霧』の忘却効果を受けない人が、『霧』の中で活動をしています。それでも全体からしたら非常に数は少ないです。希望はあまり無く、ただただ徐々に衰退している、というのが現在の状態です」


――こんな厳しい『忘却の霧』が発生した現実で生きるのが幸せなのか、それとも意識の中にあって、『忘却の霧』の発生していない仮想的な『現実』世界で一人で幸せに暮らす方が幸せなのか……。

よくわからない、とハナは思った。


またハナは昼間に読んだ昔の小説の内容も思い出していた。

――何が幸せかは結局のところ当人にしか決められないんだよなぁ……。

とハナは考えて、正直にある提案をした。


「イヴ、私は研究者を一人ずつ私の小さなバイクに乗せて、近くの『霧』に覆われていない村に運ぶことは可能です。ただ、その近くの村が部外者である研究者を受け入れてくれるかはわかりません。食糧事情はどこも厳しいですから。それでも、私はこの現実世界に戻りたい人に対して手助けすることができます。あと1年弱しか生命維持は出来ないのですよね? 今後私のような潜霧士ダイバーがいつこの研究所を訪れるかもわからないですし、もしかしたら、霧を脱出する最後のチャンスかもしれませんが、いかがでしょうか……」

「……ハナ様……ご提案、誠に感謝いたします。私はこれまで自意識に接続中の彼らに話しかけたことはないのですが、彼ら全員に尋ねてみたいと思います。これを逃すと、ハナ様のおっしゃるように、今後1年以内にもう現実に戻れるチャンスは無い可能性もありますし……、その辺りも伝えたいと思います」


イヴは俯いてぼんやりした目で地面のある一点を見つめていた。十数分その状態が続いた。

その後ようやく、イヴの目に光が戻ってきた。

「……、残念ながら全員が拒否とのことでした……。しかも『もう話しかけるな』と言う研究者もいらっしゃいました。きっと意識の世界であることすら忘れている人もいたのでしょうね……」

イヴは少しだけ物悲しい表情で言った。


「……そうですか、それは仕方がありませんね……」

ハナも研究者らの選択に何一つ文句を言える立場に無いにもかかわらず、何故だか少しだけ憂鬱な気分になった。

――残り1年弱の命とわかっていても、『忘却の霧』が発生した絶望的な世界よりも、これまで通りの安寧と秩序が保たれている『霧』以前の世界の方が、彼らにとっては幸せなんだろうな。

とハナは自分を納得させることにした。


その日は既に夜も遅くなってしまっていたため、ハナとナギは4階の患者用ベッドを借りて一晩を過ごすことにした。

清潔なベッドでの睡眠は非常に気持ちが良かった。

翌日、研究所を出ようとすると、ハナとナギはイヴに呼び止められた。


「ハナ様、昨日はありがとうございました。そういえば、その時のお礼の品をまだお渡ししていなかったかと思いますので、こちらを差し上げますね」

そうイヴは言うと、イヴは大量の紙を差し出した。

数十枚ごとに簡単に製本がされており、その表紙にはハナの理解できないタイトルがつけられていた。

曰く「線型空間におけるホモロジー平面の振る舞いについて」

「拡張意識下における拡張意識の回帰的影響とその無視できない揺らぎの考察」

「マルチフィジックストポロジー最適化問題と拡張意識の関係性について」

「『霧』の成分の分光分析及び核磁気共鳴分析結果とそれが示唆する脳への影響の考察」

などなど。


「何ですかこれ?」

とハナは尋ねた。ナギは遊ぶように嘴でパラパラと最後の『霧』に関する冊子をペラペラとめくっていた。

「私の口では内容を詳しく説明できない、みなが欲しがるものです」

「いや、そういうことでは無く……」とハナが言ったところで、ハッと気づくことがあった。

「これ、研究者が意識世界の中で書いた論文ってことですか?」

「部分的に以前から書かれていて、意識世界で仕上げたものも含まれますが、要するにそういうことです。是非ともハナ様にはこの研究結果をどこかに伝えて、今後の日本ひいては世界の科学技術の発展に活かして欲しいのです。それが当研究所の研究者一同の願いなのです……」

イヴはロボットであるにもかかわらず、研究成果がここで途切れてしまうことに対して、切実な思いを持っているようだった。


――昨日、科学技術が何世紀分も衰退しまくったって説明したの、覚えて無いのかな……。

ハナはそう思いつつも、イヴの熱のこもった視線に受け取らざるを得なくなってしまった。

「あ……、ありがとうございます……。が……ガンバッテ活用します……」

と返答するしか無くなっていた。


そうして、ハナとナギは大量の論文の束を抱えて研究所から外に出た。

「ハナ、この紙束どうするの? 燃やす?」

ナギはいつもの調子で明るく言ってきた。

「正直めちゃくちゃ重たくて、いちいちそんなスーパーカブで運べないから確かに燃やしたいけど……、でもなぁ……イヴの思いを踏みにじるのもなぁ……」

「そうだねぇ」とナギは言っているが、間違いなく何も考えていない。

「でも、持ち続けるのも重たいし……」

とハナが研究所の外で周囲を見回していると、ある建物に気づいた。

「あ、そうだ」


ハナはそちらの建物内に入り、本棚の隅っこにその論文の紙束を置くことにした。

「いつか『霧』が晴れて、この図書館がもう一度活用されるくらい文明水準が回復したら、この宝の山である論文たちも見つかるし、これならイヴも文句は無いでしょう。……まぁ、それが10年後か100年後かいつになるかはわからないけど、私が持っているよりは遥かに良いでしょ……」

ハナはそう言って、図書館に並んだ本棚の『次に消滅する知識』リストの最後尾にその論文集を付け加えた。

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